種蒔きのたとえ

ルカ8:4-8

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8:4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
8:7 また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
8:8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。

 一、たとえ話の主題

 今月はイエスのたとえ話を学びます。イエスのたとえ話は全部で39あり、マタイの福音書に20、マルコの福音書に9つ収められています。ルカの福音書には27あります。マタイ、マルコ、ルカのどれにも載っているたとえは7つあり、種蒔きのたとえはそのひとつです。

 種蒔きのたとえには、イエスご自身の解説がついているので、分かりやすく、イエスのたとえ話を学ぶ時は、かならずといってよいほど「種蒔きのたとえ」から始めます。それで、皆さんも、このたとえを何度も学んだことがあると思います。

 しかし、何度も学びながら、見落としている大切なことがあるように思います。それは、イエスのたとえ話は何を教えるために語られたのか、つまり、たとえ話の主題が何かということです。あとで学びますが、ここには四種類の土地が出てきます。「道ばた」(5節)、「岩地」(6節)、「いばらの地」(7節)、それから「良い地」(8節)です。ルカ8:11からの解説の部分を読むと、こうした四種類の土地は、神の言葉に対する四種類の態度であることが分かります。そして、そこには試練に耐えること(13節)や誘惑に打ち克つこと(14節)などが教えられています。それで、このたとえの主題は、試練に耐え、誘惑に克つといった信仰生活に関する勧めだと思われがちです。もちろん、そうしたことも大切なことですが、イエスのたとえ話にはそれ以上の主題があります。

 それは何でしょうか。それは「神の国」です。イエスが宣べ伝えた神の国の教えは、人々には全く新しいものでした。それで、イエスは、人々がすでに体験している日常生活のさまざまなことがらを使って、人々がまだ体験していない神の国がどんなものかを教えようとしました。そのために用いられたのが、「たとえ話」でした。マルコ4:30でイエスは「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう」と言っています。イエスがたとえ話で教えようとしたのは神の国のことだったのです。ルカ8:10で、イエスは弟子たちに言いました。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。」ここで「神の国の奥義」という言葉が使われていることからも、イエスのたとえ話の主題が、神の国であることが分かります。

 ですから、イエスのたとえ話を学ぶときには、「神の国」とは何なのか、そのたとえ話が神の国について何を教えているのかを知る必要があります。まず、神の国とは何なのかということから考えてみましょう。

 二、神の国と福音

 では、「神の国」とは何でしょうか。世界には、国際連盟に加入している国が193ヵ国あります。台湾、コソボ、パレスチナなど、まだ、国際的に独立国家として承認されていない地域も加えると200以上の国があります。こうした国々には、領土があり、独立した主権があり、制度や法律があって、国民がいます。神の国も同じです。神の国は「天」にあって、神が「王」、主権者であり、その法律は「神の言葉」、その国民は「神の民」や「聖徒」と呼ばれる信仰者たちです。信仰者はこの「天」を目指して地上の人生を歩んでいます。神の国は、信仰者たちにとって、「天のふるさと」(ヘブル11:16)のようなところです。

 「天」は、決して空想の世界のものではありません。実在するものです。実際、イエスは天から地上に来て、天にに帰っていきました。この地上で天を見せ、天を約束してくださいました。イエスは、天に帰る時が近づいたとき、弟子たちにこう言いました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。………わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:1-6)ここでイエスは「天」と「天への道」を、はっきりと示しています。「わたしが道である」という言葉は、英語では“I am the way.” です。“I am a way.” ではありません。天への道はただひとつで、それは、イエスご自身です。イエスという道を通るなら、かならず天に行き着くことができます。私たちはこのことを知り、信じています。

 さらに、イエスは、私たちが神の国に行くだけでなく、神の国が私たちのところにやって来ると言いました。イエスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。また、イエスは、こうも言っています。「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。」(ルカ16:16)神の国はイエスの宣教によって始まりました。「天のものが地上にやって来た、未来のものが現在実現している」と、イエスは教えたのです。

 神は、この世界の創造者ですから、天ばかりでなく、この地も神の主権のもとにあるはずです。ところが、人は、神の主権に逆らい、自分勝手な生き方をし、世界は、罪と悪、憎しみと恐怖が支配するところとなりました。そんな世界に正義と公正、愛と平和がとりもどされるには、私たちが進んで神の主権を受け入れ、その支配に服従して、神の民となる他に道はありません。

 古代には、王に反逆した地域の人々は、滅ぼされたり、捕虜となって、征服した王の国に移されたりしました。二度と逆らえなくさせるためです。このことはユダの国に起こりました。ユダの国はバビロンに逆らったため、ついにエルサレムは神殿もろともほろほされ、エルサレムにいた人々はバビロンに捕らえ移されました。その時、エルサレムの人々にとって迫りくるバビロンの支配は、恐怖と絶望以外の何ものでもありませんでした。けれども、イエスがもたらす神の国は違います。神の国は赦しの国、神の支配は愛の支配だからです。神は、神に逆らい続けてきた世界に赦しを与え、反逆の民をご自分の民として迎え入れてくださるのです。神の国は、反逆の民を滅ぼす軍隊を伴ってやって来るのではなく、和解の使者を先頭に立ててやってくるのです。イエスは神の国の王でしたが、同時に、和解の使者ともなって、まず、和解の言葉を人々に語りました。いや、和解の使者であるだけでなく、ご自身が和解のいけにえとなって、十字架の上でご自分を捧げ、赦しを勝ち取ってくださったのです。

