8:43 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、
8:44 イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
8:45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言った。
8:46 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われた。
8:47 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
8:48 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」
「ペンテコステ」と「三位一体主日」を終えましたので、通常のカリキュラムに戻りましょう。きょうの箇所は、イエスのガリラヤでの宣教の一場面ですが、ここから、イエスがどのような人を、どのような時に、どのようにして救ってくださるのかを学びたいと思います。
一、救いの対象
最初にイエスがどのような人を救ってくださるのかを学びましょう。きょうの箇所には12年間も病気に苦しめられてきたひとりの女性がイエスによって癒やされたことが書かれています。けれども、彼女はこんにちまで「長血の女」と呼ばれるだけで、名前は知られていません。彼女ばかりでなく、大勢の人がイエスの特別な力を体験し、また、立派な信仰を言い表していますが、聖書はその人たちの名前を残していません。
ルカ5章に、全身をツァラートに冒された人のことが書かれています。この人は「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」(ルカ5:12)と言って、イエスを信じました。「信仰とは神がお出来になると認めることではなく、それをしてくださると信じることである」“Faith is not believing that God can. It is knowing that God will.” という言葉がありますが、この人は、イエスが「できる」というだけでなく「してくださる」と信じたのです。素晴らしい信仰を持った人でしたが、この人の名前は残されていません。
ルカ7章には、ある百人隊長が自分のしもべのためにイエスに癒やしを願ったことが書かれています。人々はこの百人隊長について「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です」(ルカ7:4-5)と言いました。けれども彼は、使いの人を通してイエスにこう伝えました。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。…ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(ルカ7:6-7)これを聞いたイエスは「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」(ルカ7:9)と言って彼の信仰を誉めました。けれども、この人の名前も聖書に書かれていません。
なぜでしょう。それは、福音書がイエスの御名を知らせ、あがめるために書かれたからで、私たちにとって大切な名はイエスの御名の他ないからだと思います。しかし、それと同時に、このことは、イエスが、「名も無き者」たちに心をかけ、そうした人々に手を差し伸ばしてくださることを伝えているのだと思います。
有名であるか無名であるかは救いに何の関係もありません。この世で、人々の間で、どんなにその名が知られていても、天で、神に知られていなければ、その人の人生には何の意味もありません。イエスは弟子たちに言いました。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)あなたは、どちらを願いますか。あなたの名が、地上で、人々に知られることでしょうか。それとも、天で、神に覚えられることでしょうか。地上でその名が知られても、それはほんのわずかな期間だけで、やがて忘れられていきます。しかし、イエスの御名を信じる人の名は、天で、永遠に覚えられるのです。名もない者にさえ、心をとめ、その名を天に記してくださるイエスの恵みに感謝しましょう。
二、救いの時
次に、イエスがどのような時に人を救ってくださるのかを学びましょう。この女性の癒やしは、イエスが、死にかけている会堂司ヤイロの娘を助けるために道を急いでいる時に行われました。イエスの回りには、いつものように大勢の人々が群がっていて、イエスの進む道をふさいでいました。ヤイロはイエスの前に立って、「娘が死にそうなのです。道をあけてください」と、必死になって叫んでいたことでしょう。ところが、イエスは、その途中で足を止め、「わたしにさわったのは、だれですか」と言って、群衆を見回しました。誰も名乗りでませんでした。それでもイエスは黙って、人々を見回しました。しばらくの間沈黙の時が続きました。癒やされた女性は、そっとそこを去るつもりでしたが、隠しきれないと知って、震えながらイエスの足もとにひれ伏して、自分がイエスにさわったわけと、その時、即座に病気が癒やされたことを話しました。これを聞いていた会堂司ヤイロはどう思ったでしょうか。きっと、「イエスさま、どうしてこんなところで時間を使っているのですか。急いで、私の娘を助けてください」という気持ちになったことでしょう。この女性に対しても、「あとで治してもらえばよいのだ」とさえ思ったかもしれませんが、それも無理もないことだと思います。その女性が去った時、ヤイロは娘が亡くなったという知らせを聞きました。「ああ、間に合わなかったか。いまさら、イエスさまに来ていただいても、もう遅すぎる。どうしてイエスは急いでくださらなかったのだろう」と思ったことでしょう。私たちも、問題がなかなか解決しなかったり、祈りが聞かれなかったりすると、「イエスさま。どうして、早くしてくださらないのですか」と言いたくなることがあります。ですから、ヤイロの気持ちはよく理解できます。
詩篇70-71篇には「神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。…神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。…わが神よ。急いで私を助けてください」(詩篇70:1, 5、71:12)という祈りがあります。同様の祈りは詩篇22:19、38:22、40:13、そして141:1にもあります。どれも、神に「急いでください。早くしてください」と祈っていますが、それは受けている苦しみがあまりにも大きく、切羽詰ったものだからです。そんな時は、そう祈ってよいのです。けれども、聖書には、それと同時に、時を神に委ね、神を待ち望むことも教えられています。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください」(詩篇31:14-15)という祈りもあるのです。
