4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、
4:2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「人はパンだけで生きるのではない。と書いてある。」
4:5 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
4:7 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
4:8 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」
4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、
4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」
4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」
「先生、悪魔の誘惑について話してください」、「地獄について教えてください。」昨年、そんなリクエストをいただきました。聖書は神や神の国について教えるために書かれたものですが、悪魔や地獄も実在しますので、それについても書いています。きょうの箇所は、新約聖書でいちばんはじめに悪魔が登場するところです。悪魔はイエスを誘惑しましたが、イエスはそれに勝たれました。ここには、悪魔の誘惑に勝つ方法が教えられていますので、そのこととともに、悪魔の誘惑について学びましょう。
一、福音を語る使命
悪魔はイエスに三つの誘惑を仕掛けました。第一は3節です。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」「石をパンに変えて、それを食べ、早速空腹を満たしなさい」というわけです。イエスは、40日の断食を終えたばかりで空腹を感じていましたので、この誘惑はそれと関係がありますが、それは、イエスが空腹を満たす以上のことを言っています。悪魔は、イエスに、「あなたが空腹なように、大勢の人が十分な食べ物がなくて苦しんでいる。自分が救い主だというのなら、まず、人々にパンを与えたらどうなんだ」とチャレンジしているのです。「石をパンに変えてみろ」というのは、イエスに、神の国や罪の赦し、また、永遠の命などといったことよりも、人々が今、現実に抱えている問題を解決するのが先決だと言っているのです。イエスの使命を、人々を神に立ち返らせることから、人々の願望を満たすことへと変えさせようとするものでした。イエスはこの誘惑に「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」とお答えになりました(4節)。
イエスは「スーパーマン」として世に来られたのではありません。中国の「仙人」のように霞を食べて生きていたのでもありません。イエスはおなかも空けば、渇きも感じ、疲れも覚えました。私たちと何も変わらなかったのです。イエスは、乏しい者や貧しい者の苦しみを誰よりもよく知っておられました。愛とあわれみのゆえに、空腹の人々にパンを与え、病気の人に癒やしを与えておられます。しかし、パンや癒やしを与えることは決してイエスの第一の使命ではありませんでした。イエスは、食べてもまたおなかが空くようなパンではなく、ご自身を「いのちのパン」として、人々に与えるために、世に来られたのです(ヨハネ6:35)。
世界の飢餓の原因は食糧が足らないからではありません。この地球には世界80億の人々が十分に食べるだけのものがあるのです。ところが、戦争や内乱のために田畑や牧場が荒らされ、地元で食糧を生産できなくなっています。必要なところに食糧を届けようとしても、それが妨げられているのです。それに、一部の国の独裁者たちは、民衆をわざと貧しくしておき、国家権力に服従しないと生きていけないようにして、自分たちの権力を保とうとしています。人々が神に立ち返り、世界が平和にならなければ、飢餓や貧困の問題は解決しません。イエスが福音を宣べ伝えることを第一にされたのは、遠回りのように見えて、じつは、確実に人々の必要を満たすことだったのです。
イエスに従う者たちには、福音を伝える宣教の働きと、人々の必要に応える活動の二つが命じられています。両方とも大切です。しかし、そこには順序があります。第一は、福音を伝えることです。それを忘れてしまうと、どんなに善い行いに励んだとしても、人々のたましいは救われません。社会も良くなりません。悪魔は、人々に、たましいのことよりも、目に見える豊かさだけに目を向けさせます。イエスに従う者たちにも、福音を伝えるという使命を忘れ、無視し、他のことに熱中するよう誘惑してきます。イエスに従う者は、常に、自分の本来の使命、第一の使命を思い返すことによって、この誘惑に勝利したいと思います。
二、妥協のない信仰
第二の誘惑では、悪魔は世界の国々を全部見せて、「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言いました。これは嘘です。世界は神のものです。悪魔は神を嫌う人々と手をつないで、国々を神から一時的に奪いとっているにすぎません。
ところが悪魔は、この嘘に基づいて、イエスにこの世の権力との妥協を申し出ました。「もし、世界に教えを広めたいというのなら、この世の権力を得て、それを使えばいいではないか。世界中の人々はたちまち、あなたの教えに聞き従うようになるだろう。さあ、私と手を組もうではないか」と、神の力とこの世の力とをミックスするように呼びかけたのです。
