主イエスの福音宣教

ルカ4:14-21

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4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 教会のミッションステートメントが執事会で採択されました。それは、「私たちの使命はイエス・キリストの宣教命令を、神の栄光のために、聖霊の力により、満たすことである」というもので、このあとに、マタイ28:18-20が続きます。

 ミッションステートメントというのは、会社や団体が何のために存在するのかという「理念」を示すもので、そこには、具体的な「方策」は織り込まれてはいません。具体的な「方策」をしるしたものは「ビジョンステートメント」と呼ばれ、3年から5年の中・長期にわたって取り組む事業が示されます。ビジョンステートメントが無ければ、ミッションステートメントは飾りもので終わってしまいます。

 これから「ビジョンステートメント」を作っていくのですが、教会の場合は、他の企業や団体と違って、「ビジョン」は神が示してくださるものですので、しっかりと聖書を学び、祈りのうちに神のみこころを受け取らなければなりません。キリストの「宣教命令」を満たすため、福音を宣べ伝えるということがどんなことなのかを、聖書に基づいて理解しておきたいと思います。

 きょうの聖書の箇所は、主イエスが公けに福音を宣べ伝えはじめられたときのことが書かれています。ここで、主イエスは、福音宣教はどんなことだと言っておられるでしょうか。そのことを学び、私たちの福音宣教について考えてみましょう。

 一、罪の赦し

 主イエスは18−19節で「捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」と言われました。福音宣教とは、「捕われ人に赦免を与え、盲人の目を開き、しいたげられている人々を自由にする」ものだと教えられたのです。

 第一に、「捕われ人には赦免を」ということばは、罪の赦しについて語っています。人生で失敗のない人は誰もいません。誰もが過去に、「あんなことをしなければよかった」、「あのときにこのことをしておけばよかった」という後悔を持っています。人生を長く生きれば生きるほどそれは増えていきます。また、自分自身の内面を見るとき、自分の中に、汚れた思いや、愛のない冷たい心があることに気付きます。三浦綾子さんの小説『氷点』は人の心の奥深いところにある「罪」をテーマにしたもので、三浦さんは小説の主人公、陽子にこう言わせています。

 「現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることなのでした。

 自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸を張って生きていける強い人間でした。そんなことで損なわれることのない人間でした。なぜなら、それは自分のソトのことですから。けれども、いま陽子は思います。一途に精一杯生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということを。

 私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。この罪ある自分であるという事実を耐えて生きていく時にこそ、本当の生き方が分かるのだという気もします。

 私は今まで、こんなに人に赦してほしいと思ったことはありませんでした。おとうさまに、おかあさまに、世界の全ての人々に、私の血の中を流れる罪を、はっきりと『赦す』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。私には、おまえの罪を赦すという権威が必要なのです。」

 これは小説の主人公の言葉ですが、人々の心の実際の叫びでもあると思います。罪の赦し、それは誰もが、心の奥底で求めているものです。福音を伝えるということは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを告げ知らせることなのです。

 復活されたイエスは弟子たちに「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:47)と教えました。罪の赦しは福音の中心です。この時の弟子たちは、十字架にかけられたイエスを見捨て、イエスが復活されたことを信じなかった人たちです。イエスが弟子たちの第一の者として選ばれたペテロでさえ、イエスを三度も知らないと否定しています。しかし、弟子たちは、自分たちの罪深さを知り、真実に悔い改め、赦しを体験しました。だからこそ、罪の赦しの大切さを知り、それを宣べ伝えることができたのです。ペテロはペンテコステの日に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と説教しています。罪の赦しは、罪を悔い改め、赦しを受けた人たちだけが伝えることができるものであり、キリストは、罪の赦しの福音を、罪の赦しを知っている者たちにゆだねてくださったのです。

 こうして、他のどこにもない尊い福音が21世紀の今日に至るまで、世界中に伝えられ、救われる人々が日々増えつづけ、救われた人々の群れである教会が広がり続けているのです。それは罪のない完璧な人によってでなく、むしろ罪を知り、罪赦された者たちによって教会が形作られているのです。

