24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
一、キリストの証人
きょうは「キリストの証人」というタイトルでお話しするのですが、「キリストの証人」とは誰のことでしょうか。それは、まずは、イエスの直接の弟子たちのことです。イエスが弟子たちに「あなたがたは、これらのことの証人です」(48節)と言われた通りです。
ユダのかわりにもうひとりの使徒を補充するとき、ペテロは、「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」(使徒1:22)と言いました。十二使徒のひとりになるにはそのような条件が必要でしょうが、地上におられたときのイエスに出会っていない人たちも、「証人」と呼ばれています。たとえば、パウロは地上におられたイエスに会っていません。パウロはイエスと同時代の人でしたから、イエスに出会っていても不思議ではないのですが、彼はパリサイ派のひとりで、イエスに会いたいとも思いませんでした。しかし、イエス・キリストを信じたとき、「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」(使徒26:16)というキリストの言葉を聞いています。パウロのように後になってキリストを信じた人もまた「キリストの証人」と呼ばれたのです。
パウロは自分の弟子テモテに「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません」(テモテ第二1:8)と命じました。テモテは、小アジア、今日のトルコのルステラという町にいた青年で、パウロに導かれてキリストを信じました。テモテはパウロを通してしか、イエスの言葉を聞いていません。しかし、彼もまた、キリストをあかしする務めを与えられており、「キリストの証人」でした。パウロはテモテに「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(同2:2)とも言っています。真理はキリストからパウロへ、パウロからテモテへ、そしてテモテから次の人へ、次の人はその次の人へと伝え、こうして「キリストの証人」としての務めは、今日まで受け継がれているのです。
ペテロ第一2:9にこう書かれています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」イエス・キリストを信じて救われた者は、すべて、キリストの救いのみわざを宣べ伝える「キリストの証人」です。「あなたがたは、これらのことの証人です」(48節)との言葉は、今日の信仰者にも語りかけられているのです。
二、証人の務め
では、「キリストの証人」として、私たちは何をするのでしょうか。何をしなければならないのでしょうか。まずは、イエスが教えてくださったことを忠実に他の人に伝えることです。イエスは聖書を解き明かして、「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(46-47節)と教えました。ペテロはペンテコステの日にこう説教しました。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。…ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。…悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:32-38)イエスの教えとペテロの説教を比べてみてください。全く同じです。ペテロは、イエスが教えた通りに、十字架と復活、悔い改めと罪の赦しを忠実に伝えてました。
証人は、自分が見たこと、聞いたことを忠実に、正確に伝えなければなりません。勝手に付け加えたり、削りとったり、自分の意見を入れて変更することは許されません。パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。…律法を持たない人々に対しては…律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです」(コリント第一9:20-21)と言いましたが、それは福音を伝えるときの配慮や方法について言っているのであって、相手によって福音を変えたと言っているのではありません。パウロは、「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」(コリント第一1:24)と言って、福音そのものは、相手が誰であろうと、変えられてはならないと言っています。ユダヤ人の福音、ギリシャ人の福音、また古代人の福音、現代人の福音といったものはありません。どこの誰であっても、どの時代の人であっても、イエスの十字架と復活により、悔い改め、信じる者が救われるという、ただひとつの福音があるだけです。
