24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
今日はイエス・キリストが復活された日、イースターです。イースターには「ハレルヤ」と叫んで主をほめたたえるのが、古くからの教会の習わしになっています。私たちも、復活されたイエス・キリストに心をこめて「ハレルヤ」と叫びましょう。私が「主はよみがえられた」と言いますので、そのあと、「ハレルヤ」と言ってください。
主はよみがえられた。ハレルヤ。
主イエス・キリストはよみがえられた。ハレルヤ。
私たちの主イエス・キリストは、じつに、よみがえられた。ハレルヤ。
一、復活の知らせ
今朝バプテスマを受けた姉妹のあかしの中にあったように、「キリストの復活」は、はじめて聖書の教えを聞く人を驚かせるものです。「死んだと思われた人が息を吹き返すというのなら話はわかるが、完全に死んでしまった人が生き返り、しかもその後も永遠に生きているというのは、とても信じられるものではない。」と彼女は思ったのです。私は、そのあかしを聞きながら、彼女が「とても信じられない。」と思った時点で、神はすでに彼女を信仰に導こうとしておられたのだと思いました。なぜかというと、「キリストは復活した。」と聞いて、「キリストがほんとうに復活されたのなら、キリストこそ本当の救い主だ。私もキリストを信じたい。」と願ったり、それを「ほんとうだろうか。」と真面目に探求したりする人は多くはないからです。多くの人は「キリストが復活した。」というイースターのメッセージを聞いても、「それがキリスト教の教えなのですね。すてきな教えですね。」ということで終わってしまうのです。「こどもがサンタクロースが北極にいると信じているように、クリスチャンがキリストの復活を信じているのも、夢があっていいんじゃないですか。」という態度からは、ほんものの信仰は生まれてきません。むしろ、「復活など信じられない。」と感じ、そこから「ほんとうにキリストは復活しなたのだろうか。」と問い求める心に信仰が宿るのです。「キリスト教もいい宗教ですね。」とそれに賛成する人よりも、疑問をもったり、反発したりする人のほうが信仰に導かれる場合が多いのです。疑問は信仰の敵ではなく、味方です。
人々が考えているように、キリストの復活は長い年月をかけて作られた物語ではありません。キリストの復活は、キリストが世を去った後、「こんな立派な人を死なせておくのはもったいない。」と考えた人々が作り出した神話ではありません。キリストの復活は事実であり、そのニュースは復活の直後にすでに伝えられています。キリストが天に帰ってから十日目に、キリストの復活は、使徒ペテロによって公式に宣言されています。使徒ペテロは、イエスが十字架にかかられたエルサレムの真ん中で、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。…神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:32,36)と説教しています。その日、三千人の人々が、心から悔い改め、キリストの復活を信じてバプテスマ(洗礼)を受け、教会が誕生しました。キリストの復活は、最初から教会の大切なメッセージでした。伝道とはキリストの十字架と復活と再臨を伝えることだったのです。
教会はその後、迫害を受け、多くの殉教者を出しましたが、ますますクリスチャンの数が増え、ついにはローマ帝国も教会を認めざるを得なくなり、やがて教会を保護するようになりました。なぜ、弟子たちは、迫害にめげす伝道することができたのでしょう。初代のクリスチャンたちは、信仰を捨てるよりは、財産を捨て、命を捨てるほうを選びとりましたが、なぜ、そんなことができたのでしょうか。それはキリストが事実、復活されたからです。彼らはキリストの復活の事実を信じ、復活されたキリストによって永遠のいのちの希望を与えられていました。だから、命さえもささげることができたのです。復活は事実です。それは、クリスチャンの間に徐々に広まって、後にキリスト教の教えのひとつとなったのではありません。復活は「教え」というよりは「ニュース」でした。しかも、それは世界を変え、全人類を変える大ニュースでした。新約聖書の最初の四つの書物は「福音書」と呼ばれます。「福音」というは「グッドニュース」という意味です。福音書は「ニュース原稿」として書かれました。新約聖書の残りの大部分は使徒たちが書いた手紙ですが、手紙はいわば「ニュース解説」のようなものです。私たちは福音書を読んで復活のニュースを知り、手紙を読んでこのニュースの意味を知るのです。
復活は確かに、簡単には信じにくいニュースです。しかし、それは、どのニュースも同じです。2001年9月11日、ワールド・トレード・センターに飛行機が突入し、二つのタワーが崩れ去っていくのを見たとき、誰もが、自分の目を疑いました。それがほんとうのことだとは思えませんでした。しかし、それは事実でした。事件が重大であればあるほど、それを信じられないと思うのは当然のことで、キリストの復活も同じです。「信じられない。」という気持ちとキリストの復活を否定する思いとは違います。「信じられない。」と思うからこそ、キリストの復活が本当にあったのか、それが現代の私たちにとってどんな意味があるのかを、真剣に探し求めることができるのです。復活の証拠はいたるところに見ることができ、その意味は、聖書にはっきり書かれています。みなさんのクェスッションマークがエクスクラメーションマークになるよう、心から祈っています。
二、知らせを伝える人
キリストの復活が「ニュース」であるなら、そのニュースを伝える人、「ニュース・キャスター」が必要ですね。聖書によれば復活のニュースを最初に伝えたのは、ルカ24:4にあるように、天使でした。天使は墓に来た女性たちに「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:5-6)と言っています。しかし、天使は女性たちに現れたあとは、誰にも現れてはいません。他の福音書によると天使は女性たちに「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」(マタイ28:7)といって、復活の知らせを弟子たちに伝える役割を女性たちに託しています。このことは何を意味しているのでしょうか。
