24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
聖書に「ハレルヤ」という言葉があります。これは「ヤーウェをほめよ」という意味のヘブル語です。キリストの福音がギリシャで宣べ伝えられるようになっても、「ハレルヤ」はギリシャ語に翻訳されないで、ヘブル語のまま残りました。そしてそれは、ラテン語になり、英語にもなったのです。「ハレルヤ」は英語で言えば、"Praise the Lord!" なのですが、私たちはそのまま使っています。クリスチャンは、毎日、主をほめたたえて生活していますので、曇りの日でも「ハレルヤ」、雨が降っても「ハレルヤ」、嵐が吹いても「ハレルヤ」なのです。とくに、イースターには、復活されたイエス・キリストをほめたたえて「ハレルヤ」と賛美するのが、古代からの慣わしになっていますので、私たちもそうしたいと思います。私が「主はよみがえられた」と申しますので、みなさんは「ハレルヤ!」と声の限り叫んでください。三回繰り返します。
主はよみがえられた―ハレルヤ!
主イエス・キリストはよみがえられた―ハレルヤ!
まことに、主はよみがえられた―ハレルヤ!
さて、今朝の聖書の箇所には、復活されたイエス・キリストがふたりの弟子に現われたことが書かれています。このふたりの弟子のうちひとりは、クレオパという人でした。今朝は、このクレオパの気持ちになって、お話をしてみたいと思います。
一、失意のクレオパ
クレオパは、エルサレムから西に8マイル行ったところにあるエマオというちいさな村の人でした。多くのユダヤの人がそうであったように、クレオパも、この村で生まれ、この村で育ったことでしょう。ユダヤでは、どんな小さな村にも「会堂」(シナゴグ)があって聖書を教えていました。クレオパも、子どものころから聖書を学んでおり、モーセの五書はもちろん、イザヤ書も、エレミヤ書も、そして詩篇もよく知っていました。聖書の大切な箇所はその章を全部暗記しているほどだったと思います。エマオは、エルサレムに近いこともあって、過越の祭、初穂の祭、新年の祭、また仮庵の祭と、クレオパは、エルサレム詣でを欠かしたことがなく、神殿での儀式についてもよく知っていました。クレオパは、安息日ごとに会堂で礼拝をささげ、祭のたびに神殿に行く時、イスラエルの神こそ、世界を創造し、それを支配しておられる唯一の生ける神であるということを確信していました。
しかし、エルサレムに行くたびに、クレオパの心を曇らせるものがありました。聖なるエルサレムにローマ総督の官邸があり、ローマの兵隊が馬に乗ってエルサレム中を駆け巡っているということでした。神の都が異邦人、異教徒のローマ人の支配のもとにあるのは、クレオパにとって、どうしても我慢のならないことでした。
そんな時、クレオパは、イエスというお方を知ったのです。ナザレから来たこのイエスは、イスラエルの全土を巡って説教をしました。それは、今まで会堂で聞いてきた教師たちの説教とはまるで違っていました。イエスの説教は神のことばそのものでした。預言者マラキ以来、神は四百年間もイスラエルに神のことばを与えませんでしたが、イエスの説教を聞いて、クレオパは「今、神は、イエスによって語ってくださっている、この人こそ神の預言者だ。」と思いました。かつて預言者エリヤやエリシャが数々の奇蹟を行なったように、イエスも、病人をいやし、死人を生き返らせましたので、クレオパは、もしかしたら、このイエスが、イエスラエルをローマから解放してくれるのではという期待を持ち、イエスの弟子となりました。この過越の祭にイエスがエルサレムに来られるということを聞いた時には、「今こそ、ローマ兵がエルサレムから追い払われる時だ。」と心を躍らせ、同じ村のもうひとりの弟子といっしょにエルサレムに駆けつけ、その目で、イエスがイスラエルを解放してくれるのを見ようとしました。ところが、こともあろうに、エルサレムの祭司長や指導者たちが、イエスをローマ総督に引き渡し、十字架につけてしまったのです。クレオパは、イエスにかけていた望みをくじかれ、今、失意のうちに、自分の村、エマオに、もうひとりの弟子とともに戻る途中でした。ふたりが話すことといえば、「イエスが王となるのを見届けるはずだったのに、イエスの死を見届けるようになるとは、まことに残念だった。イエスのような預言者は二度と現れないだろう。」ということばかりでした。
二、心が燃えたクレオパ
クレオパともうひとりのふたり連れに、見知らぬ旅人が加わりました。その人は、クレオパに「何を話しているのですか。」と質問して来ましたので、クレオパは、エルサレムで起こったことを一部始終その人に説明しました。このことは、ルカ24:19-24に書かれていますので、読んでみましょう。
