3:1 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、
3:2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
3:3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。
3:4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。』
3:5 すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、
3:6 人はみな神の救いを見るであろう。」
一、アドベント・キャンドル
アドベントには、四本のキャンドルを灯します。四本のキャンドルにはそれぞれ名前があり、また、意味があります。最初のキャンドルは「預言のキャンドル」と呼ばれ、「希望」を意味します。次は「天使のキャンドル」で「平和」、三本目は「羊飼いのキャンドル」で「喜び」、四本目は 「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、「愛」を意味します。
「希望」を表わす最初のキャンドルが「預言のキャンドル」と呼ばれるのは、私たちの希望が預言、つまり、神の言葉から来るからです。預言のない希望、神の言葉に基づかない希望はたんなる夢、幻、期待に過ぎません。わたしたちがイエス・キリストを信じ、暗い時代であっても、困難な中でも、希望を持ち続けているのは、決して根拠のないことではありません。わたしたちは神の言葉によって信じ、希望を持っているのです。希望の源は神の言葉です。神の言葉にこそゆるがない希望があります。希望のともしびは神の言葉という蝋を溶かしながら燃え続けるのです。わたしたちの希望が成就するときまで燃え続けるのです。
二本目のキャンドルが「天使のキャンドル」と呼ばれるのは、「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった」(ルカ2:11)と告げたあと、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14)と、天使たちが神を賛美したからです。このキャンドルは、わたしたちに、救い主によって与えられる「平和」を思い起こさせてくれます。
三本目のキャンドルが「羊飼いのキャンドル」と呼ばれ、それが「喜び」を意味するのは、天使のお告げを聞いた羊飼いたちが、飼葉おけに寝ている生まれたばかりの救い主を見て、喜びに満たされたからです。
四本目のキャンドルが「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、それが「愛」を意味するのは、ベツレヘムで生まれた神の御子こそ、神の愛の完全な表われだからです。神が人となられたことを「受肉」(incarnation)と言いますが、まさにイエス・キリストは神の愛の「受肉」、神の愛が形をとって現れたお方です。神の御子が人となられたのは、わたしたちの身代わりとなるためでした。神の御子は成人した姿で、しかも、栄光に輝く姿で世においでになることもできました。しかし、母の胎に宿り、月満ちて、赤ん坊となって生まれました。まだ医学が発達しておらず、戦争や内乱、飢饉や貧困など、さまざまな危険に囲まれていた時代には、無事に大人になることは、すべての子どもに保証されたことではありませんでした。主イエスは、そんな危険を犯してまで、この世に来てくださいました。わたしたちの身代わりとなるため、人が経験するあらゆる苦しみを通り、正真正銘の人となられたのです。
「ベツレヘム」という町の名前には「パンの家」という意味があります。主イエスは「わたしはパンである」と言われました。最後の晩餐ではパンを裂いて「これはわたしのからだである」と言われました。神の御子は、ご自分のからだを「いのちのパン」として分け与えるため、人となってお生まれになったのです。きょうの晩餐式では、そのことを深く思い見たいと思います。パンとともに、この大きな神の愛を受け取りたいと思います。
二、救い主による平和
さて、きょうはアドベント第二週で、天使のキャンドルを灯しました。このキャンドルが表わしている「平和」について考えてみましょう。
第二次世界大戦が終わってから70年が経ちましたが、その間も世界の各地で戦争が続きました。今も続いています。大戦後すぐ、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争があり、中東戦争はパレスチナ紛争としていまだに続いています。シリアの内戦、イスラミック・ステートによるテロなど、世界の各地で戦争、内乱、紛争が絶えません。ある人は「平和とは、戦争と戦争の間のほんの短い休止にすぎない」と言いました。人類の歴史は戦争の歴史だといっても言い過ぎではないと思います。今、各地での戦争が世界大戦にならず、一応の「平和」があります。けれども、この「平和」は、軍事力のバランスや政治的なかけひきの上に成り立っているもので、実に危ういもの、不安定なものです。
なぜ、世界に戦争が絶えないのでしょうか。人はどうして、争うのでしょうか。それは、人の心の中にある罪のためです。ヤコブ4:1-2にこんな言葉があります。
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の憲章にも「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあって、戦争をなくすためには、人の心が変えられなくてはならないと言っています。そのために、様々な努力がなされてきました。しかし、教育も、経済も、科学技術も、人の心を変えることはできませんでした。人は知識が増えてかえって高慢になり、豊かになって貪欲になり、科学技術に信頼して神への信頼を忘れました。
