力を授けられるまでは

ルカ24:44-53

オーディオファイルを再生できません
24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
24:50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。
24:51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕
24:52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、
24:53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 来週、6月1日は「宣教30周年記念礼拝」です。日本語を話す人々とその家族、友人に福音を届けたい、そんな願いで始められた教会が、これからもその使命を果たしていくために、必要なものは何でしょうか。

 福音は人から人へと伝えられますから、多くの人が教会に集まって欲しいと思います。教会のさまざまな奉仕を担ってくれる人が増えることも大切なことです。また、こんな礼拝堂があったら、ホールがあったら、教室があったらという夢もあります。人材も、経済も、建物も福音宣教のために必要です。しかし、それ以前に無くてならないものがあります。それを今朝の箇所から学びましょう。

 一、福音の理解

 福音の宣教になくてならない第一のもの、それは「福音」そのものです。教会に大勢の人が集まり、さまざまなことができるお金が与えられ、立派な建物があっても、もし、そこに福音がなければ、教会は教会でなくなってしまいます。人のたましいが救われ、神の恵みの中に生かされ、やがて天の御国に入るという、人間にとって最も大切なものを持っているのが教会です。人々にこの福音を差し出しているのがキリストの教会です。福音は教会以外のどこでも聞くことのできない、人にとっての最大、最高の宝です。皆さんは、福音を知らず、神なしに生きていた時、ほんとうの平安や希望、確かな生きる目的を持っていたでしょうか。いいえ、それらのものを得たのは、福音を聞いて信じたからでした。神からの福音だけがそれを私たちに与えるのです。

 残念なことですが、日本でも、多くの教会で福音が語られなくなり、社会や政治のことだけが語られるような時代がありました。福音が語られなくなったため人々が教会を去り、立派な礼拝堂があるのに、そこにはほんのわずかな人しか集まっていないということがありました。最近では社会や政治のことよりも性差別や環境のことが教会のメインテーマになりつつあります。教会は、社会や政治、差別や環境のことに無関心であってはいけません。しかし、そうしたことが「福音」にとって代わるものになってはいけません。社会や政治、環境の問題を引き起こしている、もっと根本的な問題と、その解決である福音を忘れては、教会は社会に対する大切なメッセージを届けられなくなってしまいます。

 アメリカにある日本語の教会や日系の教会の中には、キリストとの結びつきよりも、日本人同士で気楽に付き合ったり、日本語でおしゃべりしたり、日本のカルチャーを楽しんだりといった、人と人とのつながりのほうが大切になってしまっているところもあり、そのために福音が忘れられていることもあります。教会に、人と人の結びつき(community)はあっても、人と神との結びつき(communion)が無ければ、教会は、キリストの教会としての命と力を失くしてしまうのです。 どの教会にも民族や文化にかかわるものがあり、私たちにも同じものがあります。しかし、福音は、すべての民族、文化、国語を超えたもの、全人類に与えられたものです。私たち、キリスト者は、福音によって、民族、文化、国語の違いを超えて、共に神を礼拝することができ、それによって互いの対立が癒され、平和をつくりだすことができるのです。福音が忘れられるとき、教会の中にも争いが起こり、教会が世界の平和のために祈り、働くことができなくなってしまいます。

 宣教に必要なもの、それは福音です。福音とは何かを、はっきりと理解していることです。弟子たちは、十字架と復活の前にも主イエスから福音を聞いていました。しかし、十分に理解していませんでした。それで、主イエスは、復活ののち、弟子たちに、聖書を説き明かして、もう一度福音を教えられたのです。46-47節にこう書かれています。「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」ここにあるように、福音とは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、私たちの救いのために復活されたことを知らせ、私たちに悔い改めて信じ、罪の赦し受け、永遠の命に生きるように教えるものです。とてもシンプルな教えですが、この福音が、人間の根底にある問題を解決し、人に命を与え、確かな生き方を与えてくれるのです。人を罪と闇と滅びから救い、信じる者に豊かな人生を歩ませるもの、それが福音です。

