23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
23:52 この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
23:53 それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
23:54 この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。
23:55 ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。
23:56 そして、戻って来て、香料と香油を用意した。
聖書に「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(コリント第一1:18)とあるように、イエス・キリストの十字架と、それを伝える福音、つまり「十字架のことば」は、私たちに救いをもたらす神の力です。二千年の間、世界中の人々が十字架の力を体験してきました。どんなに多くの人の人生が十字架によって変えられてきたことでしょうか。それによって、社会が変えられ、歴史も変えられてきたことでしょうか。十字架の力を体験したひとりびとりの信仰者がそれを語ることができますが、それは聖書や歴史が証言していることでもあります。
今朝は、聖書から、十字架によって変えられていった人々について想いめぐらしてみましょう。最初にルカ23:39-43にある「十字架につけれられた強盗」を取り上げ、次に44-49節にある「百人隊長」、そして50-56節にある「議員ヨセフ」について見てみましょう。
一、十字架につけられた強盗
イエスといっしょに、右と左に強盗たちも十字架につけられました。そのうちのひとりは「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」などと言ってイエスをののしっていました。ところが、もうひとりの強盗は彼に向かって「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか」と言ってたしなめました。そして、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言って自分の罪を悔い改めました。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と、イエスに願い出ました。すると、イエスはこの強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束されました。この強盗は、さんざん悪いことをしてきたのだから、自分のたましいが苦しみの場所に行ってもしかたがないと観念していましたが、なんとイエスによって喜びの場所を約束されたのです。キリストの十字架は、強盗の心を変えたばかりか、彼が永遠で過ごす場所をさえ変えたのです。
この強盗は、強盗の仲間といっしょにいたときは、おそらく自分が罪を犯していることをあまり意識しなかったと思います。たくさんの金品を盗めば盗むほど、強盗仲間では手柄になり、仲間の間で「地位」が上がるからです。日本の暴力団は、会社組織を取り入れているところが多く、「組長」(親分)が「会長」、「組長」直属の子分が「理事」、「若頭」が「専務」などと呼ばれており、暴力団員もその組織の中で、「業績」をあげ「昇進」するのに必死です。それで、組織の中にいる間は、自分が悪いことをしている、罪を犯していると意識がなくなってしまうのです。罪の意識がなければ、悪いことをやめようとすることもなく、それをし続けてしまいます。たとえ、仲間と一緒だと、罪の意識が起こってきても、それがかき消されてしまいます。聖書に「友だちが悪ければ、良い習慣がそなわれる」(コリント第一15:33)とありますが、まわりにいる人たちの影響を受け、それによってその人に与えられた良いものまで失ってしまうことがあるものです。この強盗も同じようだったと思います。
しかし、この強盗は、ローマ兵に捕まり、仲間から引き離されて、ひとりになって、自分を省みることができるようになりました。十字架の死を覚悟したときはじめて、自分のたましいの行く末を真剣に考えました。ローマ兵につかまり、十字架につけられるというのは、強盗としては失格だったかもしれませんが、永遠の観点からみれば、それは幸いなことでした。それによって罪から離れ、救いを得ることができたからです。
人々はイエスの十字架を下から見上げましたが、この強盗は、イエスと同じ高さにつるされていましたから、自分のすぐ横にイエスのお姿を見ることができ、文字通り、イエスと顔と顔とを合わせることができました。彼はまた、イエスが自分を苦しめている者たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られたのを聞きました。彼の心に変化が起こったのはその時だろうと思います。ローマ兵が罪のないイエスを苦しめるのを見て、この強盗も、自分が大勢の罪のない人たちを苦しめ、残酷なことをしてきたことに気付きました。またイエスが「父よ。彼らをお赦しください」と祈られた「彼ら」の中に自分も含まれていることに気付きました。この強盗は、イエスに出会い、イエスのおことばに触れることによって、悔い改めに導かれました。