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
クレオパがこう言い終えると、今まで黙って聞いていたその旅人は、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と言って口を開き、それからは、聖書のモーセの律法やイザヤ書やエレミヤ書などの預言書を引用し、聖書全体から、キリストがどのようなお方か、キリストがなぜ苦しみを受けなければならないのか、そして、その苦難の後、どのように栄光をお受けになるのかを次々と説明していきました。クレオパは、聖書の話は子どものころから嫌というほど聞いてきました。どれも自分が知っている聖書の箇所ばかりでした。しかし、そうした聖書の箇所が、今は、新しい意味をもって自分の心に響いてくるのを感じていました。クレオパは、キリストはローマ帝国に隷属されているイスラエルを救い出してくださるお方だと思っていましたが、そうではなく、罪と死の奴隷となっている者たちをそこから救い出してくださるということが分かってきました。そして、キリストが、私たちの身代わりとなって苦しみ、その苦しみの後に、復活の栄光に入るということが理解できるようになりました。クレオパも、もうひとりの弟子も、心に熱いものを感じました。それは、彼らがイエスを知った時、「この人がイスラエルをローマから解放してくれるのでは…」と期待をかけた時の興奮とは違ったものでした。それは、イエスの説教を聞いた時のような、心の深いところで感じる感動でした。イエスの死を見届け、失望しきって家路に帰るふたりの心が、人間的な感情以上のもので、たましいの内側から再び燃えはじめたのです。
三、目を開かれたクレオパ
旅人の話を聞いているうちに、エマオの村にやってきました。旅人は道を急ごうとしていましたが、彼からもっと話を聞くため、クレオパは旅人を部屋に招き入れ、食事を共にしました。旅人がテーブルをはさんでふたりの正面に座り、夕食を祝福し、ふたりにパンを渡した時、クレオパはその顔を見て驚きました。それはなんと、イエスだったのです。クレオパともうひとりの弟子は顔を見合わせました。そして、もう一度テーブルの前に座っているイエスを見ようとしましたが、もう、そこにはイエスの姿は見えませんでした。いままで、クレオパといっしょに歩いて、道々、聖書を解き明かしておられたのは、イエスご自身だったのです。復活されたイエスが、クレオパに現れ、ご自分の苦難と栄光とを、聖書から解き明かしてくださっていたのです。なのに、クレオパともうひとりの弟子はそれが分からなかったのです。16節に「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」とある通りです。では、何がふたりの目を開いたのでしょうか。それは、聖書の解き明かしでした。聖書が分からないと、イエスがすぐ傍におられてもそれが分からないのです。しかし、聖書が分かると、どんな失望や悲しみの中でも、主イエスがそこにおられるのが見えて来るのです。
しかし、聖書が分かると言っても、それは、たくさんの本を読み、勉強を重ねれば良いというものではありません。もちろん、知識は多いに越したことはありませんが、知識から理解へと進まなくてはなりません。知識は客観的なものですが、理解は、知ったこと、学んだことを自分のこととして当てはめることです。そこには主観的な作業が入ってきます。たとえば、小さいこどもでも暗唱聖句ができます。いや、こどものほうが、おとなよりたくさんの聖句を覚えることができるでしょう。詩篇23篇や、コリント第一13章などを全部暗記できるかもしれません。しかし、それを自分のものと理解しているかというと話は別です。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」という詩篇は、ある程度の人生の経験をしてはじめて理解できると思います。聖書のことばには、人生の体験を経ないとわからないものが数多くあります。私は神学校を卒業した時、聖書のことは何でも知っているように思っていました。しかし、毎週、毎週、ひとりびとりの現実の生活を考えながら説教しなければならなくなった時、私は、まだまだ聖書が分かっていないと思うようになりました。そして、様々な体験をして、聖書が分かるようになってきました。多くの人が「聖書は読むたびに別の意味を持って来る。」ということを感じています。聖書の「解釈」(interpretation)は一つかもしれませんが、その「適用」(application)はいくつもあって、ひとりひとりに、また、読むたびに違ってくるからです。聖書は、単に客観的に研究、分析するだけのものではありません。それは、神から「私」へのメッセージとして読むべきものなのです。
