わたしを誰と言うか

ルカ9:18-22

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9:18 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
9:19 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」
9:20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」
9:21 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。
9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

 一、人々の意見

 きょうの箇所は、マタイ16:13によると、「ピリポ・カイザリヤ」という場所での出来事です。ヘロデ大王の死後、その領土は三人の息子たちに分割されました。ユダヤとサマリヤがアケラオに、ガリラヤとペレアがアンティパスに、そして、イッツリアとテラコニテがピリポにです。アケラオが引き継いだユダヤとサマリヤは、やがてローマから派遣された総督ピラトが治めることになりましたが、アンティパスとピリポはそれぞれの地域の領主として残りました。このことは、ルカ3:1にこう書かれています。「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」

 イエスが「パンの奇蹟」を行ったベツサイダはピリポの領地でした。そこから北へまっすぐ40マイルほど上ったところにあるのが、ピリポ・カイザリヤです。「カイザリヤ」という名前は「カイザル」(ローマ皇帝)を称えて名付けられました。サマリヤの海岸にも「カイザリヤ」という港町がありますので、それと区別するため、こちらは「ピリポ・カイザリヤ」と呼ばれました。

 「ピリポ・カイザリヤ」はヘルモン山のふもとにある風光明媚なところで、ガリラヤ湖の水源地となっています。イエスは弟子たちに休息を与え、また、確かな信仰に導くため、ふだんの場所から離れてここに来ました。キリスト者にとって毎週の日曜日は安息日ですが、教会の奉仕で忙しくしてしまい、心身を十分に休めることができないこともあります。それで、多くの教会では、年に一度は、日常から離れ、自然の中で時を過ごすリトリートを行っています。そうした中で、リフレッシュされ、恵みに満たされ、新しい歩みのため備えられるのです。これはイエスと弟子とのリトリートだったのです。

 今日の箇所から少しあと、ルカ9:51に「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ…」とあります。ピリポ・カイザリヤはイエスが旅行した最北端で、このあとイエスは南へと向かっていきます。それは十字架が待っている最後の旅行でした。イエスは、このリトリートによって、弟子たちをエルサレムへの最後の旅行に備えさせようとしたのです。

 この時、イエスは弟子たちに二つの質問をしました。ひとつは「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」(18節)で、もうひとつは「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(20節)です。似てはいますが、違う質問です。最初の質問は、「人々はイエスのことをどう考えているか」というのものです。これは、ふたつ目の質問に導くためのものですが、この質問も大切ですので、弟子たちがどう答えたかを見ておきましょう。

 「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」この質問に、弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています」(19節)と答えました。

 弟子たちが、まず「バプテスマのヨハネ」の名をあげたのは、バプテスマのヨハネの死後すぐにイエスの活動が本格化したので、人々が「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ」(マルコ6:14)と言っていたからです。バプテスマのヨハネは、預言者マラキ以来、400年目にして現れた預言者で、その登場は人々を興奮させました。それにくらべ、イエスの活動は、最初は目立たないものでしたので、イエスをバプテスマのヨハネの弟子のひとりと考える人もいたのです。しかし、バプテスマのヨハネ自身は、「私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません」(ルカ3:16)と言って、イエスを「来たるべきお方」、キリストであると証言しています。

 次の答は「エリヤ」です。エリヤは列王記第一17章から列王記第二2章に登場する預言者で、バアルの預言者と闘った人です。彼は、預言者の中で最大の人物とされ、ユダヤの人々にとっては英雄的な存在でした。聖書に、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4:5)とあるので、人々は、イエスを聖書に約束された「エリヤ」だと考えたのです。しかし、イエスは、バプテスマのヨハネが「エリヤ」であったと言っています(マタイ17:11-13)。人々は、「昔の預言者のひとりが生き返ったのだ」とも言っていましたが、イエスは、そうした預言者以上のお方です。

 「人々はわたしのことをだれだと言っているか。」現代ではどんな答になるでしょうか。信仰を持たない人たちは、イエスを多くの人に影響を与えた人物として称賛したとしても、志なかばで殉教したひとりの人としか考えていません。聖書に親しむことのない日本の人々の間では、イエスはキリスト教の教祖でしかありません。また、自分たちに関係のない人、日本人には必要のない人という考えを根深く持っています。イエスに対する人々の考えが、二千年たった今も、ほとんど変っていないのは、残念です。

 二、あなたの信仰

 では、第二の質問に移りましょう。イエスは「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(20節)と問いました。ここで、イエスは、人々の意見や考えではなく、弟子たち自身の意見と考えを尋ねています。第一の質問が「客観的な」質問だとしてら、第二の質問は「主観的な」質問です。いや、この質問には、「あなたにとってわたしは誰なのか」という意味がありますから、「人格的な」質問と言ってよいでしょう。