私は、こどものころ、「悪ガキ」まではいかなかったかもしれませんが、決して「お利口」ではありませんでした。まわりの大人たちの嫌な面も見てきました。ですから、聖書を読んで自分のうちに罪があることはすぐに認めることができました。けれども、悔い改めに導かれたのは、やはり、罪のない、聖なるイエスに出会ってからでした。イエスの正しさに触れて、自分がどんなに間違っていたか、イエスの聖さに触れて、自分がどんなに汚れていたかが分かりました。そして、イエスの十字架のもとに来て、イエスが私の罪のために苦しんでくださったことを知ったとき、「神さま、私は罪びとです。私の罪を赦してください」との祈りに導かれました。皆さんも同じだと思います。聖なるイエスの光に照らされるまでは、私たちはなかなか自分のうちにある罪の闇に気がつかないものです。しかし、イエスに出会うとき、自分の罪が見えてきます。それから目をそらさないでいるとき、その彼方に十字架が見えてきます。そして、主イエスの前に悔い改め、「私を覚えていてください」との祈りに導かれるのです。十字架はじつに人を悔い改めに導く力です。
二、百人隊長
次に、イエスの処刑を担当した百人隊長に目を留めましょう。ローマの兵士は、その任務執行については、とても良く訓練されていました。百人隊長は、総督ピラトとともにユダヤに派遣されるにあたって、ユダヤの宗教事情について十分な予備知識を蓄えてきたことでしょう。ユダヤの人々がどれほど、唯一の神を信じ、偶像を憎んでいるか、どれほど、神殿を尊び、戒律を守ろうとしているかについて、彼はよく心得ていたことでしょう。ユダヤの宗派には神殿を司るサドカイ派、民衆の信頼の厚いパリサイ派、俗世間を避けて荒れ野で祈りに明け暮れしているエッセネ派といったものがあることも知っていたはずです。しかし、イエスというお方は、彼の予備知識の中に収まるお方ではありませんでした。なぜ、イエスはユダヤの最高法院で有罪とされ、総督のもとに連れてこられたのか。なぜイエスは裁判のとき、何ひとつ反論しなかったのか。十字架に渡されるときも、なぜ、ただ黙ってされるがままになっていたのか。人々の嘲りの声の中、肉体の限界ぎりぎりの状態で、なぜ、この人は人々のために赦しを祈り、十字架にかけられた強盗に、慰めのことばをかけることができたのか。考えれば考えるほど、百人隊長にはわからないことばかりだったと思います。
百人隊長は、「そういう疑問には首をつっこまないようにしよう」と思い直し、死刑執行の任務に忠実であろうとしたことでしょう。しかし、この十字架刑はなにもかもが、今までと違っていました。真昼間だというのに、太陽が光を失い、カルバリの丘は突然薄暗くなりました。それが日食であるなら、しばらくすれば明るさが戻ってきます。しかし、それは午後三時まで、およそ三時間続いたのです。その間に地震もありました。今まで、大声をあげて騒いでいた群衆は、この薄暗さを気味悪く思い、だんだんと静かになっていきました。人々はイエスが父なる神に祈ることばをはっきりと聞くことができるまでに、カルバリの丘は静けさを取りもどしました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」そう言ってイエスは息を引き取られました。すると、太陽は再び光を取り戻しました。ローマ兵がイエスの脇腹から心臓をひとつきしました。すると、血と水が流れ出しました。検死役の兵士たちも、群衆もイエスの死を見届けました。人々は、この日、朝からいきりたって、イエスを追い立て、カルバリの丘まで来たのですが、帰るときは、それとはまるで逆に、みんな「胸をたたいて悲しみながら」家に帰って行きました。
こうした出来事を見た百人隊長は、思わず「ほんとうに、この人は正しい方であった」と叫びました。「正しい方」というのは、ほんらい、神にあてはめられることばです。聖書には「主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」(申命記32:4)「イスラエルの神、主。あなたは正しい方です」(エズラ9:15)「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」(ヘブル6:10)「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ第一1:9)とあります。そして、「正しい方」というのはイエス・キリストについても使われています。ゼカリヤ9:9に「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」という預言があります。ペテロは、イエスを十字架に追いやった人々を責めて、「そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し」(使徒3:14)たと言っています。ステパノは「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました」(使徒7:52)と言っています。ですから、イエスを「正しい方」と呼んだ百人隊長は、イエスを神の御子、救い主であると、告白したことになります。マタイ27:54やマルコ15:40では、他の兵士たちも「この方はまことに神の子であった」と言ったとしるされています。