そして、客観的な「知識」、主観的な「理解」へと進んだなら、次に、人格的な「信頼」へと進みましょう。聖書にある約束を信じて神に任せていく、聖書にある命令に聞き従う、聖書にある慰めによって心を満たす、聖書にある祈りのことばの通りに祈るというように、知識が理解に、理解が信頼に進んでこそ、「聖書が分かる」ようになるのです。そして、聖書が分かる時、私たちの目は開かれ、主イエス・キリストが分かるようになるのです。
では、私たちを、単なる知識から理解へ、理解から信頼へと導いてくれるものは何なのでしょうか。それは、キリストの解き明かしです。キリストが聖書を解き明かしてくださったので、クレオパは目が開かれたのです。ルカの福音書の続く箇所を見ると、イエスは他の弟子たちにも聖書を解き明かしておられます。ルカ24:45にあるように、主イエスは「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(45節)くださったのです。初心者でも、長年のクリスチャンでも、自分の力で聖書を分かろうとしても、正しい知識、深い理解を持つことはできません。キリストが聖書を解き明かしてくださるよう、願い求めなければなりません。今、キリストは、聖書を解き明かす役割を、お立てになった人々に委ねておられます。エペソ4:11に「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあるように、特に、牧師は、聖書を教える「教師」であって、キリストは牧師の説教を通して語ってくださるのです。礼拝での説教は、たんなる信仰講話ではありません。それは聖書の解き明かしであり、キリストの解き明かしにつながるものです。教会の礼拝や聖書の学びをないがしろにしてしまうと、その人の聖書の理解はひとりよがりのものになってしまうのです。
キリストに聖書を解き明かしていただくためには、説教者も、聴衆も、聖霊の助けをいただかなければなりません。キリストは、ご自分の代理者として、聖霊を遣わし、聖霊が、キリストに代わって、私たちに聖書を解き明かしてくださるからです。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)と聖書に約束されています。聖霊は「知恵と啓示の御霊」(エペソ1:17)とも呼ばれています。キリストは聖霊によって、私たちに聖書を解き明かしてくださるのです。キャンベル・モルガンという聖書学者は、書斎の机の向こう側に誰も座らない椅子を置き、聖書の注解を書いていて、難しい箇所に来たときには、いつも、自分の前にある椅子にキリストがおられるかのようにして祈り、キリストに聖書の意味を尋ね求めたと言われています。私たちも「分かってやろう」という高慢な態度でなく、「分からせてください」という謙虚な心を持って聖書に向かいましょう。その時、私たちも、クレオパと同じように「心が燃える」体験、「目が開かれる」経験をすることができるのです。みなさんの多くが聖書のことばに教えられて、真剣に悔い改めたり、深く慰められたり、大きな勇気を受けたりして心が燃えた体験を持っていることでしょう。あなたの心がみことばによって燃えたのはいつのことでしょうか。それが遠い昔のことであったとしたら、どこかに問題があります。主は、私たちが毎日でも「心が燃える」体験をするように願っておられます。今から二千年前の最初のイースターの日にクレオパと共に歩んでくださった復活の主イエス・キリストは、このイースターにも、あなたと共におられます。この主イエスに聞き、この主イエスに学び、「心が燃える」体験をさせていただきましょう。
(祈り)
父なる神さま、主イエスの復活をこころから感謝いたします。主イエスが、今も、聖霊により、説教者を通して、私たちに聖書を解き明かしてくださっていることを感謝いたします。主イエスが私たちをご覧になって、「ああ、愚かな人たち。心の鈍い人たち。」と仰ることのないよう、私たちの目を開き、みことばを悟らせてください。私たちに、主にあって、魂の奥深いところで「心が燃え」「目が開かれる」体験を与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
4/16/2006