 二、真理への導き

 第二に、「盲人の目の開かれること」というのは、人々が神の真理に導かれることを意味しています。多くの人は、唯一のまことの神がおられることを知りません。しかし、福音が語られるとき、「神が私を造ってくださった。私を造ってくださった神が、ご自分の御子イエス・キリストを身代わりにしてまでも、私を愛してくださった」ということが分かるようになります。そこから人生を新しく見ることができるようになる。まさに、目が開かれる体験をするのです。

 聖書で、目が開かれる体験をした人が数多くありますが、その代表的なのは使徒パウロでしょう。パウロは、もとの名をサウロと言い、キリストを信じて使徒とされるまでは、教会を迫害する者でした。サウロは熱心なユダヤ教徒であり、クリスチャンがイエスを神の子として礼拝するのを許しておくことができませんでした。それで、ユダヤだけでなく、今、ニュースで話題になっているシリアのダマスカスにまで迫害の手を伸ばそうとしました。ところが、サウロはそこで主イエスに出会うのです。突然、天からの光がサウロを照らし、サウロは目が見えなくなってしまいます。サウロが目の見えないままダマスカスにとどまっていると間、ダマスカスの教会の指導者アナニヤがサウロのところに遣わされました。アナニヤがサウロのために祈ると、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになりました(使徒9:18)。「目からうろこ」ということわざは、聖書のここから出たことわざなのです。そのときサウロは、「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒26:17-18)というキリストからの使命を受けました。目を開かれ、暗やみから光に導かれたサウロは、今度は、他の人の目が開かれ、暗やみから光に導かれるために、福音を伝えはじめるようになりました。

 私たちも、目を開かれて、主イエスを知りました。ですから、この喜びを他の人に伝えないではいられないのです。

 三、解放と自由

 第三に、「しいたげられている人々を自由にし」とは、罪とその結果に縛られている人々を解放し、自由にすることを意味しています。人は罪を犯すことも、正しく生きることも選ぶ自由を持っています。人は、その自由を使って、義を選びもし、罪を選びもするのです。自分の自由意志を使って罪を犯すのですが、罪を犯した後は自由ではありません。罪の結果に縛られるのです。交通違反をすればチケットを切られ、罰金を払い、トラフィック・スクールに行かなければなりません。誰かを傷つければ賠償を命じられるばかりか、ジェイルに入らなければならなくなります。そうした法律上の犯罪でなくても、私たちは何らかの罪を犯し、その結果に縛られています。「アルコール」や「ドラッグ」のような見えるものばかりでなく、「怒り」や「妬み」、「優越感」や「劣等感」、「不平」や「不満」など心の中にあるものにも縛られてしまいます。イエスが「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)と言われた通りです。

 人が罪の結果から逃れられないことは、誰もが必ず死ぬということによって明らかです。聖書が「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と言うように、すべての人は、罪を犯しており、罪の結果である「死」を報いとして受けるのです。人が死を恐れるのは、自分が罪を犯しており、やがて神の裁きを受けるということを、おぼろげながらも知っているからです。

 聖書が「死」というとき、それは「霊的な死」、「肉体の死」、そして「永遠の死」の三つを指しています。「霊的な死」というのは、神に対して無感覚になり、神に応答できないことを指しています。死んだ人に呼びかけても答えがないように、神が語りかけておられるのに、それを聞くことができない、それに応答することもない状態がそうです。「肉体の死」は地上の人生が終わることを指します。人はそれまでに築きあげてきたいっさいの物を置いて世を去らなければなりません。財産も、学問も、人間関係も、地位も、名誉も、すべてです。人は裸で生まれ、裸で死んでいきます。ひとりで生まれ、ひとりで死んでいきます。救い主を持たないで死を迎えることほど、孤独で恐ろしいことはありません。「永遠の死」は、死後の裁きによって、神から引き離されることを指しています。

