7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
日本に名古屋学院という学校があります。1887(明治20)年にフレデリック・チャールズ・クライン宣教師が始めた名古屋英和学校がその前身です。クライン宣教師はこの学校のモットーを「敬神愛人」と定めました。英語では “Fear God, Love People” です。このモットーは、関西学院(かんせいがくいん)、敬和学園、横須賀学院など、多くの学校でも使われています。西郷隆盛の座右銘も「敬天愛人」でした。九州学院などは「敬天愛人」のほうを使っています。
「神を敬い、人を愛する。」かつての世代の人々は、どの宗教の人であっても、世界には人間以上のものがあって、人はそれを畏れ、敬わなければならないことを知っていました。しかし、今日では、多くの人々が、「目に見えないものは存在しない」という唯物思想に洗脳され、目に見えない神を畏れ、敬うということがなくなりました。そして、そこから、さまざまな不道徳や犯罪が生まれました。唯物思想では人間は他の動物と何も変わりませんから、人を「モノ」と考えます。ですから、そこには「人権」などといった概念はありません。唯物思想の国で、平気で人権侵害が行われるのはそのためです。「神を畏れ、敬う」、このことがなければ、「人を愛する」こと、つまり、人を人として大切にすることもなくなるのです。
一、神の愛
「神を敬い、人を愛する」、これは、マタイ22:37-39から取られています。イエスは言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」イエスは、申命記6:5とレビ記19:18の言葉通り、「愛する」という言葉を「神を愛する」ことにも「隣人を愛する」ことにも使っています。神を「畏れ、敬う」ということは、私たちにも分かるのですが、「神を愛する」と言われると、「えっ」と驚いてしまします。聖書もまことの神も知らなかったとき、私たちは「神を愛する」などといったことを思いもしませんでした。配偶者や恋人を愛し、尊敬する人に憧れ、家族や友人を大切にし、子どもや孫をかわいがる、そんなふうに神に対して「愛の思い」を抱くといったことは、考えられないことでした。神を軽ろんじると、罰(ばち)が当たると教えられてきましたので、ないがしろにはしませんでしたが、かといって、どこにいるかも分からない神とは、ほどほどにお付き合いしておけばよかったのです。
ところが、聖書には、神が人を愛し、人が神を愛すべきことがいたるところに書かれています。神は単刀直入に、「わたしはあなたを愛している」と言われます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)「わたしはあなたがたを愛している。」(マラキ1:2)また、「主はあなたがたを恋い慕った」という言葉さえあるのです(申命記7:7、10:15)。
この神の愛を知った人たちもまた、神を愛し、神を慕いました。神を愛する人たちは「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」(詩篇84:2)「私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。」(詩篇116:1)真心から神を信じた人々は、このように神への愛を言い表してきました。
イエスは、ご自分を信じる者に、「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ21:15-17)と問い、彼らの愛が冷えたときには「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と叱責されました。こうした言葉は、信仰とは何かを教えてくれます。それは、理論的に神を理解することや、儀式・戒律を守ること、また、善い行いを積み重ねることなどの中にではなく、私たちが神に愛され、神を愛することの中に信仰があることを教えています。このような、神と人との愛の関係を教えているのは、聖書の外ありません。神の愛を目で見て、手で触ることができるほどに表してくださったのがイエス・キリストです。私たちは聖書から神の愛を知り、イエス・キリストから神と人との愛の関係を学ぶのです。
二、神の愛を知らなかった人
さて、きょうの箇所には、この神の愛を知らなかった人と、知っていた人とが登場します。神の愛を知らなかった人とは、イエスを食事に招いたシモンという名のパリサイ人です。パリサイ人たちは、聖書に精通していましたから、「神の愛について語れ」と言われれば、とうとうと語ることができたでしょう。しかし、彼らは、「神の愛」を言葉の上では知っていましたが、実際にはそれを体験していませんでした。彼らにとって、自分たちの伝統に従って生活することが、神に愛されている証拠であり、それ以上に神の愛を必要とはしていなかったのです。それで、パリサイ人の多くは、すべての人に注がれている神の愛を教え、それを行いで示されたイエスに反発を覚えていました。
そんなパリサイ人のシモンがイエスを食事に招いたのは、なぜだったのでしょうか。おそらく、善意からというよりは、イエスの言動のうちに批判の口実を見つけようとして、偽善的にしたことだと思われます。そして、イエスを批判する機会はすぐにやってきました。その町で「罪深い女」(37節)と呼ばれていた一人の女性がイエスの足に香油を注ぎ始めたからです。それを見たシモンは、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」(39節)と心の中で言いました。「神に選ばれた人なら、こんな罪深い女から香油など受けるべきではない。イエスは、聖なる預言者などではなく、ただの俗人である」と、自分勝手な判断をくだしたのです。
