9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
9:26 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。
9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
一、信仰と服従
きょうの主題は、もとのカリキュラムでは “Cost of Discipleship”(弟子となる代価)となっていました。この言葉が広く使われるようになったのは、ヒットラーに抵抗したドイツの牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーがそれを使ってからでした。『キリストに従う』という本の中で、彼はこう言っています。「人間は、<信ずる者だけが従順である>という命題を受け入れることによって、安価な恵みに毒されているのである。」ドイツは宗教改革者マルチン・ルターを生んだ国です。ルターは、「人はキリストの恵みにより、信仰によって救われる」という聖書の教えを再発見し、そのことを強調しました。「罪ある人間が自分の善良さや、善行によって救われようとするのは、思い上がったことである。人が救われるのは、人の罪のために身代わりとなってくださったキリストの恵みを信じることだけによる。」これはドイツ人なら誰もが知っていることでした。ところが、ドイツのキリスト者は、「信じることは従うこと」という真理を忘れてしまいました。キリストへの信仰を教理の項目を頭で理解し受け入れることに、信仰の生活をキリスト教の形式を守ることにすり替えてしまったのです。キリストの恵みは、安楽椅子のようにそこに座り込むための「安っぽい恵み」ではないと、ボンヘッファーは教えました。
ボンフェッファーの時代、ヒットラーが政権を取ると、ドイツの90パーセントの人々は彼を英雄扱いして支持しました。人々は時代の波に乗せられてしまいました。教会は、いつの時代も、時代を導く光にならなければならないのですが、その時のドイツの多くの教会はヒットラーと妥協し、外国への侵略とユダヤ人虐殺の片棒を担ぐことになってしまいました。そんな中で、ボンヘッファーは「信じるならば、第一歩を踏み出せ! その第一歩がイエス・キリストに通ずるのである」と叫びました。彼は、人にそう教えただけでなく、大学教授の資格や約束された将来を捨てて、非合法の「告白教会」の牧師となりました。そして、ヒットラーのように自分を神とするような独裁者と信仰の闘いをしました。ただキリストにだけ従い続けるという道を歩みました。
イエスは人々に、自分の回りに群がる「ファン」になるだけでなく、どこまでも従い続ける「弟子」になることを求めました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(23節)ボンフェッファーが「信じることは従うことである」と言ったのは、このイエスの言葉に基づいていました。私たちも、キリストの弟子となり、キリストに従うことによって、キリストの恵みを、私たちを救い、支え、導く、本当に尊いもの、「高価な恵み」として保っていたいと思います。
二、十字架を負うことの意味
イエスの弟子になりたい。信仰が、たんに形だけのものではなく、実際の生活の中で生きて働くものであるようにと願う人は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との言葉にこたえなければなりません。この言葉にこたえて行う実際の行動は、人それぞれによって違うでしょうが、すべての人に共通して求められていることや、誰もが覚えておかなければならないことがあります。
それは、まず、「十字架」とは「苦しみ」や「患難」とは同じではないということです。聖書に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ4:3-4)とあるように、人生の中で味わう様々な試練によって、人は神を求め、忍耐を学び、他の人を思いやる心を与えられ、成長していきます。ですから、「苦しみ」や「困難」には意味があり、目的があるのですが、それは、イエスがここで言っている「十字架」とは同じではありません。イエスは、十字架を自分から「進んで背負うもの」としていますが、人生の重荷は自分から進んで背負うものではありません。むしろ、イエスが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言っているように、それはイエスのもとに下ろすものです。「私はこの試練を十字架と思って背負います」「この苦しみは私の十字架です」という言葉を聞くことがありますが、そうした人生の試練、苦しみは、きょうの箇所で教えられている意味での「十字架」ではありません。
次に、「十字架」は文字通りの、ローマ時代の処刑の道具だけを意味していません。十字架刑を受ける者は、自分でその十字架を背負って、刑場まで歩かせられましたが、ユダヤの人々は、総督がローマからやってきて、ユダヤの自治権が取り上げられて以来、そうした光景をあちらこちらで見てきただろうと思います。イエスが「十字架を背負う」ことを話したとき、弟子たちは文字通りの十字架を思い浮かべました。使徒たちをはじめ多くの弟子たちは、実際に十字架にかけられ殉教していきました。しかし、イエスは、この言葉を、直接の弟子だけでなく、十字架刑が過去のものとなる後の時代の弟子たちにも語っており、「日々自分の十字架を負って」と言っています。実際の十字架なら、そこで命が終わるわけですから、十字架を背負うのは一回限りで、「日々」という言葉は当てはまりません。イエスは「日々」という言葉を付け加えることによって、私たちに、実際の十字架とは別のものを教えようとしているのです。
では、それはいったい何なのでしょうか。それを理解するには「十字架を負う」という言葉の前に「自分を捨て」という言葉があることに注意しなければなりません。原文のとおりに訳すと「自分を否定し、そして、十字架を取り上げよ」となります。「自分を否定する」という言葉と「十字架を取り上げる」という言葉が、「そして」で結ばれています。この場合の「そして」は、「つまり」とか「すなわち」という意味になります。「自分を否定する」と「十字架を取り上げる」は、それぞれ同じことを、別の言葉で言い換えたものということになります。「自分を否定する」という目に見えない行為が「十字架を背負う」という目に見える行為で言い表されているのです。
