7:1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
7:2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。
「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」今年、私たちは祈りを学び、それを身に着け、深めることを教会全体の目標にしてきました。みなさんひとりびとりのの具体的なゴールは何でしょうか。誰に、何を、どう祈ったら良いか分からないでいた人は父なる神に、主イエスのお名前で祈ることができるようになることをゴールにすると良いでしょう。祈りが聞かれるかどうか確信を持てなかった人は確信をもって大胆に祈ることができるようにと願っているでしょう。忙しさに追い立てられて十分な祈りの時間をとれないでいる人は、すこしの合間でも祈りの時を持つよう努力していることでしょう。まだ解決していない課題を抱えている人は、その解決まで忍耐深く祈り通そうと誓ったかもしれません。また、家族が揃って祈る時を持つのを目標にしている家庭もあるでしょう。また、集まりをするときにかならず互いのために祈り合う時間を持つようにしようと計画しているグループもあるかもしれません。祈りについての個人やグループとしてのゴールが神の助けによって達成されることを心から願っています。
聖書は「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)と教えています。私たちに必要なもの、いのちも、健康も、食べ物も、着るものも、住む家もすべて天の父から下ってきます。私たちの益になるもの、私たちを喜び楽しませてくれるすべてのものもまた、天の父の賜物です。あなたは今、何を必要としていますか。平安ですか。安息ですか。慰めですか。励ましですか。いやしですか。知恵ですか。力ですか。導きですか。それらはすべて神からの賜物です。上から来るものであって、あなたの中から出てくるのでも、隣の人からもらうものでもありません。この神からの賜物は祈りによって願い求め、祈りによって受け取るものです。ですから、祈りを学び、それを身に着け、実際に祈ることはどんなことよりも大切なことなのです。祈りは天の窓を開く鍵です。神の無限の力にアクセスすることができるパスワードです。「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」これを私たちの合言葉にし、祈りを学び、祈りを身に着け、祈りを実践しましょう。そのことを互いに励ましあって、それぞれが神からの良きもので満たされていたいと思います。
さて、今朝の箇所には、ローマの百人隊長が自分のしもべのいやしをイエスに願い求めたことが書かれています。イエスは百人隊長の信仰をほめ、その願いに答えて彼のしもべをいやしました。百人隊長の祈りは見事に聞かれたのです。イエスはなぜ百人隊長の願いに快く答えようとされ、それを聞いてくださったのでしょうか。そのことが分かれば、私たちもよりみこころにかなう祈りができるようになります。今朝は、この箇所から神に聞かれる祈りとはどんな祈りなのかを学んでみましょう。
一、他者への愛
第一は、他者への愛から出た祈りは聞かれるということです。この百人隊長は自分のためにではなく、自分のしもべのためにイエスに願い出ました。ふつうローマ軍の隊長にとって大切なのは自分の部下であり、兵隊です。百人隊長の場合はローマから連れてきた百人の兵隊のことが何より大切でした。無事に任務を終えて百人を残らずローマに帰してやることが百人隊長の使命でした。百人隊長の家には召使いもいましたが、それはおそらくユダヤの人だったでしょう。2節に「百人隊長に重んじられているひとりのしもべ」と書かれていますが、当時、召使いが「重んじられる」ということはありませんでした。病気で死ねば、替わりの召使いを連れてくればそれで良い。まして、自分たちが支配しているユダヤ人がどうなろうと知ったことではないというのが、おおかたのローマの軍人の考え方でした。しかし、この百人隊長は違っていました。被征服民のユダヤの人、召使いであったとしても、彼はその人を重んじ、そのために心配し、そのいやしを願ったのです。イエスがこの百人隊長の願いを聞き、それに快く答えようとなさったのは、百人隊長のそのような他者への愛のこころのゆえでした。
