23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
ある床屋さんが伝道セミナーに出席しました。イエス・キリストのことを話すには、「もし、きょう亡くなったら、あなたには天国に行けるという確信がありますか」という質問で始めると良いということを学んできました。彼は早速、その方法を試してみることにしました。お客さんのヒゲを剃るため、ピカピカに研いだカミソリを喉元に当てて、この床屋さんは言いました。「お客さん、もし、きょう亡くなったら、天国に行けるという確信がありますか?」その客は慌てて店を飛び出したそうです。
この話は、イエス・キリストのことを話すとき、状況を考えず、言葉を選ばないですると、とんでもないことになるという教訓なのですが、「もし、きょう亡くなったら、あなたには天国に行けるという確信がありますか」という質問そのものは、とても大切だと思います。実際、命の危険にさらされていた人が、この質問を真剣に受け止め、イエス・キリストを信じ、喜びと平安のうちに天国に召されていくのを数多く見てきました。私が福音を語り、家内が賛美をすると、今まで、苦しそうな表情をしていた人が、みるみる喜びと平安に満ちた表情に変わっていくのです。それは、天国の希望のない暗い心に、神の光が差し込み、天国への道を見出した喜びと平安でした。
きょうは、イエスが十字架の上で語られた第二の言葉、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」に耳を傾けるのですが、ここには、天国への道が示されています。それは皆さんがもうすでにご存じのことでしょうが、もう一度それを確かめておきましょう。
一、罪を認める
天国への第一のステップは、「自分の罪を認める」ことです。ある人が「滅びへの道は『わたしは正しい』『わたしは大丈夫』という言葉で舗装されている」と言いました。もしそうなら、救いへの道には『わたしは罪人です』 というサインが掲げられていることでしょう。十字架につけられた犯罪人のひとりは、素直に自分の罪を認めました。
「罪を認める」のは、人間にとって一番必要なことでありながら、一番難しいことです。創世記を読むと、それが良く分かります。アダムもエバもエデンの園にあるひとつの木の実を食べないようにとの命令を受けていました。ところが、エバはサタンの誘惑に乗り、その命令に背いてしまいました。アダムは、エバのしたことが神に逆らうことであることを知りながら、エバと同じように罪を犯しました。神が、「食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」とアダムに問われたとき、アダムは「あの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と言って、エバに責任をなすりつけました。そればかりでなく、エバのことを「わたしと一緒にしてくださったあの女」と呼んで、「神がろくでもない女をわたしに与えたのでこうなったのです」と、神をさえ非難しています。創世記は何千年も前の書物ですが、いかにも、現代的です。夫婦が、夫のせいで自分はこうなった、妻のせいでこうなったと互いに批難しあっている姿は、アダム、エバの時代から今まで少しも変わっていません。同じことは親と子、上司と部下、このグループとあのグループ、また国と国との間でにも見られます。誰かに責任を転嫁できないときは、生まれ育った環境や社会のせいにします。たしかに恵まれない環境から傷を受け、社会の被害を受けることがあります。そんな害を一つも受けたことのない人は誰もいないでしょう。残念ながら人の世ではそれは避けることはできません。しかし、だからと言って、それで自分自身の責任が無くなるわけではありません。
今朝の箇所の犯罪人も、自分がこうなったのは世の中が悪いからだと言うことができました。マタイ27:38ではこの人は「強盗」だったと書かれています。しかし、彼はたんなる盗賊ではなく、ローマ帝国への反逆者のひとりだったと思われます。この時代のユダヤの国はローマ帝国の属国にされ、圧迫されていました。それで、ローマからの独立を武力で勝ち取ろうとするグループがあって、金持ちの家を襲い、反乱軍をリクルートするための資金を調達していました。彼らには、自分たちがこんなことをしたのはローマ帝国が悪いからだという口実があり、自分たちのしていることは国を愛してのことだという言い訳がありました。しかし、この人は、そうした口実や言い訳を捨てて、自分の罪を認めたのです。
武力でローマから独立を勝ち取ろうとした人たちは、イエスの教えや行動を生ぬるいと考えていました。「『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』だって? そんなことをしたらローマ兵が頭にのるだけで、われわれは彼らの食い物になってしまう。力にには力で対抗するしかない。」「力のない女、子どもに信仰のことを教えても、理想の国はやって来ない。」そう言って、イエスに反発していたことでしょう。ですから、十字架の上で息も絶え絶えになっているイエスを見て、もうひとりの犯罪人は「それみろ、言わないことじゃない」と言ってイエスをののしったのです。
しかし、この人は、もうひとりの犯罪人に「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(40-41節)と言っています。彼は、イエスを間近に見、イエスが十字架の上から「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈られた言葉を聞いたとき、イエスが罪のないお方だということが分かったのです。そして自分のほんとうの姿を知ることができたのです。自分を他の人と比べているうちは決して自分の罪は分かりません。「あの人よりはましだ」と思い込んでしまうからです。しかし、何ひとつ罪のない、きよいお方の前に出るとき、いやでも自分の罪が見えてきます。多くの人はそれを恐れて神に近づこうとしません。人には神が必要なのに、神のもとに来ようとしないのは、きよい神の前に出るとき、かならず自分の罪を示されるからです。しかし、自分の罪を素直に認めることができたら、そして神が罪を赦してくださる恵み深いお方であることが分かるなら、わたしたちは恐れなく神に近づくことができます。
罪を認めるのは決して敗北ではありません。自分の罪を認めることができる人は、自分に向き合うことができる正直で誠実な人、現実から逃げ出さない勇気ある人です。天への道はそのような人に示されます。神に近づく道、天国への道は自分の罪を認めることからはじまります。