人の心に平和を与えるのは、「平和の君」(イザヤ9:6)と呼ばれるイエス・キリストだけです。聖書に、「彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザヤ2:4、ミカ4:3)とあります。イエス・キリストがもう一度来てくださるまでは、戦争は続くでしょう。しかし、イエス・キリストは、かならず来て、すべての戦争を終わらせてくださいます。「つるぎを打ちかえて、すきとし、やりを打ちかえて、かまとする」というのは、戦争が無くなって、もう武器を必要としない平和な世界を表わしている言葉です。人の命を奪い、あらゆるものを破壊する武器ほど、非生産的なものはありません。しかし、主イエスが再び来てくださるとき、それらは、人を生かし、豊かな実りをもたらす、生産的なものへと作りかえられていくのです。わたしたちは、剣が鋤になり、槍が鎌になる、その日を待ち望んでいます。
国と国との戦争ばかりでなく、人と人が互いに傷つけ合ってまで競い合っていることにも、主イエスは解決を与えてくださいます。「彼らはもはや戦いのことを学ばない」とあるように、人の心から争いの種となるものが取り除かれるのです。人を傷つける剣のような心はいたわりの思いへと変えられます。相手を突き刺す槍のような言葉は、人を温める言葉に変わります。主イエスがくださる平和は、人の内面から出てくる平和です。この平和によってこそ、人はほんとうの平和を味わうことができるのです。
三、平和への道
この世に、また、わたしたちの身近な人間関係の中にいさかいがあり、争いがあります。お互いの間に平和が実現しないのは、わたしたちが神との平和を持っていないからです。わたしたちのお互いの平和は、わたしたちひとりびとりが神との平和を持っているかどうかにかかっています。
聖書は、人は、他の人と争う前に、神と争っていると教えています。多くの人は「神なんかいるものか」と言って、神を否定することによって神と争っています。神の存在を認めたとしても、神を遠に追いやって、「神さまは神さま、わたしはわたし」と考え、神に背を向けることによって神と争っています。また、「べつにイエス・キリストによらなくても、自分の方法で神に従えばいいのではないか」と言って、イエス・キリストを自分の心と生き方から締め出すことによっても神と争っています。自分の力で救われようとするのは、西海岸からハワイまで泳いでいこうとするようなものです。そんなことは誰にもできません。誰にもできませんから、誰も本気になってやろうとはしません。「自分でできる」と言っても、実際のところ、神に近づくために何もしていない、何もできないというのが、わたしたちの現実です。
しかし、イエス・キリストは、わたしたちが神に従って生きることがことができるために、神が備えてくださった、もっとも確実で、容易い道です。それは、ハワイ行きの安全で、整った客船のようなものです。そこには、わたしたちに必要なすべてのものが備えられています。この客船に乗るためのチケットはすべての人に提供されています。その代価は主イエスが支払ってくださったのです。わたしたちはただ、信仰によってそれを受け取ればよいのです。イエス・キリストはわたしたちが神に対して犯した罪のすべてを背負って十字架の上でその刑罰を受けてくださいました。わたしたちの罪はそれによって赦され、わたしたちは神との平和を得るのです。神の子どもとされ、神の愛と恵みと祝福を受けるのです。永遠の命を与えられ、地上の命が終わっても、永遠に神とともにいることができます。主イエスのくださる平和によって、わたしたちは、主イエス・キリストが再び来られるときを平安のうちに迎えることができるのです。
いつまでも、救いの船の入り口に立ったままでいないでください。一歩を踏み出して、ともに神に近づきましょう。クリスマスの賛美「もろびとこぞりて」(Joy to the World)は「The Lord is come! Let earth receive her King, Let every heart prepare Him room. 主は来られる。あなたの王を迎えなさい。主のために、心に場所を用意しなさい」と歌っています。いつまでも神と争っていないで、このクリスマスを「平和の君」を心に迎える時としましょう。そして、心いっぱい「Heaven and Nature sing! 天も地も歌え」と賛美しましょう。
イエス・キリストを迎え入れ、罪の赦しを受けた者は、他の人を赦すことができるようになります。そして、神との平和から人と人との平和が生まれ、それが社会に、世界に広がっていくのです。バプテスマのヨハネは、この「平和の君」への道備えとなりました。人々に救い主を迎える備えをさせました。主イエスがもういちど来られようとしている今、クリスチャンにはバプテスマのヨハネと同じ役割が与えられています。わたしたちも、救い主がくださる神との平和をさらに豊かにいただいて、わたしたちの身近かなところに平和を生み出していきたいと思います。それによって、「平和の君」、イエス・キリストを証ししたいと思います。このアドベント、とりわけ、この第二週目には、この平和を追い求め、この平和を証しすることに心を注ぎたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちに平和の君、主イエス・キリストをお送りくださり感謝します。主イエスは神の子羊となり、わたしたちの罪の償いのための犠牲となってくださいました。それによってわたしたちは神との平和をいただきました。「世の罪を取り除く神の小羊よ、われらに平和をたまえ」との祈りのうちに、主の晩餐を通して、この平和を心に刻み、この平和を多くの人々に証しする者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
12/6/2015