ルカ24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
ルカ24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
ルカ24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
ルカ24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
ルカ24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
ルカ24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
一、福音の伝達
「伝言ゲーム」というのがあります。一組5~6人のグループを作り、お互いの声が聞こえないように、ひとりひとり離れて並ばせます。ゲームのリーダが各グループの先頭の人だけを呼んで、あるメッセージを口頭で伝えます。先頭の人はそれを良く覚えていて、次の人の耳元でささやくのです。そうして、次から次へと伝えていき、各グループの最後の人がどんなメッセージを聞いたかを発表するのです。最初のメッセージもあまり意味のないものなのですが、それが伝わっていくうちにとんでもないメッセージに変わってしまっています。たとえば、「秀子さんが美容院に行って、石井さんに、もうちょっとカットしてくださいと言った。」というのがもともとのメッセージだとすると、「秀雄さんが病院に行って、医者に、盲腸を切ってくださいと言った。」というふうになってしまうのです。このゲームで賞品をもらうのは、メッセージが正確に伝わったグループよりも、メッセージがおもしろく変わったグループのほうです。ゲームでは、メッセージがとんでもないものに変わっても、ただ面白いだけで済みますが、これが命にかかわるようなことなら、伝言していくうえで決してミスティクはゆるされません。
イエス・キリストが教会に与えてくださったメッセージは、世界の救いにかかわる重大事であり、私たちの永遠の命にかかわる真剣なものですから、クリスチャンはこのメッセージを人々に正確に知らせるとともに、次の世代にも間違いなく伝えていく責任があります。福音は世界のすべての人に宣べ伝えられていますが、宣べ伝える相手が変わったからといって、その内容まで変わることはありません。福音はすべての人に共通のものです。よく「日本人のための福音」ということが言われます。福音を日本人にわかりやすく説くということなら良いのですが、それが日本人に受け入れられやすいように変えてしまった福音というのなら、とんでもないことです。欧米人は信仰で救われるが、日本人は道徳で救われるなどというなら、それは間違っています。世界中どこの誰にも、ただひとりの救い主、ただひとつの救いしかありません。たとえ語ることばは違っても、福音は世界中どこででも同じでなければなりません。また、時代が変わればメッセージを伝える方法は変わるでしょう。しかし、福音のメッセージの内容は変わりません。変わってはならないのです。福音が地の果てまで(to the end of the world)同じでなければならないと同時に、それは、世の終わりまで(to the end of time)同じでなければなりません。福音は永遠のメッセージです。
福音は最初の弟子たちによって全世界に広められ、今の時代まで伝えられてきました。もし、最初の弟子がイエスの教えを間違えてしまったら、世界中に間違った教えが広まり、その後の時代の人々も正しい教えを知ることができなくなります。それで、イエスは復活されたあと、すぐ天にお帰りにならないで、40日にわたって弟子たちにあらわれ、聖書を教えたのです。イエスはルカ24:44で「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」と言っておられます。ここで言われている「モーセの律法と預言者と詩篇」とは、聖書のことです。当時はまだ旧約聖書しかありませんでしたが、旧約聖書は「律法」「預言者」「詩篇」の三部から成り立っていたので、聖書は「律法・預言者・詩篇」と呼ばれていました。ルカ24:45には「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、…」とあります。福音は聖書の中にあります。ですから、福音を間違いなく広め、伝えるために、私たちは、聖書を正しく学ぶ必要があるのです。教会で第一にすることは「礼拝」ですが、その次は「聖書の学び」だと思います。初代教会では人々は「使徒たちの教え」と「祈り」に専念し(使徒2:42)、使徒たちも「祈りとみことばの奉仕」に専念しました(使徒6:4)。教団の母体となったロスアンゼルス教会の古い記録を見ますと、「火曜日、旧約研究。水曜日、福音書研究。木曜日、ロマ書講義。」などといったように、教会の集会はすべて聖書を学ぶ集会でした。現代の教会は、エアロビクスからリサイクル活動まで、いろんなことをするようになり、その分だけ、聖書を学ぶ機会が少なくなったように思います。人々のニードが多様化したので、教会もそれにこたえなければならないというのですが、聖書の学びが少なくなることによって、人々のほんとうのニード、たましいの飢え渇きを満たすことができなくなっているとしたら、それは教会にとっても、社会にとっても、とても不幸なことだと思います。