 主イエスは人となり、しもべとなって人々に仕えるために、天の栄光を置いて世においでになりました。復活ののちは、王として人々を治めるため、父なる神の右に昇っていかれるのですが、天では、一日も早く神の御子が帰ってこられるのを待ちわびていたことでしょう。復活してからすぐに天にお帰りになっても良かったのに、主イエスはその日を伸ばしに伸ばして、40日まで伸ばされました。それは、やがて始まる宣教の時のために、弟子たちにしっかりと福音を教えておくためでした。

 「宣教」はギリシャ語で「ケリュグマ」と「ディダケー」から成り立ちます。「宣教」の「宣」は「ケリュグマ」、つまり、広く人々に知らせることであり、「教」は「ディダケー」で、ひとりひとりを教えることです。「ケリュグマ」にくらべ「ディダケー」は軽んじられがちですが、教会にはこの両方がしっかりと保たれていなければなりません。私たちには、ひとりでも多くの人に福音を知ってもらいたいという宣教の情熱が必要ですが、同時に、福音とは何かをしっかりと理解し、確信するための教育も必要です。それを受けたいという求めが必要です。どんなに情熱があっても、知識がなければ、ものごとを正しく伝えることができません。自分がよく理解し、確信していないことを、どうして人に正しく伝えることができるでしょう。主イエスが、天に帰る最後の最後まで、弟子たちを教え続けられたように、教会も世の終りまで、主イエスが教えてくださった「すべてのこと」を教え続けます。私たちはそれを学び続けるのです。福音の宣教に必要な第一のもの、それは福音そのものです。福音を正しく知り、学び、理解し、確信することです。私たちにはそれが出来ているでしょうか。それが、私たちの生活の中で第一のものとなっているでしょうか。

 二、聖霊の力

 福音の宣教に必要なものの第二は、「聖霊」です。弟子たちは主イエスから福音の何であるかを学び、主イエスは、この福音を全世界に宣べ伝え、それを教え続けるよう命じて天に帰られました。では、復活から四十日目のキリスト昇天の日から宣教が始まったのでしょうか。いいえ、弟子たちは主イエスを天に見送ったあとさらに十日、エルサレムに留まり、聖霊が与えられるのを待ちました。「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(49節)との主イエスの命令を守ったのです。主イエスが言われた「父の約束」とは聖霊のことです。弟子たちは主イエスの教育を受けたのですから、もう宣教に出て行って良かったはずです。しかし、福音の宣教には教育や知識の他に、もうひとつのもの、聖霊の力が必要だったのです。

 宣教は決して簡単なことではなく、そこにはさまざまな困難がつきまといます。それは人間の力だけで出来ることではありません。主イエスは弟子たちに「エルサレム」から宣教をはじめるよう指示されました。エルサレムは、イエス・キリストに反対し続けたユダヤの指導者の本拠地です。主イエスはそこで十字架につけられたのです。そんなところで福音を語ろうものなら、弟子たちはたちまち命の危険にさらされることでしょう。それに、イエスの命令どおりエルサレムに集まったのはわずか120名にすぎません。その多くは、ユダヤの人々からは軽蔑されていたガリラヤ地方の出身者です。そんな人たちが人間の力だけで何かをしたところで、福音はかき消され、教会の芽は摘まれてしまうに違いなかったのです。ですから、主イエスは弟子たちに、「上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と命じたのです。

 「力を授かる」という言葉には、文字通りには「着せられる」という意味があります。聖書では「主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます」(詩篇93:1)という言葉のように、神ご自身が力を身にまとっておられると言っています。その神が、ご自分がまとっておられるものを人間に着せてくださるというのです。実際、あわれみ深い神は、アダムとエバが罪を犯したときも、彼らを守るため皮の着物を着せてくださいました。放蕩息子の父親がボロを身にまとった息子に晴れ着を着せたように、私たちが悔い改めて神のもとに帰るとき、神は私たちに義の衣、救いの衣を着せてくださるのです。聖書は、キリストを信じた者は、新しい人を着た(エペソ4:24、コロサイ3:10)、キリストを着た(ガラテヤ3:27)と言っています。神は信じる者に、義の衣、救いの衣ばかりでなく、力をも着せてくださるのです。警察官の制服やバッジが、犯罪を取り締まる権威を与えるのと同じように、主イエスは聖霊によって人間のどんな力にもまさる神の力が着せられると約束してくださいました。

