8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
8:23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
一、聖書とキリスト
かなり以前のことですが、アーカンソーにパッション・プレィを観にいったことがあります。エルサレムの城壁などが、野外劇場に本物そっくりに作られていて、そこをローマ兵の装束をつけた俳優が馬に乗って走りまわる場面からパッション・プレィが始まりました。映画のロケーション撮影を見ているような感じでした。照明を使って様々な効果を出すため、このパッション・プレイは夜だけ上演されます。それで到着した夜パッション・プレイを観て、翌日、帰る前、ギフトショップに寄りました。そこに、イエスの顔を描いたものがあったのですが、良く見ると、聖書の言葉で描かれていて、文字に濃淡をつけ、イエスの顔が浮かびあがるように作られていました。私は、それを見て、「聖書は、どのページも、イエス・キリストを描いている。聖書のどこを読むときにも、そこにイエス・キリストを見出すように読まなければならない」と思いました。
ヨハネ20:31に「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」とあるように、聖書は、イエスを指し示すものとして書かれました。テモテ第二3:15にも、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」とあります。イエスご自身も「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)と言っておられます。
ユダヤの人々は、聖書を大切にしました。各地に「会堂」があって安息日ごとに聖書が朗読され、解説されていました。聖書を書き写し、それを研究する「律法学者」と呼ばれる人たちは人々から尊敬されていました。しかし、彼らは、聖書を事細かく研究してはいても、聖書の中にキリストを見ることがなかったのです。「木を見て森を見ない」と言いますが、聖書の全体を見て、そこにキリストを見出すことがなかったのです。それで、イエスは、「聖書が、わたしについて証言している」と言い、聖書にキリストを見出すようにと言われたのです。
聖書は神の言葉です。神はそのお言葉で世界を創造し、それを保っておられます(ヘブル11:3; 1:3)。また、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。…生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(ペテロ第一1:23; 2:2)とあるように、神の言葉は信仰者を生み出し、成長させ、最終的な救いに導きます。ヤコブ1:12に「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とある通りです。
聖書のラテン語への翻訳に生涯をささげた聖ヒエロニムス(St. Jerome)は、「聖書を学ぶことなしに、キリストを知ることはできない」と言いました。これは、「キリストを知るためでなければ、聖書を学んだことにはならない」と言いかえることができると思います。聖書は、歴史として正確なものですから、歴史家にとっては貴重な資料です。また、文学者も、あらゆる題材を聖書から得ています。芸術家は、絵画、彫刻、建物、音楽などで聖書からインスピレーションを得ています。私は、『目からうろこ』という本に、私たちが知らず知らずのうちに使っている言葉の多くが聖書から来ているかについて書きました。「目からうろこ」というのも、じつは聖書の言葉です。しかし、人は、聖書の派生物や副産物によって救われはしません。聖書をキリストを証しするものとして読み、聖書によってキリストを知るのでなければ、救いはないのです。私たちは、これからも、聖書をキリストに導き、救いを与えるものとして読み、学び続けたいと思います。
二、神の御子イエス
きょうの箇所には、イエスがガリラヤ湖の嵐をしずめた奇蹟が書かれています。聖書がイエスのなさった奇蹟を数多く書いているのは、なぜでしょうか。それはたんに珍しい話を伝えるためではないはずです。最初にとりあげたヨハネ20:31の御言葉は、30節から読むと、こうなります。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネの福音書では奇蹟は「しるし」と呼ばれています。英語でいえば “Sign” です。「サイン」というのは、交通標識にせよ、広告にせよ、何かを指し示すものです。フリーウェーでは、サインに従って出口を出れば、別のフリーウェーに乗り換えたり、ガス・ステーションに立ち寄ったりすることができます。イエスの奇蹟は、イエスを指し示す「サイン」です。弟子たちは、イエスがガリラヤ湖の嵐を一言で叱りつけ、それをしずめたのを見て、「いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚き、また自らに問いかけました。奇蹟が指し示すキリストに目を向けたのです。私たちも、ここから、「いったいこの方はどういう方なのだろう」ということを真剣に問い、そして、その答を得たいと思います。
弟子たちは、これまで、いくつものイエスの奇蹟を見てきたのに、どうして、この奇蹟にこんなに驚いたのでしょうか。それには、ふたつの理由があると思います。ひとつは、16節に、「風や湖までが言うことをきくとは…」とあるように、この奇蹟が自然界に対する奇蹟だったからです。ルカ7:21に「ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた」とある通り、イエスは苦しむ人、ひとりひとりを相手にして、奇蹟を行いました。イエスは、大勢の人を癒やすときも、「ひとりひとりに手を置いて」癒やしておられます(ルカ4:40)。そのことは、私たちひとりひとりを心にかけてくださる、イエスの細やかな愛情を教えています。