聖書にはコルネリオというもうひとりの百人隊長のことも書かれています。ある日の午後三時の祈りのとき、天使が現われ、「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています」とコルネリオに語りかけ、ペテロを家に招くよう命じました。コルネリオは天使のことばのとおりペテロから福音を聞き、その一族がそろってバプテスマを受けました(使徒10章)。このコルネリオは、聖書によれば「神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」人でした。コルネリオもまた、自分のことだけを願い求める人ではなく、ユダヤの人々を思いやり、貧しい人々に施しをする人でした。それで、彼の祈りは神に覚えられていたのです。
心からの愛をもって他の人のために祈る祈りは、ときとして自分のために祈る祈りよりも良く聞かれることがあります。他の人々、とりわけ、自分よりももっと多くの必要を感じている人々のため祈る祈りは、神が喜んで聞いてくださる祈りです。もちろん、私たちは他の人のために祈るとともに自分自身の問題の解決のため、必要のため、また霊的な成長のため祈らなければなりません。しかし、そのときにも、自分の問題の解決、必要の満たし、また霊的な成長もまた他の人の祝福のために役立つようにと願って祈るなら、神はそうした祈りを、より喜んでくださることでしょう。
二、へりくだり
第二に、神の前にへりくだる人の祈りは神が喜んで聞かれる祈りです。聖書はこの百人隊長の名前をしるしていません。ずっと無名のままを通しているのはこの人らしい、へりくだった姿を表わしていると思います。この百人隊長は自分のしもべを思いやる心優しい人でした。ローマの軍人はユダヤの人々を脅かしたり、苦しめたりしていましたが、彼はそうすることがないばかりか、ユダヤの人々のために会堂を建ててあげたというのです。それで、この百人隊長の願いをイエスにとりついだとき、町の長老たちはイエスに「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です」(4ー5節)と言いました。この百人隊長は、まことに人徳のある人で、誰から見てもイエスに願い出る資格、イエスを自分の家に迎えるのに十分な資格のある人でした。ところが、百人隊長はイエスが自分の家に向かってこられたとき、「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」(6節)と言っています。人々から「資格のある人です」と言われているのに、百人隊長は「いいえ、私には資格がありません」と言って、イエスの前にへりくだりました。祈りが聞かれるのは、人間の側の「資格」によるのでなく、神の恵みとあわれみによることを、百人隊長は良く知っていました。それで、百人隊長は神の前にへりくだり、神の恵みとあわれみを求めたのです。
神はそのような、へりくだった祈りを聞いてくださいます。ルカ15章にある放蕩息子は父親の財産をすべて使い果たし、ボロボロになって父親のところに帰ってきました。そのとき放蕩息子は言いました。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」放蕩息子は「私には資格がありません」と言いましたが、実際、放蕩息子にはその資格が無かったのです。この息子は息子としの資格を失っていたのです。放蕩息子は自分のほんとうの姿を正直に認めたのですが、父親は彼に晴れ着を着せ、指輪を与え、くつを履かせました。晴れ着も、指輪も、くつも、この子が父親の息子であることのしるしでした。父親は帰ってきた放蕩息子の息子としての資格を回復したのです。私たちも同じです。私たちが神に祈ることができるのは自分の側に何かの資格があるからではありません。私たちも放蕩息子と同じように神から離れ、神から与えられた良いものをすべて無駄にしていたのです。しかし、放蕩息子が再び息子として受け入れられたように、私たちもイエス・キリストを信じるなら、神の子としての資格、特権を与えられるのです。そして、神から恵みによって与えられた資格に従って、神を「父よ」と呼んで祈ることができるようになるのです。自分の「資格」ではない、恵みによって与えられた資格によって神に祈るのです。ですから、私たちの祈りはいつでもへりくだった祈りでなければならないのです。
ある教会の広場に、しゃがんで座っておられるイエスをかたどった彫刻がありました。イエス像というとたいていは両手を広げて立っておられる姿のものが多いので、私は、その彫刻に興味をもって近づきました。どんな顔をしておられるのか見たいと思いましたが、立っていては見えませんでした。それで、その前にひざまづいてみました。すると、その顔が良く見えました。とてもにこやかに微笑んでいました。ちいさなこどもたちがご自分のもとにこられるのを喜んでおられるような様子でした。このイエス像の前に身を低くしてはじめてその顔が見えたように、私たちも、神の前にへりくだるとき、神のみ顔が見えて来るのです。神の愛の御顔が見えてきて心が満たされ、祈りに力が与えられるのです。