よく、「教会に閉じこもって聖書ばかり勉強していてもしょうがない。外に出て行って伝道しなければならない。」と言われます。では、初期のホーリネス教会は、よく聖書の勉強をしていましたが、勉強ばかりしていて伝道しない教会だったのでしょうか。いいえ、今の教会よりももっとさかんに、熱心に伝道していました。私の母教会は、もとアメリカ海軍の基地の近くにありました。そこのチャプレンが海軍を退職したあと、宣教師となって同じ町に戻って、伝道してくださったのです。教会でいちばん大きなグループは婦人会でした。婦人会のおもな活動は牧師から聖書を学ぶことでした。講義をノートをとって熱心に学び、それから自分の家に近所の人々や友だちを集め、牧師から学んだことをノートを頼りにそのまま人々に話して伝道したのです。そうして次々と人々が救われ、教会が成長していきました。ほんとうに聖書を学ぶ人は、じっとしておれなくなります。学んだことを他の人と分け合いたいと願い、伝道をはじめるのです。伝えるべきメッセージとそれを伝える力を聖書の学びによって受けているので、その伝道が長続きするのです。聖書の学びなしに伝道に飛び出すのは、兵士が弾丸の入っていないライフルを持って前線に行くようなものです。たちまち、サタンにやられてしまいます。それは、ガソリンを入れない車で砂漠を横断しようとするようなものです。途中で行き詰まってしまいます。弟子たちが聖霊を受けて伝道をはじめる前に、イエスから聖書を学んだように、私たちもしっかりと聖書を学びましょう。教会が提供している学びの時を生かしましょう。
二、福音の内容
では、弟子たちは、イエスから福音をどのようなものとして学んだのでしょうか。ルカ24:46-27を読んでみましょう。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」非常に明快です。イエスの十字架と復活と、それによって与えられる罪の赦しが語られています。イエス・キリストが、人間の罪を背負って十字架に死んでくださった、罪と死を滅ぼしよみがえってくださった、イエス・キリストを信じる者は、だれでも罪の赦しを受けられる。これが福音です。
「福音」という言葉は、王様や皇帝に跡継ぎになるこどもが生まれたとき、そのことを国中に言い広めることに使われた言葉です。イエスがお生まれになったとき、天使は「私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)と言いました。天使が使った「知らせる」という言葉には「福音を伝える」というギリシャ語が使われています。まさに、クリスマスは神の御子のご降誕を知らせる「福音」だったのです。しかし、神の御子は何のためにお生まれになったのでしょうか。王宮や神殿に住み、多くの人にかしずかれ、礼拝されるためでしょうか。いいえ、神の御子イエスは言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)イエスのご生涯は、罪人の身代わりとなってご自分をささげるためのものだったのです。
イエスのご生涯と教えは、十字架と復活によって得られる罪の赦しに集中していました。イエスは中風の人に向かって「子よ。あなたの罪は赦された。」(マタイ9:2)と言い、罪ある女がイエスの足を洗ったとき、彼女に向かって「あなたの罪は赦されています。」(ルカ7:48)と言われました。姦淫の現場から連れてこられた女性にも「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言って赦しを与えました。イエスは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12)と宣言しておられます。そして、イエスは、最後の晩餐で弟子たちにパンを分け与えて「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」(ルカ22:19)と言い、杯を回して「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)と言われました。イエスが十字架の上にそのからだを投げ出され、そこで血を流されたのは、じつに、私やあなたの「罪を赦す」ためだったと、はっきりと語られています。
弟子たちは、この福音をイエスから聞いたとおりに理解し、イエスが教えたとおりに、人々に伝えました。イエスが天に帰られてから十日目、ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受けました。そのときペテロは説教して、こう言いました。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:23-24)。ペテロはイエスの十字架を語り、復活を語っりました。主イエスご自身が「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、…」と教えたとおりです。ペテロはイエスの教えを忠実にトレースしています。最初の弟子たちは十字架と復活の福音をそのまま、忠実に伝えたのです。