二、イエスを信じる
天国への第二のステップは、イエスを神の御子、救い主、また神の国の王として受け入れることです。この人は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(42節)と言って、イエスが神の国の王であると信じました。イエスは、十字架につけられる前、大祭司に「おまえはキリストなのか」と問われた時、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と答えておられます(マルコ14:61-62)。イエス・キリストは「御国の権威をもっておいでになる」王です。
イエスの弟子たちも、イエスが御国の王であることを信じていました。しかし、弟子たちの場合は、イエスがエルサレムで王になったら、自分たちもその右や左に座わらせてもらおうなどと、地上的なことしか考えていませんでした。それで、弟子たちは、イエスが十字架につけられた時、イエスを見捨ててしまったのです。ところが、この人は、イエスを救い主、神の国の王と信じました。十字架につけられて死んでいく人が、なぜ、救い主であるのか、のろいと恥の象徴である十字架に釘付けになっている人が、どのようにして、王の王、主の主として栄光の座に着くのか、この時、誰も理解できず、信じることも、受け入れることもできませんでした。ところがこの人は、すでにイエスを栄光の王として信じ、受け入れていたのです。
この人は、自分が十字架の上で流す血の一滴、一滴は、自分の犯した罪の報いを支払うものだということを知っていました。しかし、罪のないお方が流す血は、罪ある人間が流す血とはまったく違った意味を持っています。イエスは自分のためではなく罪人のためにその血を流されたのです。この犯罪人は、イエスの苦しみの意味を悟りました。そして、イエスが十字架の苦しみの後、死をうちやぶってよみがえり、天に凱旋することを信じました。そうでなければ、同じ十字架にかけられた犯罪人に救いを求め、死に行く人に将来を託すことなどできません。
弟子たちでさえ信じることのできなかった復活と昇天、そして再臨を、この犯罪人は信じたのです。なんとおどろくべき信仰でしょう。さんざん悪事を働いてきた人がこのようなことを知って信じることができたとは、ほんとうに不思議なことです。しかし、自分の罪を認め、ありのままの姿で神の前に出るなら、神は、どんな人にも、神の真理をあきらかにし、救いの道を示してくださるのです。わたしたちが自分の罪を隠さなければ、神はご自分を現してくださり、自分を偽らなければ、神は真理を明らかにしてくださいます。この人は真実な悔い改めをもって神の前に出たので、神は彼に救いの真理を明らかにしてくださり、彼はそれを信じ、受け入れたのです。
三、救いを願う
天国への第三のステップは救いを願うことです。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」との言葉は、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う願いへの答えとして与えられたものです。神の救いは、わたしたちが求める以前から、神によって着々と進められてきたものですが、その救いはわたしたちの「救われたい」という願い、「助けてください」という祈りの答えとして与えられます。救いは功績によって勝ち取るものではなく、神の恵みによって与えられるものです。しかし、それは「棚からボタ餅」のようにして届くものではありません。それは求めて与えられるものです。わたしたちは、知らない間に、自分の意志と関係なく救われるのではありません。もしそうなら、わたしたちはロボットのようなものになってしまいます。イエスは、38年も病気だった人に「なおりたいのか」と呼びかけ、その人から「なおりたい」という願いを引き出そうとされました(ヨハネ5:6)。バルテマイは「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び求めました。人々はバルテマイを黙らせようとしましたが、彼は叫び求め続けました。その叫びはイエスに届いたとき、イエスは「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねています。イエスは自分の必要を自覚して求めるように願われたのです。生まれつき目の見えなかったバルテマイは「先生、見えるようになることです」と答え、その願いのとおり、目を開いてもらいました(マルコ10:46-52)。
この犯罪人も、「わたしを思い出してください」と願い、天国の約束を得ています。「わたしを思い出してください」という願いは控え目な願いでしたが、イエスは彼に大胆な約束をお与えになりました。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」(43節)「よく言っておくが」というところは、原語では「アーメン、あなたに、わたしは言います」と書かれています。これはイエスが最も確実なことを、権威をもって語られる時に使われる特別な言い方です。イエスは、この人に天国を約束し、それをご自分の権威で保証なさったのです。最も真実なお方、「わたしはアーメンである」と言われるお方が「アーメン」と言って保証されたのですから、これ以上に確かな約束はありません。あなたは、この確かな約束を自分のものとしているでしょうか。主イエスは「あなたは<きょう>、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われました。<きょう>、あなたには天国に行けるという確信がありますか。もしなければそれをイエスに求めましょう。<きょう>というこの日、この時に、救いの約束を受け取りましょう。
強盗のひとりは「わたしを覚えていてください」とイエスに願いました。もちろん、主は彼を覚えていてくださいます。イエスはイエスを信じるひとりひとりを決してお忘れになりません。主がわたしたちを覚えてくださり、わたしたちも主を覚える。この幸いな交わりの中に、救いの恵みが深まり、満ちあふれていきます。この後の主の晩餐を、主に覚えられ、主を覚えるときとしてご一緒に守りましょう。
(祈り)
父なる神さま、天国への道は人間の功績によって築きあげるものではありません。それは主イエス・キリストの十字架によって備えられています。天国の約束を悔い改めと信仰、心からの願いと祈りにより自分のものとすることができるようにしてください。主イエスが「アーメン」と言って与えてくださったこの確かな約束を、わたしたちも「アーメン」と言って受け取ることができますように。主イエス・キリストによって祈ります。
4/6/2014