24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
全盲の詩人、ファニー・クロスビーは多くの賛美を書きましたが、その一つに「われに聞かしめよ主の物語」(Tell Me the Story of Jesus)というものがあります。その歌詞の3節目にこうあります。
十字架にかかりて われらの罪を
贖い給いし 主の物語
聞くたび読むたび 心溶けゆき
感激の涙に 目は曇るなり
われに聞かしめよ 主の物語
世にもたぐいなく 良き物語
この賛美にあるように、十字架の物語は涙なしには読むことのできないものです。ある、日本の伝道者が、フィリピンで行われた伝道集会で、タガログ語への通訳者をつけて、英語でイエスの十字架の話をしました。ところが、通訳が途中で止まってしまったのです。その伝道者が通訳者のほうを振り向くと、通訳者は目に涙をいっぱいためていました。通訳を忘れるほど、イエスの十字架の愛に感動していたのです。その伝道者は、私に「彼の涙こそが最高の通訳でした」と話してくれました。私は、この話を聞いたとき、「聞くたび読むたび心溶けゆき、感激の涙に目は曇るなり」という歌詞を思い出しました。
きょうの箇所はイエスの復活のことを書いていますが、十字架の物語に戻り、イエスの十字架と復活を順を追って見ていきたいと思います。
一、イエスの十字架と葬り
イエスは、真夜中にゲッセマネで捕まえられ、宗教裁判にかけられ、祭司長たちによって有罪とされました。彼らは、夜が明けるとすぐに、イエスをローマ総督に引き渡しました。総督ピラトはイエスに何の罪も認めることができませんでしたが、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶ人々の声に負けて、イエスを、他のふたりの強盗といっしょにローマ兵の手に引き渡しました(ルカ23:23-24)。
ユダヤの国には人を鞭打つときには40回までという決まりがありましたが(申命記25:3)、ローマにはそんなものはありません。ローマ兵は、力まかせに、40回どころか、50回も、100回も、鉛の鋲が埋め込まれた革の鞭で、イエスを鞭打ったことと思います。
また、兵士たちは、イエスに茨で作った冠をかぶせ、ローマ兵のマントを着せ、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」などと言って辱めました。当時、地位のある人たちは紫色のマントを身に着けていました。ローマ兵のマントは赤でしたが、それが古びてくると、赤い色があせて紫色に見えます。兵士たちがイエスに着せたのは、ボロ布として捨てられていた古びて、色あせたマントだったのでしょう(ヨハネ19:1-2)。
十字架にかけられる者は、自分の十字架を背負わされ、処刑場まで歩かせられました。イエスも重い十字架を担ぎましたが、さんざん痛めつけられていたので何度も道に倒れました。それで兵士は、群衆の中からシモンという男を連れてきて、イエスの代わりに十字架を担がせました(ルカ23:26)。
処刑場は「ゴルゴタ」と呼ばれていました。「どくろ」という不気味な名前です(ルカ23:33)。その場所が頭蓋骨のような形をしていたのでしょう。そこに着くと兵士たちはイエスの着物を剥ぎ取り、両手、両足に釘を打ち込みました。十字架にかけられると胸が圧迫されて息ができなくなります。それで腕を動かし、足を踏ん張ると、釘で貫かれたところから血が流れます。十字架につけられた人は、そうやって徐々に血を流し、死んでいくのです。それは、一気に殺すよりも、もっと残酷なものでした。
イエスはそんな苦しみの中から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈りました。また、強盗のひとりの「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と願った信仰に答えて、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束しました(ルカ23:42-43)。そして、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って息を引き取りました。兵士が脇腹から心臓を一突きしました。大量の血と水が流れ、イエスの死が確認されました(ヨハネ19:34)。
ヨセフという人がいました。彼はユダヤ最高法院の議員でしたが、イエスに心を寄せていました。ふつう、十字架で死んだ者は葬られることなく、その遺体は捨てられるのですが、ヨセフは、イエスの遺体の下げ渡しをピラトに願い、それを新しい墓に葬りました。その時、同じ議員で、以前、イエスを訪ねたことのあるニコデモも、遺体に塗る香油を持ってやってきました(ヨハネ19:39)。イエスの弟子たちは、イエスが捕まえられたとき、イエスを見捨てて逃げてしまい、誰ひとり、自分たちの師を葬ることをしなかったのです。ただ女の弟子たちだけが、イエスが葬られた墓を見届けました。こうして、イエスが十字架につけられ、墓に葬られた、あの金曜日が終わろうとしていました。
二、封印された墓
イエスは、十字架にかかられる前から、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」(マルコ9:31)と話していましたが、弟子たちの誰ひとり、この言葉、とくに「三日の後に…よみがえる」という部分を覚えていた者はありませんでした。ところが、この言葉を覚えていた人たちがいました。それは、イエスを総督ピラトの手に渡して、十字架に追いやった祭司長たちでした。彼らは、ピラトがヨセフにイエスを葬る許可を与えたことを聞いて、金曜日の日没後、もう安息日が始まっていたにもかかわらず、慌ててピラトのもとにやってきました。彼らはイエスに「あなたは安息日を冒している」と非難していたのに、自分たちは平気で安息日の戒めを破っています。彼らは総督に言いました。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」(マタイ27:63-64)