聖書はこう教えています。
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)水が低いところに流れてそこに溜まるように、神の恵みも、神を恐れ、へりくだる人のところに注がれ、そこに留まるのです。神の前にへりくだることは信仰の出発点であり、また信仰のゴールです。
三、神への信頼
第三に、神への信頼の祈りは聞かれます。神への信頼とは、神は私たちの祈りにお答えになることが出来るということを信じることからはじまります。百人隊長はイエスが権威あるお方であり、病気をいやす力があることを知っていました。イエスは「お出来になる」と信じたのです。自分が部下に命令すれば、部下は自分の命令どおりにする。イエスが主であり、権威あるお方なら、「しもべよ、いやされよ」という命令のことばがあれば、それでしもべはいやされる。百人隊長はそう信じたのです。信仰とはイエスの愛と力を認めること、そして祈りとはそれを求めることです。イエスはそのような信仰を喜び、その祈りに聞き、その場で百人隊長のしもべをいやされました。イエスは百人隊長の家に向かっているとはいえ、まだその家に入ってはいません。病気のしもべに手を置いて祈ったというのでもありません。イエスは遠くから、「しもべよ、いやされよ」と命じて、そのしもべをいやしたのです。百人隊長の信仰は素晴らしいものですが、イエスの権威と力はもっと素晴らしいものです。イエスの権威は、たんに人々の崇敬を集めるという宗教的なものだけではありません。多くの人々に感化を与えるという道徳的なものだけものでもありません。イエスの権威は、病気にも、死にも、自然界にも、霊的な世界にも、あらゆるものの上にある権威、力なのです。神に祈り、イエスに願うとき、私たちは神がすべてのものの主であり、イエスがあらゆる権威の上に立てられていることを忘れず、堅く信じていたいものです。
あるとき、悪霊に苦しめられていた息子を持った父親が、息子をいやしてくださいとイエスに願い出たことがありました。その父親はイエスに「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言いました。それに対してイエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と答えました(マルコ9:22-23)。イエスはこの父親に、「できるものなら」というのでなく、イエスにはかならず「出来る」と信じる信仰を求めたのです。この父親には、神にはすべてのことが「出来る」という信仰において足りないところがあたからです。しかし、主の母として選ばれたマリヤはそうではありませんでした。神の御子を産むというお告げを受けたとき、処女マリヤは驚いて「どうしてそのようなことになりえましょう。」と尋ねましたが、御使いは「神にとって不可能なことは一つもありません。」と答えました。マリヤは、「神にとって不可能なことは一つもありません」ということばを信じ、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。それでマリヤは、エリサベツのことばのとおり、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と、後々の時代にわたって、褒められ、敬われるようになったのです。
この百人隊長も「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人」でした。私たちも、愛をもって祈り、謙遜をもって祈り、信仰をもって祈るものとなりたく思います。そして、その祈りによって、主が与えてくださる恵みに満たされ、それによって強められたいと心から願います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは弱っている者に力を与え、恐れている者に平安を与え、欠けている者を良いもので満たしてくださるお方です。そして、あなたは、私たちがあなたの良き賜物を受け取ることができるために、私たちに祈りを教えてくださいました。どうか私たちが祈りを学び、身に着け、それを実践して、あなたの約束のものを受け取ることができるよう助けてください。あなたの前にへりくだり、あなたを信じ、あなたに頼りつつ祈る祈りへと導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
10/10/2010