第一に、復活の知らせが天使によって伝えられたのは、私たちが復活の知らせを神からの知らせとしてしっかり守るためでした。天使は神の使いです。神はキリストの復活というもっとも聖なる知らせを間違いなく伝えるためご自分のみ使いを遣わされのです。それが天使を通して伝えられたのは、私たちが復活の知らせをあいまいにしたり、人に受け入れられやすいものにしてはならないからです。私は、キリストの十字架と復活、そして再臨を聖書が教えるとおりに伝えるよう努めてきました。私がそうしていると、「キリストが人の罪のために十字架で死なれたとか、三日目に復活したとか、人々が躓くようなことでなく、もっとだれもが受け入れられやすいことを話してほしい。復活を信じるようになどというのは、あまりにもハードルが高すぎる。そんなことを言っていたら誰も教会に来ない。」という声を聞くことがあります。それに対して私は、「復活の知らせを伝えなかったら、人が教会に来ないどころか、教会が無くなってしまう。」と答えたいのです。キリストが人の罪のために十字架で死なれ、人を救うために復活され、救いを完成するために再び世に来られることを信じるところ、それが教会です。教会はキリストの復活というグッドニュースを世界に発信する「ニュース・ステーション」です。もし、教会がこの復活の知らせを発信しなかったら、たとえそこに「教会」という看板があっても、そこは、たんなる「キリスト教同好会」になってしまいます。クリスマスの主人公がサンタクロースになってしまったように、イースターの主人公がイースターバニーになってしまいます。教会は二千年の間、「じつに、主はよみがえらえた。」と告白し、「ハレルヤ」と賛美し続けてきました。たとえ、キリストの復活がハードルの高いものであったとしても、私たちはそれを引き下げません。そうしてしまったら人々の救いはなくなります。
それと同時に、私たちは、復活のニュースを聞いて疑問を持ったり、とまどっている人たちのことを決してわすれません。私たちもかつては復活を信じられなかったのですから、その気持ちが良くわかるはずです。人々は、私たちがどのようにして復活を信じることができるようになったかを聞きたいと願っていることでしょう。私たちクリスチャンは、自らがしっかりと聖書を学び、よく祈り、人々の疑問に答え、神を求める心を励まし助けることができるようにと願い励んでいます。
第二に、復活の知らせが女性たちに託されたのは、復活の知らせが信仰によって受け取られるためでした。もし、天使が弟子たちにも現れたなら、弟子たちは復活の知らせを信じるというチャレンジを受けることはありませんでした。だれも天使を見てそれを信じないわけにはいかないからです。しかし、女性たちのことばであれば、それを信じるか信じないかのチャレンジを受けます。この後、イエスは弟子たちに現れて、ご自分の生きておられることを示されましたが、イエスは、弟子たちがイエスを見てから信じるのでなく、まず、復活の知らせを伝える「ことば」によって信じることを願っておられました。それで、イエスは、天使でなく、女性たちが弟子たちに復活の知らせを伝えるようにされたのです。イエスは、現代の私たちにも同じように願っておられます。たとえイエス・キリストを肉眼で見ることはなくても、神のことばが語られるとき、それを聞くことによって信じるよう求めておられます。天使は女性たちに「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」(ルカ24:6-7)と言い、女性たちも「イエスのみことばを思い出した」(ルカ24:8)とあるように、信仰は、最終的には「みことば」から来るのです。教会は、みことばによってキリストの復活を信じるところです。復活から二千年後の私たちも、永遠に変わらない「みことば」によってキリストの復活を信じるのです。
第三に、復活の知らせが天使から女性たちへとバトンタッチされたのは、キリストの復活の知らせが人類の救いのためだったからです。キリストの復活の知らせは、地上だけでなく天でも大ニュースだったことでしょう。しかし、キリストの復活は、なによりも、人間の救いのためであり、天使たちのためではありませんでした。天使たちはキリストの十字架によって罪を赦され、復活のいのちによって新しくされる必要はありません。天使たちはきよい存在であり、キリストの救いが必要ではありません。それが必要なのは人間であり、それを体験できるのも人間だけです。イエスは、私たちに、復活のニュースを知らせる「ニュース・キャスター」になるだけでなく、その体験を人々に伝える「ウィットネス」(証人)になるよう願っておられます。神は、そうした証人によってキリストの復活を伝えようとしておられるのです。
大切なニュースでは、レポーターが、その事件の影響を被った人たちにインタービューをします。災害があれば、現場に行って、避難している人たちの生の声、「テスティモニー」(証言)を収録します。その災害から救われた人がいれば、その人はスタジオに招かれて、その様子を話します。クリスチャンは、たんにキリストの復活を信じているだけでなく、それを体験している人です。そして、その体験をあかしする「ウィットネス」(証人)です。復活のイエス・キリストに信仰によって出会ったというテスティモニー(証言)を持っている人です。そうしたあかしを聞き、あかしびとに出会うとき、人は変えられます。「私は絶対クリスチャンにならない。」とがんばっていた人が、マザーテレサに出会った瞬間、「私はイエス・キリストを信じます。」と告白したという話を聞いたことがあります。私たちはマザーテレサのように立派でもなければ、人を感化する力もありませんが、精一杯の真実をもって生きるとき、イエス・キリストは生きておられるということを誰かに示す証人になることができます。このイースターに、「復活の知らせ」にとまどっている人々がそれを信じることができるように、また、それを信じた私たちがキリストの復活を伝え、あかしする者となれるよう祈りましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、御子の復活という大きなメッセージを、天使ではなく、私たちに託してくださいました。私たちを、キリストの復活のニュースを人々に知らせるニュース・キャスターとし、また、そのウィットネスとしてください。キリストの復活の知らせを聞いてそれを信じることができずに苦闘している人々のところに遣わし、そうした人々とともにみことばを学び、祈りあって、ともにイエス・キリストに近づくことができるよう助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/23/2008