ペテロが語ったことに心を刺され人たちは「私たちはどうしたらよいでしょうか。」とたずねました。そのとき、ペテロはこう答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)この答えも、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47)とイエスが言われたことばとそっくり同じです。山にむかって叫ぶと、自分が叫んだのと同じことばがエコーとなってかえってきます。そのようにペテロの説教はイエスのことばのエコーでした。ペテロだけでなく、パウロもまた同じことを説教しています。使徒たちの教えはひとつでした。なぜでしょうか。それは、それぞれ自分がどう思うかということ、自分の意見を教えたのではなく、「主から受けたこと」を教え、伝えたからです。使徒たちの教えはみな主のことばのエコーでした。私たちも、そのようでありたいと思います。そのためにも、もっとイエスのことばに耳を傾け、それを学ぶものでありたいと思います。
三、福音の証人
イエスは最後に「あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:48)と言われました。「証人」というのは、目撃者、体験者という意味です。それは「使者」や「伝令」以上の者です。「メッセージ・ボーイ」は、ただ言われたことを伝えればよいだけで、メッセージの内容を理解している必要はありません。しかし、イエスは、私たちに、福音を体験しているように、その体験に基づいて、それを人々に伝えるように求めておられます。私たちは神からのメッセージを正確に伝えなければなりません。しかし、正確であればそれで人に伝わるというわけではありません。そこには、情熱が必要です。矢が正確に的に届いたとしても、そこに力がなければ的にささりません。それと同じように、罪の赦しのメッセージも、罪の赦しを体験し、それに生きている人々の体験、あかしが伴っていてはじめて人に伝わるのです。ペンテコステの日になぜ、弟子たちの中でペテロが説教したのか、なぜ、パウロがあんなに広範囲にわたって伝道したのか、おわかりですね。ペテロはイエスを裏切り、パウロはイエスを迫害した人たちでした。自分の罪を深く知っていた人たちでした。それだけに、罪の赦しの福音を十分に理解し、体験していたのです。それが使徒たちを伝道に駆り立て、その力となったのです。
イエスを力強くあかしし、伝道してきた人はみな、自分が罪という牢獄につながれ、死刑を待つばかりであったということを知っていました。イエスが十字架で死なれた、復活されたのは、その死刑囚に赦免と解放を与えるためでした。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるように、罪を持っている私たちは、霊的には刑が執行される日をおびえながら待っている死刑囚のようでした。ところが、神の御子が身代わりに死刑の刑罰を受けてくださり、霊的死刑囚に、恩赦を与えてくださったのです。死刑囚にとって恩赦の知らせは最高のグッドニュースです。恩赦の知らせを聞いて、あまりのうれしさに死刑囚がショックで死んでしまうこともあったようで、「恩赦」の知らせを死刑囚に伝える時には、精神安定剤を打ってからにするということを聞いたことがあります。「罪の赦し」の福音はそれほどのグッドニュースなのです。あなたは、これを精神安定剤が必要なほど、感動を持って聞いているでしょうか。ルターは「われわれの髪の毛の一本一本には『罪の赦し』と書かれている。」と言いましたが、あなたはそのことを知っているでしょうか。
「エウアンゲリゾマイ」(福音を伝える)というギリシャ語から「エヴァンジェリズム」(伝道)という言葉が生まれました。伝道とは、イエスが与えてくださった「福音」を伝えることです。「福音」なしに伝道はありません。それはエヴァンジェリズムではなく、たんなるアクティヴィティです。また、いくらそこに福音があっても、私たち自身がこの福音を体験し、感動し、それに動かされているのでなければ福音は伝わらないのです。「福音」を知り、学び、理解し、そして体験し、そして、聖霊をいただいて、「福音の証人」となりましょう。
(祈り)
父なる神様、今朝も十字架と復活の福音、罪の赦しの福音を聞くことができ、感謝します。この福音によって救われ、罪赦された者としてふさわしくつくりかえられていく私たちとしてください。私たちがつくりかえられてゆくにしたがって、私たちを福音の証人とし、福音を人々に、次の世代に正しく伝えていくことができるよう助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/30/2008