イエスはまず、ご自分の国に救い主として来られたのに、ご自分の民から捨てられました。しかし、イエスは、ユダヤ人以外の人々によって、神の御子として受け入れ、崇められました。ユダヤはローマの属国でしたから、イエスは、最初はローマ兵から「ユダヤの王さま、ばんざい」などといってからかわれていました。しかし、ローマ総督の親衛隊の百人隊長が、ローマの属国であるユダヤの王を「正しい方」「神の御子」として崇めるようになりました。これが、十字架の力です。十字架は、それを仰ぐ者に、イエス・キリストが神の御子であることを示します。そして、人を神の御子を信じる信仰への導くのです。
三、議員ヨセフとニコデモ
最後にアリマタヤのヨセフとニコデモについて見ておきましょう。
本来、十字架につけれた犯罪人は葬られることなく、ヒノムの谷に投げ捨てられ、野獣の餌食になるのですが、イエスのおからだはアリマタヤのヨセフが自分のために作った新しい墓に葬られました。ヨハネの福音書には、彼とともにニコデモもやってきて、イエスを葬ったとあります。ヨセフとニコデモは、ユダヤの最高議会のメンバーでしたが、ひそかにイエスに心を寄せていた人たちで、イエスを亡き者にしようとした最高議会の悪巧みに加わらなかった人たちでした。彼らはイエスを弁護しようとしましたが、なにせ、多勢に無勢で、最高議会はついに神の子を死に追いやったのです。しかし、ふたりは危険を承知でイエスの遺体の下げ渡しを総督ピラトに願い出、丁寧に葬ることを許されました。
ヨセフは「立派な正しい人」でした。ニコデモはわざわざイエスに面会を求めて、イエスから学ぼうとした謙虚な人でした。しかし、ふたりのこころには、どこかに今、一歩踏み出すことのできないものがありました。地位や立場のある人ほど、イエスへの信仰を持っていても、それをおおやけにすることが難しいことがあります。それは何も、地位や立場にしがみついているからというだけではありません。ユダヤの最高議会の議員であるために、「公人」として行動しなければならないことも多くあり、それが足かせになっていたのでしょう。しかし、イエスの十字架は、そんなふたりの心を変えましまた。イエスの十字架はひそかに隠されていた信仰を、人々の前でも恐れず告白する信仰へと変えました。優柔不断な生き方に決断を与えました。今も、「十字架のことば」が語られ、「十字架」が示されるとき、どんなに多くの人々が信仰の決断に導かれ、バプテスマに導かれ、悔い改めに導かれ、教会に戻り、謙虚で従順な者へと変えられていっています。十字架は私たちを変える力です。強盗を悔い改めに導き、百人隊長を信仰に導き、ユダヤの議員に信仰の決断を与えるのです。
小説『ベン・ハー』の主人公、ベン・ハーは、自分の家族を不幸に落とし込んだ敵への復讐に燃えて生きてきた人でした。けれどもイエスの十字架によって、彼は激しい憎しみから解放されていきました。イエスの血潮が、まるで彼の心を清めていくかのように、十字架から流れ出るシーンは、みなさんも映画でご覧になったでしょう。ベン・ハーの物語は、その作者ルイス・ウォーレス、その人の物語です。彼は、聖書は神のことばでも、歴史的な書物でもなく、単なる作り語にすぎないと信じていました。それで、彼は聖書がでたらめだということを証明しようとして、イスラエルを旅行しました。ところが調べれば調べるほど、聖書が正しいことが次々と証明されていくのです。ついに彼は、神の真理を受け入れ、回心を経験しました。聖書を否定するために奔走した彼が、聖書と「十字架のことば」が、真理であることを表そうとしてあの物語を書いたのです。ルイス・ウォーレスもまた十字架に出会って、その人生が変わったひとりです。いいえ、イエスの十字架は、地上の人生だけでなく、私たちの永遠の住まいまでも変えるものです。主の十字架を、しっかりと仰ぎ、この十字架から、真理を、いのちを、そして、神の国を受け取ろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、主のご受難の週に、十字架を巡る人々を通して、あなたの十字架を想い見ることを許していただき、ありがとうございました。十字架はあなたの力であり、いのちです。この十字架によって変えられることがなくて、何によって変わることができるでしょうか。どうぞ、私たちを、主の十字架のもとに膝まづかせてください。十字架のもとで、虚栄を脱ぎ捨て、心からへりくだることができますように。自分でなんとかしようと、手放せないでいる重荷を十字架のもとにおろし、十字架から力を受けるまで、それを仰ぎ見つめることができますように。主イエスのお名前で祈ります。
4/1/2012