幸いへの道

ルカ6:20-26

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6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
6:22 人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。
6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。

 一、少数者への約束

 教会で使っているカリキュラム、Gospel Project では、6月は「癒やし主」としてのイエスを学びましたが、7月は「教師」としてのイエスを学び、8月は「奇蹟を行う方」としてのイエスを学びます。イエスの「癒やし」も「奇蹟」も大切なものです。しかし、イエスが最も力を注ぎ、時間をかけたのは「教えること」でした。しかもそれは、少数の弟子たちをじっくりと訓練することでした。イエスはもちろん、大勢の人々をも教えましたが、群衆の多くはやがてイエスから離れていきました。その人たちはほんとうの意味でイエスの「弟子」にはなっていなかったからです。

 2019年、日本で、ラグビーのワールド・カップの試合が行われ、日本のチームはベスト8(準々決勝)まで進みました。それまで、ラグビーは、日本ではあまりポピュラーではなかったのですが、そのときには大勢の人がラグビーの「にわかファン」になりました。それと同じように、群衆は、当時、「人気者」になりつつあったイエスを追っかけていたのです。イエスは自分についてくる大勢の群衆を斥けはしませんでした。彼らをあわれんで、彼らのうちの病人を癒やし、空腹な者に食べ物を与えました。しかし、同時に、イエスは「ファン」として自分について来るのではなく、「弟子」となって従うことを求めました。

 イエスのお心には、福音が全世界に宣べ伝えられ、世界中の多くの人が救われるようにという大きな計画がありました。そうであるなら、「できるだけ多くの人々を集めて…」と考えるのが普通かもしれませんが、イエスは少数の弟子たちを身近において、彼らを訓練し、彼らに世界宣教を委ねたのです。けれども、このことは、決して社会の法則に逆行するものではありません。じつは、今日、世界中に拠点を持っている企業はみな理念を共にする少数の人々から大きくなっていったものばかりです。コンピュータの DELL、コンビニエンス・ストアの 7-Eleven、グロッサリーの Whole Foods など、みなテキサスから始まったもので、今では世界規模の企業になっていますが、どれもみな、始まりは小さなものでした。たとえ数はすくなくても、人々が共通の理念でしっかりと結ばれていくとき、それは大きく発展するのです。今日の企業経営者は知らず知らずのうちに、イエスがしたことを真似ているのです。

 ある人が、こんな計算をしました。もし、世界にたったひとりのクリスチャンしかいなかったとしても、もし、その人が一年間にひとりの人をキリストに導いたとしたら、次の年にはクリスチャンは二人になります。その二人がまたひとりづつをキリストに導いたら、その次の年には、クリスチャンは4人になります。このようにクリスチャンが増えていけば、34年するとクリスチャンの数は85億8千993万4千592人になり、国連が予想している2020年以降の世界人口とほぼ同じになります。これは単なる理論上のことかもしれませんが、それでも、数が少ないからといって、何もできないと考えてはいけないことを教えてくれます。

 イエスは、「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ12:32)と言って、数の少なかった弟子たちを励ましました。イエスの復活の後、エルサレムに集まった弟子たちは120人にすぎませんでしたが、この120人が一日のうちに3,000人になり、しばらくすると、5,000人に増えました。そして、わずか40年、一世代の間に、教会はローマ帝国のあらゆる地域に広がったのです。イエスの励ましの言葉は聖霊の力を伴い、弟子たちの「小さな群れ」が世界宣教を成し遂げたのです。

 二、弟子への招き

 ところで「弟子」という言葉には「学ぶ者」という意味があります。しかし、「学ぶ者」といっても「学生」という意味ではありません。「学生」は「教授」が与える知識を受け取るだけで良いのかもしれませんが、「弟子」は「師匠」から、技能だけではなく、職業に対する姿勢や、そこにある精神をも学ぶのです。ドイツでは、半分は学校で学び、半分は「マイスター」と呼ばれる、親方のもとで修業をする「マイスター制度」が優秀な技術者を育てています。

 このような師弟関係は、弟子が師と共に時を過ごす中で造られていきます。使徒4章に、ペテロとヨハネが、神殿で捕まえられ、ユダヤの最高法院の尋問を受けた時のことが書かれています。そのとき、ペテロもヨハネも、ひるむことなくイエスがキリストであることを証ししました。ユダヤの指導者たちは、「ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚」きました。最高法院にいる人々は、祭司の家柄であったり、当時の最高の教育を受けた者たちだったので、なぜ、無学なガリラヤの漁師たちが、こんなにも理路整然と大胆に語ることができるのかを不思議に思ったのです。そして、彼らが気づいたことは、「ふたりがイエスとともにいた」ということでした(使徒4:13)。「イエスともにいた。」ここにキリストの弟子となって学ぶ秘訣があります。イエスとの人格のまじわりの中で、イエスご自身から学ぶ。それによって人は本物の「弟子」となるのです。