このように「キリストの証人」には正確に福音を伝える務めがあるのですが、正確でありさえすればいいというのではなく、それ以上のものが求められています。それは伝えた福音の正しさを自分の生活によって実証するということです。薬や健康食品などの宣伝に “Testimony” といって、「これを使ったら、こんなによくなりました」という体験談が使われます。その薬やサプリメントを勧める人が、病気だったり、不健康だったりしたら、何の説得力もありません。同じように、キリストの救いを伝える人が、救いの確信がなく、罪の赦しから来る平安や喜びも持たず、いいかげんな生活をしていたら、誰が福音を信じるでしょうか。キリストの救いを身をもって証明する、それが「キリストの証人」の務めです。
そう言われると、私たちはみな「罪赦された罪人」であり、不完全ですから、「私などがキリストのことを話したらかえって人々の躓きになってしまう」と心配になります。けれども、すべてに完全な人は誰もいないように、キリストをあかしするのに、どんな素質もない人もいないのです。いろいろな欠点や弱さがあったとしても、それを素直に認め成長を目指しているなら、人々は、その素直さ、真剣さを見て、福音に耳を傾けてくれるでしょう。失敗の多い人であっても、それにめげないで努力しているなら、人は、それを見てキリストに心を開くでしょう。言葉でうまく話すことができなくても、他者に対する思いやりを持ち、実際的な手助けを惜しまない人の中に、人々はキリストを見出すことでしょう。イエスは、ひとりひとりの素質を生かし、あかしのために用いてくださるのです。
三、証人の力
「キリストの証人」となる力は、聖霊から来ます。イエスは弟子たちに「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)と言われました。聖霊が、弟子たちを、そして、私たちを「キリストの証人」にしてくださるのです。
「力を着せられる」とはどういうことでしょうか。聖書に「主は、王であられ、…力を身に帯びておられます」(詩篇93:1)とあるように、神ご自身が全能の力を身にまとっておられるのですが、神はご自分の力を人間に着せてくださるということです。放蕩息子の父親が息子に晴れ着を着せたように、私たちが悔い改めて神のもとに帰るとき、神は私たちに義の衣、救いの衣を着せてくださいますが、それとともに、神は、私たちに力をも着せてくださるのです。警察官の制服やバッジが、犯罪を取り締まる権威を与えるのと同じように、「キリストの証人」には人間のどんな力にもまさる神の力が着せられるのです。弟子たちはユダヤの指導者から見れば小さく弱い人々でしたが、聖霊を受け、神の力を着たとき、どんな権威も力も、圧迫も迫害も恐れず、それらに勝利していきました。
今日のアメリカでは信仰の自由がありますが、それでも、人々にキリストをあかししようとすると困難に直面します。パンデミックの中で、自分の生き方や人生を考え直さなければならないのに、人々は信仰を求めようとはしません。神なしでも結構やっていけると考えています。日本の人々は宗教にたいする警戒心が強く、教会やクリスチャンに距離を置く人たちが多勢います。生活があまりにも忙しい、物質主義に染まっている等、福音の妨げと思えるものはいくらでもあります。そうした妨げを人間の知恵と力で取り除く工夫をしたからといって、それで福音が広まり、人々がキリストを信じるようになるわけではありません。人々が福音に耳を傾け、それを信じ、受け入れるためには、なによりも、上からの力、聖霊の力が必要なのです。聖霊の力なしに人々の目は開かれず、真理を悟ることはありません。また、聖霊の力なしに、他の人々と真理を分かち合う知恵が私たちに与えられることもないのです。
イエスは弟子たちに「力を授けられるまでは、都にとどまって」いるようにと命じました(49節)。イエスは弟子たちに「行け」と命じましたが、弟子たちが聖霊を受けることなしに出て行くことを望まれませんでした。出て行くための身支度を弟子たちに求められたのです。弟子たちはイエスが天に帰られてから、なお10日間待ちました。しかも、心をひとつにし、祈りに専念して聖霊を待ちました。そうして、弟子たちは聖霊の力を着せられ、力を授けられ、「キリストの証人」になって全世界に出て行ったのです。
私たちも初代の弟子たちと同じように、出て行く前の身支度が必要です。私たちはキリストの救いを体験し、確信しているでしょうか。福音を知り、学び、理解しているでしょうか。聖霊の力を着せられているでしょうか。この礼拝から遣わされ、出て行く前に、聖霊の力を着せていただきましょう。聖霊が福音を伝える者にも、それを聞く者にもともに働いて力を現してくださるように祈りましょう。
(祈り)
父なる神さま、けさ、私たちは、イエス・キリストを信じる者はみな「キリストの証人」であることを学びました。それは、頭では分かっているのですが、私たちには、人々にキリストをあかししようとするとき、なお不安があり、ためらいがあり、恐れがあります。そのような私たちに聖霊によって、あなたの力を着せてください。それによって、初代の弟子たちのように大胆にあなたをあかしすることができるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
11/29/2020