母親が子どもに一番よく使う言葉は「早くしなさい」だそうです。「早く起きて、早く顔を洗いなさい。早く服を着て、早くごはんを食べなさい。早く車に乗りなさい。学校に遅れますよ!」皆さんもそう言われて育ってきたかもしれません。それで、私たちは大人になっても、「早く、早く」と人々をせかせ、自分をもせきたてて、余裕のない生活をするようになりました。そして、信仰に関しても、「神を待ち望む」ことができなくなっているのです。神のなさることが遅いと感じる時も、神のなさることに間違いはないと信じて、神の時を待つ。そのことを習いたいと思います。ヤイロの娘は亡くなりました。しかし、イエスは娘を生き返らせることによってさらに大きな力を現し、ヤイロと彼の妻に大きな喜びを与えました。イエスがなさる救いは、「すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)のです。
三、救いの結果
最後にイエスが与えてくださる救いがどんなものなのかを学びましょう。イエスは、ひとりの女性のひたらすらな願いに答えて、彼女を癒やしましたが、彼女が群衆にまぎれ、そのまま家に帰るのを許しませんでした。イエスは、彼女を群衆の中から引き出し、ご自分の前に立たせました。けれども、それは彼女に恥ずかしい思いをさせるためではありませんでした。癒やしとともに、信仰と確信と、祝福を与えるためでした。もし、彼女がそのままイエスのもとから去ってしまったなら、「イエスの着物に触った時、たまたま病気が直っただけだったのだ」と勘違いし、この癒やしがイエスの力によるもの、イエスの愛とあわれみから出たものであることを確認しないままで終わったかもしれません。癒やしを得ても、癒やし主を持たなければ、それは救いではないのです。
ある時、外国で食糧援助をしている人から話を聞きました。その人はこう言いました。「私の目的は、食糧の足らない人に食べ物を運んであげることではありません。その人たちに田畑をたがやし、池を作って魚を養殖し、食糧を生産することを教えることです。」確かにその通りです。それが本当の「援助」でしょう。私はそれを聞いて、イエスの救いも同じだと思いました。イエスは、私たちを毎回毎回、それぞれの困難から救い出してくださるだけでなく、私たちが人生で出会う困難や問題に出遭った時も、神に信頼し、希望と忍耐をもって、それを乗り越えていく力を与えてくださるのです。そのつどの救いや助けだけで終わらず、私たちを永遠に変わらない救いへと導き入れてくださるのです。病気を癒やされたこの女性についても、イエスは、彼女に、病気という問題だけではなく、人生のあらゆる問題への救いを与えてくださったのです。
イエスは、彼女に言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)「娘よ」というのは「神の子ども」という意味です。彼女は、神の御子であるイエスを信じる信仰によって、ほんとうの意味で神の子どもとなり、神を父として信頼するようになりました。
「あなたの信仰があなたを直した」というのは、彼女の信仰を励ますための言葉です。彼女の信仰には足らないところもあったでしょう。しかし、イエスは小さな信仰の芽を摘むようなことをせず、私たちの足らない信仰をも「信仰」と認め、それがさらに真実で強い信仰に育っていくようにと励ましてくださるのです。
そして、「安心して行きなさい」と言って、彼女を家に帰しました。「平安のうちに行きなさい。」私は、ある教会の集まりで頭に手を置いてもらって、そう祈ってもらったことがありました。それは英語での集まりでしたので、その祈りは “Go in peace!” と、英語で唱えられました。私はその時、全身が熱くなり、ほんとうに平安で満たされました。それ以来、英語の “Go in peace!” のほうが、日本語の「平安のうちに行きなさい」よりも、しっくりと心に響くようになりました。
「平和」や「平安」はヘブライ語では「שָׁלוֹם」(シャローム)です。イスラエルでは、朝も、昼も、夜も、人と会ったときも、別れるときも、挨拶の言葉は「シャローム」ひとつで通用します。しかし、イエスがここで言われた「シャローム」という言葉は挨拶以上のものです。「シャローム」には、「完全」「繁栄」といった意味がありますので、それは、癒やされた彼女が、より健やかであるようにとの祝福の言葉でもあったのです。私たちの人生の「繁栄」は、神との「平和」なしにはありえません。神が彼女にその聖なるみ顔を向け、彼女もまた、まごころをもって神を仰ぎ見る、そのような生活を生きるようにとの祝福を、イエスは彼女に与え、彼女を送り出してくださったのです。嵐の中でも恐れのない生活、不安のない心。それは、この神との平和を得、神の祝福を受けることによってはじめて与えられるものです。イエスの救いは、私たちにこの「平和」「平安」を与えます。
「平安のうちに行きなさい。」“Go in peace!” 私たちは、この言葉を聞くために礼拝にやって来ました。聖霊が語ってくださるこの言葉を聞くことがないまま帰らないようにしたいと思います。「長血の女」は十二年の間、多くの医者を訪れましたが、「だれにも直してもらえ」(43節)ませんでした。イエスは言っています。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)私たちのたましいはもとより、私たちの心身をも癒やすのは、イエスのくださる平安です。この世が与える「気休め」では、私たちは癒やされません。満たされません。力を得ることはできません。イエスのもとでたましいと、心と、からだの疲れを癒やされ、イエスがくださる「平安」で満たされ、新しい週をはじめたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、私たちは不安な時代に、恐れに満ちた世界に住んでいます。この時代に、この世界で、信仰と希望と愛をもって生きることができるため、私たちに、主イエスが与える平安を与えてください。それによって、キリストの救いを証しすることができるようにしてください。ひとりひとりに「平安のうちに行きなさい」と語りかけ、新しい週を始めさせてください。主イエスの御名で祈ります。
6/14/2020