では、「自分を否定する」とはどういうことなのでしょうか。どんなことでも遠慮をして自分を主張しないとうことなのでしょうか。現代では「自己否定」という考え方は好まれません。人々の心の病の原因はすべて、自分を受け入れて欲しいという欲求が満たされないからであり、自分を「あるがまま」で受け入れればよいのだという考え方が支配的です。聖書には、神が私たちを「あるがまま」で受け入れてくださると言っている箇所があります。「放蕩息子」のたとえでは、父親は、落ちぶれ果てた息子のほうに、自分から走り寄って彼を抱きしめています。エリコの町では、イエスはザアカイというその町一番の嫌われ者の客となりました。「いさおなきわれを」という賛美は、英語では “Just as I am ….” と歌われています。しかし、放蕩息子が父親のところに帰ってきたのは、彼がどん底まで行ったとき、自分の惨めな姿を見て、自分はこれではいけないのだと気づいたからでした(ルカ15:17)。そして、父親のもとに帰ったとき彼は今までの彼ではなくなりました。晴れ着を着せてもらい、履物を履かせてもらい、息子のしるしである指輪をはめてもらい、彼は全く変わったのです(ルカ15:22)。ザアカイもイエスを迎えた後、以前のザアカイではなくなりました。彼は、「財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(ルカ19:8)と誓いました。神の愛は私たちを「あるがまま」にしておきません。私たちを神が望んでおられる姿に造り変えるのです。生まれつきの罪の性質のまま、自己中心な思いのままで生きることが、「あるがまま」だというのは間違っています。それは「あるがまま」ではなく、「わがまま」です。「いさおなきわれを」の賛美で “Just as I am ….” というのは、「私は、自分で自分を肯定しません。キリストの恵みによって私を受け入れてください。私は、神が受け入れてくださったように自分を受け入れます」ということを言っているのです。
聖書が教える「自己否定」とは、キリストを知る前の古い自分を死なせ、キリストにある新しい人として生きることです。それは、自分を神の手に任せ、神の思いのままに造り変えていただくことを意味しています。キリストを信じた者は、バプテスマによって古い人に死に、新しい人となりました。しかし、それですべてが終わったのではありません。その「新しい人」は日々に新しくされ、形造られていかなくてはなりません。「日々十字架を負って」とあるとおりです。この「日々」という言葉には、「コンスタントに」「生涯にわたって」という意味があります。古い自分に死に、新しい自分に生きる、それは、バプテスマの日から始まり、生涯の間、一日も欠かすことなく続けられるものなのです。「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との言葉は、そのような歩みへの招きなのです。
三、時代の中で
「日々」という言葉は、また、「時代」をも意味します。信仰者はそれぞれの時代に、それぞれの信仰の決断をして、キリストに従ってきました。そして、それが、新しい時代を切り開くものとなりました。ボンヘッファーにはアメリカに亡命して自分の命を救う機会がありました。実際、彼はニューヨークまで来たのですが、一ヶ月いただけで、ドイツに帰る決断をしました。その決断は、その時の感情や思いつきでなされた、軽率なものではありませんでした。彼は深く祈る人で、その決断は、神の前に出て、「何がキリストに従うことなのか」を問い詰めた結果でした。ボンヘッファーはアメリカを去る時、こう言っています。「私は、故国のこの困難な時期を、ドイツのキリスト者と共に生き抜かねばなりません。もし私がこの時代の試練を同胞と分かち合うことをしなければ、私は、戦後のドイツにおけるキリスト教的生活の再建に参与する権利を持てなくなるでしょう。」それは1939年夏のことで、その年の9月、ドイツはポーランドを侵略し、第二次世界大戦が始まったのです。それからおよそ6年、1945年、終戦の年の4月にボンヘッファーは処刑され、彼が希望していた戦後ドイツの再建にかかわることはかないませんでした。しかし彼の目指したことは、同志たちに引き継がれ、ドイツは見事に復興しました。
今の時代は80年前の第二次世界大戦勃発の時と変わらないほど、大変困難な時代です。2020年になって、突然の「コロナ禍」によって私たちの生活は一変しました。この感染症のため、世界で1,200万人が感染し、半分の60万人が亡くなり、もう半分は回復ということですが、今も闘病中の方が多くいます。家族を失った人の悲しみ、仕事を失った人の労苦はどんなに大きいことでしょう。在宅勤務といっても、決して楽なものではなく、家族のための時間やプライベートな時間が削られ、かえってストレスが増えたと感じている人のほうが多いでしょう。精神的に不安定になった、家庭内暴力がひどくなったという訴えも増えています。
「コロナ禍」は経済に大きな打撃を与えました。中小企業は倒産し、町の商店は悲鳴をあげています。大企業といえども収益が低下し、多くの従業員を解雇しなければならなくなりました。国家財政も圧迫されています。こうした経済活動の変化は、世界の政治に影響を与え、国と国との関係を損ね、力のバランスの崩れから、何が起こっても不思議ではない状況が生まれています。
この現実の中で、イエスを信じ、イエスに従うとはどうすることなのでしょうか。私たちが払うべき「弟子の代価」は何なのでしょうか。それは簡単には答の出ないことです。しかし、イエスの弟子でありたいと願ってする私たちひとりひとりの行動は、たとえ小さくても、「コロナ後」の世界を変えていくと信じます。「日々」という言葉には「日常」という意味もあります。この時代を見据えながらも、「日常」のひとつひとつを、イエスに従う者、キリストの弟子として実行していきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、今、この時に「自分を否定し、十字架を取る」ことが何を意味するのか、それを私たちの日常でどう実行すればよいのか、なおも私たちに教えてください。そして、それを行う力をキリストの恵みによって与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/12/2020