イエスは、シモンの心を見抜いて、ひとつのたとえ話を語り始めました。それは、こうでした。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」(41-42節)短くて単純な話です。
このたとえ話は、私たちは皆、罪という借金を持っていることを教えています。聖書では罪は「負い目」、「負債」、「借金」として描かれています。私たちは、神に対して「罪」という負債を持っていて、それを払いきれないでいるのです。しかし、愛の神は、私たちの負債のすべてを引き受け、ご自分の命によって、それを支払ってくださる救い主、イエスを送ってくださいました。けれども、シモンはイエスを預言者の一人としか見なしていませんでしたし、この時点では、イエスは預言者でさえないと判断しています。イエスが罪を赦すことのできるお方であることを信じてはいなかったのです。また、自分はこの女のように罪深くはないと考え、罪の赦しの恵みがどんなに大きなものかを理解していませんでした。
イエスはシモンに、「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるか」と質問し、金貸しについて「愛する」という言葉を使っていますが、実際は、借金を赦してもらったからといって、金貸しを「愛する」人などいないでしょう。「ああ、良かった」と思うだけでしょう。しかし、イエスは、あえて、「愛する」という言葉を使うことによって、自分がどんなに多くの罪を赦されたかを知る人は、罪を赦してくださった方を愛せずにはおれなくなるのだ、と言おうとされたのです。パリサイ人シモンは、自分の罪を正しく見て、それを悔い改めることをしなかったので、罪の赦しの恵みを体験せず、神の愛を知ることも、神を愛することもなかったのです。
三、神の愛を知った人
しかし、この女性は、神の愛を知っていました。シモンが金貸しから50デナリ借りていた人だとしたら、彼女は、500デナリ借りていた人でした。もっとも、シモンは、「自分が50デナリなら、この女は5万デナリ、50万デナリだ」と思ったかもしれませんが、彼女は、自分の罪が5万デナリ、50万デナリに相当するほど、大きく、深いものかを知っていたのです。罪の負債が雪だるまのように増えていき、彼女は、自分ではどうにもならない大きな負債にあえいでいました。そんなとき、彼女はイエスに出会い、イエスによって、その罪を赦されたのです。彼女はより多くの罪を赦されたので、より多くイエスを愛する者となったのです。
イエスは、シモンに言いました。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」(44-46節)当時、大切なお客様を食事に招くときには、食卓に案内する前に、汚れた足を洗い、口づけして挨拶をかわし、頭に香油を注ぐ習わしがありました。ところが、シモンは、そのどの一つもイエスにしませんでした。しかし、シモンがしなかったこと以上のことを彼女はしました。それは、罪を赦してくださった方への愛の表れでした。
イエスは言われました。「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(47節)シモンのように自分の罪を小さく見積もって、赦される必要を感じない人は、愛することも少ないのですが、この女性のように多くの罪を赦されたことを知っている者は、より多く愛するようになるのです。
世の中で一番美しい光景は、人々が罪を悔い改め、神に立ち返り、神を愛するようになる姿です。ビリー・グラハムやグレッグ・ローリの大きな伝道集会で、人々が次々にステージの前に集まる姿は、いつ見ても感動します。そうしたことは、大きな集会だけでなく、スモール・グループの中でも、また、牧師室での個人的な面談の中でも起こりました。神は、キング牧師やマザー・テレサなど、ノーベル賞を受けるような特別な人たちを選んで大きなことをさせ、それによってご自分の栄光を表されますが、そればかりではないのです。自分の罪が分かった人が悔い改めて、罪の赦しの恵みの中に生き、より神を愛するようになる、そのことを通して、より大きな栄光を表されるのです。
イエスは彼女に言われました。「あなたの罪は赦されています。」(48節)イエスは罪を赦すことのできるお方です。私たちはみな「あなたの罪は赦されています」との言葉を聞くためにイエスのもとに来ています。「あなたの罪は赦されている。わたしはあなたを愛している。」この言葉を聞き、信じ、より多く神を、主を愛する者とされていきましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちの多くの罪をイエス・キリストによって赦してくださったのに、私たちがあなたやイエスを少ししか愛さないのはどうしたことでしょう。自分の罪がどんなに大きなものだったか、また、それを赦してくださったあなたの愛がどんなに深いものであったかを忘れてしまっているからだと思います。きょう、主が教えてくださったことをよく理解できますように。罪の赦しの恵みを体験し、「主よ、あなたを愛します」と言い表して、あなたをあがめる者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
1/16/2022