 すべての人は、どんなにしても死から逃れることはできません。しかし、この三つの死から解放してくださるお方がいるのです。それがイエス・キリストです。

 すこし話が変わりますが、アウシュビッツ収容所で、囚人となっていた10名が餓死刑に処せられることになったときのことです。その10人のうちのひとり、ポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだしました。それを聞いたマキシミアノ・コルベ神父は「私が彼の身代わりになります。私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出て、コルベ神父と9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められました。ふつう、餓死刑に処せられるとその受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態になるのが普通でした。ところが、その部屋からは祈りと賛美が聞こえ、餓死室はさながら聖堂のようだったと、看守が証言しています。

 アウシュビッツでは、コルベ神父のように誰かの身代わりになることはできても、神の審判においては、罪ある人間は、他の人の身代わりになることはできません。しかし、ただひとり、罪のないお方、イエス・キリストは全人類の身代わりになることができるのです。イエス・キリストの十字架の死は、あなたのため、私のための身代わりの死でした。聖書は、人は罪という牢獄に閉じ込められていると教えていますが、その牢獄の扉を開ける鍵が、罪の赦しをもたらすキリストの十字架なのです。福音宣教とは、この神の子の身代わりの死のゆえに、私たちが死の牢獄から解放されると告げ知らせることなのです。

 私は子どものころ母親を亡くし、義理の兄を亡くし、自分も重い病気にかかったため、とても死を恐れていました。高い熱を出して寝ていなければならないとき、「死んだらどうなるんだろう」と考えてとても不安でした。しかし、聖書を読み、イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んでくださった、いや、それだけでなく、死人の中から復活して、私に永遠の命を与えてくださるということを知り、信じたとき、私は死の恐怖から解放されました。「永遠の死」は「永遠の命」に、「霊的な死」は「霊の命」に、「肉体の死」は「からだのよみがえり」に代わりました。やがて「肉体の死」を経験しなければなりませんが、主イエスと共にあるなら、それも天への入り口に過ぎません。ヘブル2:14-15に「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」とありますが、まさに、私はこのみ言葉のとおりのことを体験したのです。

 今朝の箇所で、主イエスは、聖書を朗読してから、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と言われました。イエスこそ、人々に罪の赦しを与え、人々の心の目を開き、罪とその結果から人々を解放し、自由にするお方だからです。この主イエスを信じる者は、その罪が赦され、真理に導かれ、罪と死から解放されます。罪を赦された幸い、真理に導かれた喜び、解放と自由の感謝を体験しています。主イエスが語られた聖書のみことばがは、今も、実現しているのです。誰かがイエス・キリストを信じて救われるとき、主イエスは、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と語ってくださるのです。

 福音を伝えるためには、知識も訓練も必要でしょう。しかし、その人に罪の赦しの喜び、真理への愛、解放の感動がなければ、ほんとうには福音は伝えられません。体験は体験によってしか伝わらず、感動は感動によってしか伝わらないからです。どう伝えるかは、その時々に知恵が与えられます。救われた私たちが常に福音に聞き、それを体験し、それに感動している、そのことが何よりも大切です。赦された感謝、神を知る恵み、解放の喜びをきょうもしっかりと心に受けとめましょう。そして、家族の救い、友人の救いのために祈り、この福音を伝えることができるようにと、熱心に神に願い求めていきましょう。

 (祈り)

 恵み深い神さま、主イエスが私たちのために勝ち取ってくださった罪の赦し、真理の知識、解放と自由を感謝します。この救いの体験、喜び、感動を他の人と分かち合うことができますよう、私たちを励ましてください。臆病な心を取り除き、怠惰な思いから解放し、大胆に、忠実に、あなたの福音を証しさせてください。そして、祈ってきた人たちが救われ、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」という主イエスの宣言を聞くことができますように。主イエスのお名前で祈ります。

2/3/2013