 聖書の真理を客観的に学ぶだけなら、「物知り」にはなれても、聖書が生きる力となり、喜びとなり、慰めとはなりません。聖書に書かれていることを、他人事としてではなく、自分のこととして読む必要があります。イエスの教えを聞き、奇蹟を見てイエスを信じた人もいれば、信じなかった人もありました。イエスに従った人もあれば、イエスのもとから去っていった人もありました。イエスを慕い求めた人もあれば、イエスを妬み、憎み、そして斥けた人もありました。そうしたことを読み、学ぶとき、「私だったらどうしただろうか」と考えて見ることが大切です。そのようにしてはじめて、私たちは「わたしを誰と言うか」という質問に答えることができるのです。

 この質問に、真っ先に答えたのはペテロです。ペテロは答えました。「神のキリストです。」(20節)ここはマタイでは、もっと完全な形で「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)となっています。

 イエスはペテロが答えたとおり、神の御子キリストです。イエスは、大祭司から「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」と言われたとき、「あなたの言うとおりです」と、はっきりと答えています。イエスが神の御子キリストであることは、聖書が預言し、バプテスマのヨハネが証言し、イエスご自身がそう語り、イエスの行った奇蹟が証明しています。イエスと四六時中行動を共にした弟子たちも、その体験から、イエスが「神の御子キリスト」であると、告白し、証ししているのです。

 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」これは、「わたしを誰だと言うか」という質問の「正解」であり、「模範解答」です。私たちはすでに答を知っています。しかし、知っていることと、それを理解し、確信することとは違います。アメリカの教科書には、練習問題の答が別のページに載っていることがあります。こどもたちが計算問題の宿題をするとき、その答を写すだけでは、ほんとうに問題に答えたことにはなりません。なぜその答になるのかということを理解することが大切なのです。イエスの質問への答も同じです。イエスは私たちに「あなたはどう答えるのか」と、ひとりひとりに問いかけています。私たちは、「私とあなた」という人格の関係の中でイエスと向き合って、それに答えなければなりません。イエスはそうした答を求めているのです。

 「あなたはわたしを誰だと言うか。」この問いに、皆さんは、すでに答えましたか。そう答えたことで、皆さんは何を得ましたか。人生がどう変わりましたか。イエスは、さまざまな場面で、「あなたはわたしを誰だと言うか」「わたしはあなたにとって誰なのか」と、私たちに問い続けています。私たちは、その問いに答え続けているでしょうか。イエスの問いに答え続けていくこと、それが、信仰の生活なのです。

 三、告白の力

 イエスは、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えたペテロに、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」(マタイ16:17)と言って祝福を与えました。ところが、イエスは、「このことをだれにも話さないようにと、彼ら(弟子たち)を戒め」ました(21節)。なぜでしょう。それは、イエスがまだ十字架の苦難と復活を通っていなかったからです(22節)。人々はキリストを、その力と栄光によって敵を打ち破り、人々に救いを与えるお方と考えていました。しかし、イエスはこれから向かうエルサレムで、人々から斥けられ、辱められ、苦しめられ、敵の手に渡されて殺されようとしているのです。キリストが苦難を受けることは聖書に預言されていたことでしたが、この時、人々はそのことをよく理解していませんでした。それで、イエスは復活の後、それによって十字架の意味を解き明かそうとしました。復活を、ご自分が「神の御子キリスト」であることの証明として用いようとしたのです。それで、イエスは、この時は、「イエスはキリスト」という信仰の告白を心のうちに秘めておくように命じたのです。

 しかし、復活の後は違います。ペテロはペンテコステの日の説教でこう言いました。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24)「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(32節)「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(36節)「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」というのは、人間イエスが復活の後、神の御子キリストになったという意味ではありません。イエスはもとから神の御子です。神の御子が人間イエスになったのです。これは、復活によって、イエスが神の御子キリストであることが明らかになったという意味です。

 イエスの復活の後、弟子たちは、イエスが神の御子キリストであると宣べ伝え、人々はそう告白して救われていきました。ローマ10:9-10に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とある通りです。「イエスは神の御子キリスト。」この告白には人を救う力があります。私たちは礼拝のたびごとに使徒信条で「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と唱え、主に向かって、「あなたこそ、生ける神の御子キリストです」と告白しています。また、この告白は、私たちを救うだけではなく、この告白を聞いてキリストを信じる人々を救う力があります。「イエスは神の御子キリスト。」この告白がもたらす救い、祝福、力、恵みは、人々に分け与えることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは数々の奇蹟によってイエスが神の御子キリストであることを証ししてくださいましたが、今は、イエスの復活によって、そのことをより確かなものとしてくださいました。イエスの復活の後に生きる私たちは、「イエスは神の御子キリストです」と告白し、証ししていきます。どうぞ、私たちを、真実で、大胆な告白へと導いてください。イエスのお名前で祈ります。

8/23/2020