 古代では、王に跡継ぎが生まれたとき、それを告げ知らせる言葉は「福音」と言われました。そして、そうした時には、かならず「恩赦」が宣言されました。負債が赦免されたり、税が軽くなったりしました。「福音」は「赦し」を意味しました。イエスが生まれたとき、天使たちは羊飼いに「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」(ルカ2:10-11)と告げました。ここで「知らせる」という言葉には、「福音を伝える」という意味の言葉が使われています。神の国の王となるべきお方の誕生は、まさに「福音」であり、その福音は救い主がもたらす罪の赦しの福音でした。

 神の国は、赦しを伴ってやってきます。赦しの言葉、福音が宣言されて、神の国がやって来るのです。それで、ルカ8:1には「イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えた」とあって、「神の国」と「福音」の宣教が結びつけられていているのです。「あなたの罪を赦す。あなたを神の国の民とする。あなたは神の国の豊かさを楽しむようになる」という「福音」を受け入れることによって、人は、神の国に受け入れられるのです。

 三、神の言葉への応答

 「神の国」や「福音」の意味が理解できれば、種蒔きのたとえの意味はおのずと分かるようになります。ルカ8:11から、イエスご自身が、このたとえを解説しています。そこに「種は神のことば」(11節)とあるように、神の言葉が人を神の国に導くことが教えられています。種が「道端」にも、「岩地」にも、「いばらの地」にも、蒔かれたように、神の言葉は、大勢の人々に語られました。しかし、神の言葉を聞いたすべての人が神の国を受け入れたわけではありません。「種」に命があるように、神の言葉には命があり、人を救う力があります。しかし、人がその命を受け入れ、その力を受け取らなければ、神の国は、その人のところにやってこないのです。

 種は、四種類の土地に落ちました。「道端」は人の歩くところで、そこに落ちた種は芽を出すこともないまま、鳥に食べられてしまいました。これは、偏見や敵意のために御言葉に心を開かない、進んで聞こうとしない人間の不信仰で頑固な態度を表しています。

 「岩地」に落ちた種は「芽」を出しはしましたが、柔らかい土がないため、根をおろすことができませんでした。そして、やがて枯れてしまいました。これは、喜んで御言葉を聞いても、それをきちんと理解し、自分のうちに根付くまで、御言葉を聞き続け、学び続けることのない態度を指しています。

 また、「いばらの地」に落ちた種は、芽を出し、根をおろすことはできても、茨に塞がれて、実を結ぶことができませんでした。茨は「この世の心づかいや、富や、快楽」を意味します。人を御言葉から遠ざける誘惑のことです。神の言葉に対する頑固さや、浅い理解、また、神の言葉から離れて他のものに目移りすることなどは、私たちが日常、体験し、思い当たることがあるのではないでしょうか。

 「良い地」に蒔かれた種は「百倍の実を結」びました。「道端」よりも「岩地」、「岩地」よりも「いばらの地」に落ちたほうが種にとってはましでした。鳥のエサになった種、根をおろせず枯れてしまった種、そして実を結ばなかった種と、最悪のケースからすこしづつ良くなってはいますが、それでも、「良い地」に落ちた種が「実を結んだ」ことにくらべれば、最初の三つのケースでは、種は無駄になっています。神は、神の言葉を聞く者に「実を結ぶ」ことを求めておられます。実を結んだ農作物はやがて刈り入れられますが、聖書で「収穫」は、神の国を表します。農夫の労苦が豊かな収穫によって報われるように、信仰者の地上の労苦は、神の国で報われるのです。人生に実を結ぶかどうかが、また、その収穫の喜びに与ることができるかどうかは、どのような態度で御言葉に聞くのかにかかっているのです。これは厳粛な事実です。

 どんな作物でも、実を結ぶまでは、最低一年はかかります。同じように、神の言葉を学び、理解し、それが生活の中で実を結ぶようになるには、一定の時間が必要でしょう。しかし、どんなに時間をかけても、ただ漫然と時を過ごしているだけでは、御言葉が実を結ぶことはありません。きちんと御言葉を学び、正しい知識を身につけましょう。そして、知識が理解へ、理解が信頼に進むとき、それは信仰になるのです。神の言葉を聞いて、知って、分かって、信じる。その時、神の国が私たちのところに来るのです。

 神の国は、二千年前、イエスの宣教と共にやってきました。そして、それはイエスの十字架と復活によって確立しました。十字架と復活によって罪と死の支配が終わったのです。さらに聖霊が降り、教会が生まれ、福音が宣べ伝えられ、神の国は世界に広まりました。やがて、神の国は、誰の目にも見えるかたちで現れます。収穫の時が来るのです。その時まで、神の言葉に聞き続け、従い続ける人は、収穫の喜びにあずかることができます。私たちは、15節にあるように、「正しい、良い心でみことばを聞」き、「それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」者となりたいと願っています。そのことを祈り、また、互いに励まし合っていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま。あなたは、福音の言葉によって、私たちを御国の喜びの中に招いてくださっています。私たちに御言葉を聞く「正しい、良い心」を与えてください。そのことによって、私たちを、神の国の平安と喜びで満たしてください。神の国をもたらしてくださったイエス・キリストにより祈ります。

9/6/2020