ピラトは彼らの願いを聞き入れ、イエスが葬られた墓を封印しました。当時の墓は、岩をくり抜いて横穴を掘り、入り口を大きな石で塞いでいました。その入り口の石を封印したのです。そして、誰も近づかないように、ローマの兵士たちが、その番をしました。このことは、金曜日の夜、安息日になってから行われたので、墓が封印されたことや、番兵がそこを守っていることを知る者は、ピラトや祭司長たち以外には誰もいませんでした。
夜が明け、また暮れました。忠実なローマ兵は金曜日の夜も、土曜日の夜も寝ずの番をして墓を守っていました。
三、イエスの復活
そして、日曜日、週の初めの日になりました。女の弟子たちは、夜が明けるのを待ちきれず、まだ暗いうちから香油を持って、墓に行きました。イエスの遺体に香油を塗って、自分たちの手で葬りをし、お別れをするためでした。彼女たちは、墓の石がすでに封印され、そこに番兵がいて、墓に入ることはもちろん、近づくことも許されないことを知りませんでした。
ところが、この時、世界の歴史を変える出来事が起こりました。イエスが復活し、もはや死ぬことのないからだとなって墓から出たのです。墓を塞いでいた石は転がり、墓の中にはイエスをくるんだ亜麻布だけが残されていました。そこに御使いが現れました。御使いを見た番兵たちは震え上がって、墓から逃げ出しました。そのあと、墓に着いた女の弟子たちは、入り口の石が転がっているのを見て驚きました。中に入ってみると、イエスの遺体が見当たりません。途方にくれていると、御使いが現われて、こう言いました。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(5-6節)
彼女たちは、イエスをまごころから慕っていました。高価な香油を買うことも、危険を冒して墓に行くこともいといませんでした。日曜日の朝には、散り散りになっていた十一人の弟子たちもひとところに集まっていたようですが、そのうち、誰ひとりとして、彼女たちと一緒に墓に行こうとはしなかったのです。そんな男の弟子たちにくらべ、彼女たちの信仰や行動力は、ほめられてよいものでした。けれども、彼女たちにひとつだけ足らないものがありました。それは、「イエスの言葉」です。「イエスの言葉」に基づいて行動することです。彼女たちは「イエスの言葉」を忘れていたため、「生きている方を死人の中に捜す」失敗をしてしまったのです。
それで、御使いは、彼女たちに続けて言いました。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(6-7節)8節に「彼女たちはイエスのことばを思い出した」とあるように、彼女たちは、御使いに教えられて「イエスの言葉」を思い出しました。そして、男の弟子たちに墓での出来事を知らせに行くのですが、幾人かは、よみがえったイエスに出会っています。イエスを慕っていた彼女たちは、十一人の男の弟子よりも先に、イエスの復活を撃者し、その証人となったのです。
イエスの反対者たちは、イエスを亡き者にし、墓に閉じ込めようにとしました。しかし、封印も、番兵も、イエスの復活を阻止することはできませんでした。この世のどんな力も、この世のものではない力さえも、イエスを死に閉じ込めておくことはできません。イエスの反対者たちは、墓を封印し、番兵に墓を守らせて、誰もイエスの遺体を盗むことができないようにしましたが、それは、彼らの意図に反して、イエスの死と復活が事実であったことを、より確かにすることになったのです。
イエスは、「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」と言われたご自分の言葉どおりに、よみがえりました。イエスは今、生きて、信じる者に永遠の命を与えてくださいます。ですから、信仰者は、「生きている方を死人の中に捜す」ようなこと、つまり、イエスがまるで亡くなられたままであるかのように考え、行動することをしてはならないのです。多くの人は、キリストを信じるとは、自分を高め、社会を良くするためにキリストが遺していった教えを自分たちの力で守ろうと努力することだと考えています。もし、それだけなら、私たちの信仰は他の宗教と同じものになってしまいます。キリストを信じるとは、イエスが今、生きておられ、イエスが信じる者に命と力を与えてくださる、このイエスに生かされ、イエスとともに生きることです。だから、私たちは「クリスチャン」(キリストの者)と呼ばれるのです。
マルチン・ルターの妻カタリナは、ルターがふさぎ込んでいたとき、喪服を着て彼の前に立ちました。ルターが驚いて、「どうしたんだ」と聞くと、カタリナは「あなたの主が亡くなられたようなので、私は喪服を着ているのです」と言いました。ルターは、その言葉にハッとして、もう一度、「主は生きておられる。私は、この主に生かされているのだ」という信仰に立ち返ったと伝えられています。私たちが信じるイエスは今、生きておられます。このことを信じることから希望と力が生まれます。イエスが今、生きておられることを確信することによって、平安と喜びを持つことができるのです。イエスに生かされ、イエスとともに生きる人生、これが信仰者の歩みです。復活の日、日曜日の礼拝で、この歩みに再出発しようではありませんか。
(祈り)
イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった父なる神さま。あなたは、イエスの十字架と復活によって私たちを罪から救い、新しいいのちに生きる者としてくださいました。イエスが私たちのために死んでくださったことと、イエスが今も生きていて、私たちとともにいてくださることを、イエスの言葉によって、日々、確信して、歩むことができますように。復活の主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
11/8/2020