イエスは、この嘘を見破り、彼にこう答えました。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」(8節)誘惑に勝つためには、嘘を見破る知恵と知識や洞察力などとともに、妥協のない信仰が必要です。なるほど、この世の権力と結びつけば、キリスト教は世界宗教になるでしょう。けれども、それは、人を救う力を持たない、形ばかりのものになってしまいます。歴史をふりかえると、教会は、最初、この世の権力から迫害を受けても、決して妥協せず、ただ神の力に頼って信仰を守り、福音を伝えてきました。迫害が止み、キリスト教が「国教」になっていったとき、教会に様々な腐敗が生まれました。その腐敗を正すために宗教改革が起こり、教会はこの世の権力と手を切り、ただ神に頼って、福音を語るようになったのです。
私たちは毎週、世界の国々のために祈っていますが、そのビデオでは、多くの国々で、その国に以前からあった宗教の束縛や偽りから救われたはずのクリスチャンが、再びそれと妥協し、福音と呪術とを混ぜてしまい、福音によって人々が変わり、社会が変わっていく祝福を逃していることが言われています。信仰の妥協は神の祝福を失わせます。まことの信仰者は、そうした誘惑を斥け、「主を拝み、主にだけ仕える」信仰を貫きたいと思います。それは、信じる者を祝福するだけでなく、その人のまわりにも祝福をもたらすのです。
三、正しい生き方
第一の誘惑にも、第二の誘惑にも、イエスは聖書から引用して答えました。それで、第三の誘惑では、悪魔も聖書の言葉を使いました。彼はイエスを神殿の屋上に連れて行って、こう言ったのです。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」(9-11節)ここで引用されているのは、詩篇91篇の言葉ですが、この詩篇は、神に信頼して人生を歩む者を神が守ってくださることを言っています。高いところから飛び降りても、死なないし、骨折もしないなどといったことは書かれていません。悪魔は聖書の言葉さえねじ曲げます。そうした間違った聖書の解釈から「キリスト教」だと名乗り、聖書を使いながら、聖書とは全く違う教えが生まれたのです。聖書は間違って使われると、人々を救うどころか、かえって人々を迷わせ、人々を救いから遠ざけます。聖書を正しく学ぶことがどんなに大切かが、このことからも分かります。
イエスは、この偽りとこじつけに対して「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている」と答え、悪魔の誘惑を斥けました(12節)。悪魔は、イエスに、「神殿の屋上から飛び降り、ふわっと着地してみなさい。人々は拍手喝采して、あなたはたちまち人の心を掴むだろう」と提案したのですが、イエスは、人々を驚かせるようなパフォーマンスを拒否しました。そもそも神殿は神を礼拝する場所であり、そこはパフォーマンスの場ではないからです。イエスは、派手なパフォーマンスをして人々を惹きつけるスーパースターではありませんでした。どんな場合でも、父なる神のみこころに従って、忠実に、誠実に、その使命を果たされました。聖書はイエスの宣教について、こう言っています。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ12:18-21)」
イエスに従う者は、このイエスの生き方に倣うべきです。「どんな危ないことをしても神が助けてくださる」などと言って、いたずらに神を試みるようなことをしてはなりません。また、分をこえて自分を大きく見せようとするのも愚かなことです。インターネットの時代になり、YouTubeなどで自分のパフォーマンスを見せ、それで成功のチャンスを掴もうとする人が増えています。内実よりも「見た目」のほうが重視されるようになり、見せかけだけのものが幅を効かせる時代になりました。誘惑は、人が自分を大きく見せようとするところから入って来ます。
このような誘惑に勝つには、聖書の正しい知識が必要です。それによって偽りの教えをしりぞけることができます。しかし、それとともに、また、それ以上に必要なのは、信仰によって営まれる正しい生き方です。それがなければ、理性だけでは誘惑に勝つことはできません。人の内側にある罪深い欲望や根深く抱いている、神に喜ばれない感情は、簡単に「理性」という防波堤を突き崩してしまう力を持っているからです。自分が誘惑に弱い者であることを認めて、日々主に頼り、主の恵みの中を謙虚に歩むこと、それが人を誘惑から守るのです。
誘惑に勝利された主は、私たちに、誘惑に勝つ秘訣を教えておられますが、同時に、誘惑に勝つ祈りをも教えてくださっています。それは、誰もが知っている「主の祈り」です。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:9-13)「主の祈り」は、じつに謙虚な祈りです。自分の必要を願う前に、神をあがめています。自分の願いよりも神の国が、神のお心が成ることを求めています。自分のことを願うときにも、欲しい物すべてを並べ立てるのでなく、ほんとうに必要な「日毎の糧」だけを願い求めています。自分の罪を認め、それを悔い改め、神との交わりを願い求めています。「試みに会わせないで、悪からお救いください」と、自分が誘惑に弱いことを認めて、ひたすらに主の守りを願い求めているのです。
「主の祈り」は「祈り」ですが、同時に、キリストに従う者の生き方の「指針」です。人は祈っているように生きるからです。主が教えてくさった祈りを心から祈る者は、主が歩まれたように生きることができようになります。
誘惑に遭うとき、神から与えられた使命を確認し、そこに立ち返りましょう。御言葉によってそれを斥けましょう。イエスが歩まれた生き方に倣いましょう。そして、なりよりも、イエスのもとに逃れ、イエスに頼り、イエスに守っていただきましょう。そこに悪魔に対する勝利があり、誘惑からの逃れの道があるのです。
「主の祈り」をご一緒に祈りましょう。
(祈り)
「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
1/9/2022