 聖霊が与えられるとき、弟子たちは着物を着るように力を着るようになります。弟子たちは、本来は小さく弱い人々でした。ユダヤの指導者から見れば無力な存在でした。しかし、聖霊を受け、神の力を着るとき、どんな力も弟子たちに対抗することができなくなるのです。古代には、今日のように着物を簡単に手に入れることができませんでしたから、人々は同じ着物を何年も着ました。着物を見れば、それを着ているのが誰か分かるほどでした。「身に着く」という言葉がありますが、着物はその人の一部になっていました。そのように、神が私たちに着せてくださるものは、私たちの性質、人格の一部となっていくのです。弟子たちは聖霊を受けたとき、大きな力を身に着け、彼ら自身もそれによって力づけられました。そのことはルカの福音書の続編である使徒言行録にくわしく書かれています。

 今日の私たちも、初代教会の弟子たちと同じように、多くの困難に取り囲まれています。人々は信仰に無関心ですし、神なしでも結構やっていけると考えています。宗教にたいする警戒心が強く、教会やクリスチャンに近づこうとしない人たちも多くあります。生活があまりにも忙しいとか、物質主義に染まっているとか、福音の妨げと思えるものは数え上げればいくらでもあります。そうしたことを分析し、人々が教会やクリスチャンに近づきやすいようにする努力は必要でしょう。しかし、人間の知恵と力で工夫したからといって、それで福音が広まり、人々がキリストを信じるようになるわけではありません。人々が福音に耳を傾け、それを信じ、受け入れるためには、上からの力、聖霊の力が必要なのです。

 主イエスは弟子たちに「力を授けられるまでは」宣教を待っているように言われました。すぐにでも宣教を始めてもよさそうなのに、弟子たちはなお10日間待ちました。しかも、ただぼんやりと待つというのでなく、聖霊を受けるために、祈って待ちました。弟子たちは人に語る前に神と語り合いました。主イエスは「行け」と命じられましたが、聖霊を受けることなしに出て行くことを望まれませんでした。「行く」前の身支度を弟子たちに求められたのです。私たちには宣教のための身支度が出来ているでしょうか。福音を知り、学び、理解しているでしょうか。目の前の困難をものともせず福音を証しする聖霊の力を求めているでしょうか。聖霊は私たちの目を開いて、真理を悟らせてくださいます。そして、その真理を他の人々と分かち合う知恵と力を与えてくださいます。聖霊の力を受けないまま飛び出すことがないようにしましょう。聖霊の力無しには、30周年の後も、人々に福音を届けていくことができません。一年は52週で成り立ち、一週は7日、一日は24時間で成り立ちます。この週の、この礼拝で聖霊の力を着せていただきましょう。そして、日々、聖霊に満たされることを求めていきましょう。絶えず聖霊の導きを求めましょう。

 聖霊と聖霊の力は、現代の私たちにも約束されています。聖書にあるように、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けるとき、聖霊が賜物として与えられます(使徒2:38)。ペンテコステの日、最初に聖霊を受けた120名に続いて、三千人がバプテスマを受け、聖霊を受けました。そして、三千人はすぐに五千人になり、そのようにして世界中に、バプテスマを受け、聖霊を受ける人々が増えていきました。弟子たちが祈りによって聖霊の力を得たように、私たちも信仰と祈りによって力を受けます。そのようにして、私たちも、福音を信じ、それに生きる幸いな人々の中に加えられ、福音を証ししていく証人のひとりとなりたいと願います。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは栄光と力をまとっておられます。あなたは、大きなあわれみと深い恵みによって、イエス・キリストを信じる者に、義と救いの衣ばかりでなく、栄光と力をも着せてくださいます。聖霊をいただくことなしに、私たちはあなたに従うことも、キリストの福音に生き、それを伝えることもできません。どうぞ、私たちを自分の知恵や力に頼る思いから、聖霊の力に信頼する信仰へと導いてください。真の力を得て、日常の中で福音の素晴らしさを証しすることができるよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/25/2014