けれども、きょうの箇所では、イエスは、ガリラヤ湖と、そこに吹き荒れる嵐を相手にし、それを服従させています。弟子たちはイエスが「メシア」(キリスト)に違いないと感じていました。しかし、「メシア」といっても、いろんな意味があります。軍事力で外敵を打ち破ってくれる人物も、政治的な力を発揮して人々に繁栄をもたらしてくれる人物も「メシア」と呼ばれました。「メシア」は神から遣わされた人ではありますが、人々の中から神によって選ばれ、神の力を与えられた人であって、ほんとうに神のもとから来られた神の御子であるとは思ってもいませんでした。けれども、イエスが風と湖をしかりつけ、それを治めた姿を見たとき、弟子たちは、イエスがたんに「神の力を帯びた人物」という以上のお方、自然界を支配しておられるお方だということに目が開かれてきたのです。
この世界は、神により、その力ある御言葉によって治められ、保たれています。そうであるなら、被造物に命じて、それを従わせることができるイエスは、創造者であり、神の御子であるということになります。ヘブル1:3に「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」とあるように、イエスは父なる神とともにこの世界を創造し、それを治めておられる神の御子なのです。この奇蹟は、イエスが、神のもとから来られた救い主、神の御子であることを証ししています。
三、主としてのイエス
弟子たちがこの奇蹟に驚いた、もうひとつの理由は、この時、彼らの自信が見事に打ち砕かれたからでした。ガリラヤ湖は、漁師であった弟子たちにとっては、自分の庭のようなところでした。彼らはガリラヤ湖の隅から隅まで知り尽くしていました。そこで漁船を操ることは、まことにたやすいことでした。ですから、イエスが向こう岸に行くため舟に乗り込んだとき、弟子たちは、「おやすいご用です。さあ、行きましょう」と舟を漕ぎ出したことでしょう。弟子たちは空模様を見、吹く風の向きを肌で感じ、これなら、時折、ガリラヤ湖に吹き荒れる嵐も、今日は絶対に無いと、自信を持ちました。イエスは舟に乗り込むと、すやすやと眠ってしまいました。休息をとることもできないほど忙しいイエスにとって、この船旅は何者にも妨げられないで、身体を休めることができる絶好の機会だったのでしょう。眠っておられるイエスの姿を見て、弟子たちはこう思ったでしょう。「イエスさま、安心して休んでいてください。私たちが、無事に向こう岸にお連れしますから。」
ところが、思いがけず舟は嵐に。弟子たちは、イエスをお護りして、嵐を乗り切ろうと頑張りました。しかし、とうとう力尽きて、眠っておられるイエスを起こして助けを求めました。弟子たちにとって、この時ほど、自分たちの無力を思い知らされた時はなかったでしょう。ガリラヤ湖の「主人」であるかのように考えていた弟子たちが、そのガリラヤ湖で、行き詰まり、自分たちが一番得意とする舟をあやつることにおいて、どうにもならなくなったからです。そして、最後には、イエスの助けを願わなければなりませんでした。弟子たちは、自分たちがイエスを乗せて向こう岸に行くというよりは、イエスが自分たちを導いて向こう岸に連れていってくださる。自分たちが眠っているイエスをお護りするというよりは、イエスが、眠っている間も自分たちを守ってくださるということを知らされたのです。
じつは、これと似た体験は、以前にもありました。夜通し漁をしたのに、一匹の魚もとれなかった、あの日のことです。イエスはシモンの舟に乗り、沖に漕ぎ出して網をおろすように言いました。シモンは思いました。「魚は夜、浅瀬でとれるもの。こんな日中に湖の真ん中でとれるわけがない。いくらイエスさまでも、漁のことはご存知ないようだ。」けれども、「お言葉ですから…」と言って網をおろしました。すると、おびただしい数の魚が網に入ってきました。もう一艘の舟にも助けてもらいましたが、両方とも沈みそうになるほどの大漁でした。このとき、シモンは「漁にかけては私が…」というプライドを砕かれ、イエスを主として受け入れ、イエスに従うようになったのでした(ルカ5:1-11)。
私たちが失敗するのは、きまって、自分の得意とする分野においてです。不得意なことは慎重にやりますし、人の助けを求めますが、得意な分野では、自分の力を過信してしまいます。そして、思わぬ失敗をしてしまうのです。そんなときこそ、自分の人生の主がイエスであることを悟りたいと思います。イエスの力あるわざを、遠い世界のこととして読むだけでは、その力を自分のものとすることはできません。他の人が、イエスの愛や恵みについて証しするのを、他人事として聞いているうちは、イエスの恵みに与ることはできません。そうしたことを自分自身と結びつけ、自分が今、直面している問題についてイエスに助けを願い求めてこそ、イエスの恵みと力を体験することができるのです。聖書を自分の現状にあてはめて読むなら、聖書が、私たちの現実からかけ離れたものではないことが分かるようになるでしょう。そして、イエスが「神の御子」であるとともに、「私の主」であることが分かり、このイエスに信頼することが、人生の嵐を乗り越え、安らかに向こう岸に到着する唯一の道であることが分かるようになるのです。
「いったいこの方はどういう方なのだろう。」この問いに対する答を、皆さんはすでに持っていますか。自然界をも支配され、あらゆるものの上におられる「神の御子」イエス・キリストを、あなたの「主」として受け入れているでしょうか。あなたが今抱えている困難や課題を「神の御子」であり、私たちの「主」であるイエスに任せ、このお方に信頼しましょう。その時、私たちは、聖書を読むたびに、聖書に書かれたイエス・キリストの姿をくっきりと見ることができるようになるのです。
(祈り)
父なる神さま。あなたは、私たちがキリストを知り、信じ、救いにあずかることができるために、私たちに聖書を与えてくださいました。聖書を学ぶたびに、キリストを新しく、また深く知ることができますよう導いてください。時代を越えて語りかける聖書の言葉を、私たちの日々の生活の中で受けとめることができるよう助けてください。神の御子、私たちの主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
8/9/2020