 しかし、今、イエスは天におられます。今日の私たちはどうやって「イエスとともにいる」ことができるのでしょうか。イエスは天に帰りましたが、それと入れ替わるようにして、聖霊が天から来てくださいました。イエスは、聖霊がご自分に代わる教師であると言いました。「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:17)「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:1)聖霊が私たちのところに来て共にいてくださることは、私たちがイエスのところに行ってイエスと共にいることになるのです。聖霊が私たちの教師となってくださることは、イエスから直接学ぶことと同じなのです。

 また、イエスは使徒たちに「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19-20)と命じました。イエスが使徒たちに命じた「人々を弟子とし、彼らを教える」務めは、教会に引き継がれています。漢字で「教会」を「教える会」、あるいは「教わる会」と書き表しますが、それは、教会が「人々がそこでキリストの弟子となるところ」ということをよく言い表しています。現代の私たちも、聖霊と教会によって、初代の弟子たちと同じように、「イエスとともにいて」、イエスご自身から学び、イエスの弟子となることができるのです。

 三、弟子への道

 イエスの「弟子」になる。それには、それなりの覚悟が必要です。来週は「弟子の覚悟」という主題でお話しすることになっていますが、「イエスの弟子になる」ということは、なにか悲壮な決意をしなければならないということではありません。イエスの弟子になるには、確かに、一歩を踏み出す決心が必要です。しかし、それは「罪」から「赦し」へ、「闇」から「光」への「喜ばしい」一歩なのです。イエスは「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」(ルカ15:10)と言いました。イエスに出会ったザアカイは「大喜びでイエスを迎え」(ルカ19:6)ています。エルサレムで始まった教会は、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれ」ていました(使徒2:46-47)。使徒パウロの手紙には30回以上も「喜び」という言葉が使われています。初代の教会には喜びが溢れていました。キリストの「弟子」になることは大きな「喜び」なのです。

 きょうの箇所では、イエスは弟子たちを見つめて、「あなたがたは幸いだ」と言っています。そうです。「弟子の道は幸いの道」です。

 「幸い」、「幸せ」、「幸福」といっても、人それぞれに考えがあり、それを測る基準も違っているでしょう。多くの人は、お金があって、美味しいものをいっぱい食べて、楽しく暮らして、人から誉められることが幸せだと言うでしょう。ところが、イエスは、24節からのところで、「富んでいるあなたがたは、哀れな者です」「食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です」「いま笑っているあなたがたは、哀れな者です」「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です」と言っています。「えっ!」と思うような言葉です。逆に、「貧しい者は幸いです」「いま飢えている者は幸いです」「いま泣いている者は幸いです」「人々があなたがたを憎むとき…あなたがたは幸いです」とイエスは言いました。多くの人が考えていることと、逆のことを言っています。誰もが「どうして?」と思うでしょう。イエスがこのように言ったのは、本物の幸いは、その人のもって生まれた能力、家柄、境遇、あるいは、自分で得た財産や持ち物によるものではないことを教えるためでした。もし、そうしたもので人の幸・不幸が決まるのなら、「幸福な人」と「不幸な人」は生まれたときから決まっていて、能力や健康に恵まれないで生まれた人、また、良い境遇や人間関係の中に生まれなかった人は、一生涯「幸福」にはなれないということになります。

 イエスが使った「幸い」という言葉は「祝福されている」という意味を持つ言葉です。イエスは人をほんとうに幸せにするのは神からの祝福であると言っています。そして、その祝福は、私たちの境遇や環境から来るものではなく、私たちの神への信頼を通して与えられるものなのです。イエスが「哀れだ」と言った言葉は、「わざわいだ」「不幸だ」「忌まわしい」などと訳されているのですが、それは神の祝福のない虚しいものを指しています。たとえ、富んでいても、自分の財産に頼って神に頼らないなら、食べ飽きても、それによって神を忘れてしまうなら、おもしろおかしく生きていても、それが神から離れている不安をごまかすためであるなら、人々に誉められていい気になっていても、罪赦されて神に受け入れていただく恵みを知らなければ、それはいちばん不幸なことなのです。

 しかし、キリストの弟子となって、キリストに頼り、キリストに従う人生は、たとえ貧しくても、飢え渇きを覚えることがあっても、悲しみに落とされることがあっても、また、人々から仲間はずれにされることがあっても、そうしたものによっては左右されない、信仰の富、たましいの満足、天の喜び、そして神の愛を持つ幸いな人生なのです。イエスが私たちに「弟子となれ」と言うのは、神のいない虚しい人生から救われ、神の祝福の中を歩くようにとの招きなのです。使徒パウロはこう言っています。「私たちは…人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(コリント第二6:8-10)「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4:12)パウロは、そう言うことによって、神からの幸いを証ししています。キリストの弟子として生きている者は皆、同じ証しを持っています。「弟子の道は幸いの道。」このことを信じて、一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちのこの集まりは、まことに「小さな群れ」ですが、主イエスは、そんな私たちに目を留め、「幸いだ」と宣言し、「恐れるな」と励ましてくださいます。あなたの祝福を受け、それを他の人々と分け合うことができるため、私たちをキリストの弟子とし、キリストに学び、キリストに従う者としてください。弟子として歩む者に約束された幸い、祝福、平安と喜びに生きる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/5/2020