23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
コリント第一1:18に「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。 ここで「十字架のことば」と呼ばれているのは、福音のメッセージのことです。神が私たちの救いのために与えてくださった福音の中心はじつに十字架、イエス・キリストがかかられた十字架にあるという意味です。キリスト教のシンボルは十字架ですが、それは単なる「しるし」や「記号」ではなく、十字架そのものがキリスト教の中心です。十字架のないキリスト教は、もはやキリスト教ではなく、十字架の語られないメッセージは福音ではなく、十字架の意味を正しく理解していないクリスチャンはほんとうの意味でクリスチャンとは言えないでしょう。
旧約聖書は、創世記のはじめから、十字架を預言しています。新約聖書は、常に十字架を思い起こすよう教えています。じつに聖書全体が十字架を指し示しており、聖書のすべてが「十字架のことば」と言っても良いほどです。けれども、それと同時に、これこそまさに「十字架のことば」と言えるものが聖書にあります。それは、イエスが十字架の上から語られた七つのことばです。どれも、短いことばです。十字架の上で両手を縛られ、つるされた状態では、肺が圧迫され十分に声が出ません。それにイエスは十字架につけられる前に、鞭で打たれ、なぶりものにされ、疲労困憊し、衰弱しきっていました。その上に十字架の苦しみが加わったのです。「十字架上の七つのことば」はそのような極限の苦しみの中から絞りだされた尊いことばです。
イエスを愛する人々は、この七つのことばを、とくにレントの期間には、深く思い巡らしてきました。私たちも毎年、グッドフライデー礼拝で、「十字架上の七つのことば」の中から三つづつを選んで、それを思いみるときを持っていますが、イースターまでの礼拝でも同じようにしたいと思います。今朝は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ということばを思いみましょう。
一、赦してください
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」このことばに触れて、感動を覚えない人はいないでしょう。イエスは、自分を苦しめ、自分を殺す人々のために祈り、その人たちを赦しているのです。私たちの住む世界は、「やられたらやりかえせ。」という原理で動いています。しかし、イエスは「目には目で、歯には歯で。」という報復の原理ではなく、「右の頬を打つ者に、左の頬も向ける。」という無抵抗の原理で生きるよう教えました。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」という自己愛の原理ではなく、「敵を愛し、迫害する者ために祈れ。」といういう普遍的な愛の原理を教えました。イエスの愛の教えは、国と国、民族と民族、グループとグループ、そして、個人と個人が憎しみあっているこの世界に、もっとも必要な教えです。
しかもイエスは、ご自分が教えたとおり、右の頬を打つ者に左の頬を向け、敵を愛し、迫害する者のために祈りました。私たちは聖書の教えを良く知り、それを人に教えたりもします。しかし、私たちは知っていることの何分の一も実行できていませんし、人に教えながら自分は守っていないことが多いのです。こんな話があります。ある夜、嵐が起り、雷が鳴りました。まだ三歳のこどもが雷をとても怖がって、泣いて母親のベッドルームに飛び込んできました。ちょうどその日は父親が旅行に出ていて、家には母親とこどもだけしかいませんでした。母親はこどもに「大丈夫だよ。怖くないよ。」と言うのですが、自分はふとんをかぶってベッドにもぐり込んでいるのです。じつは、母親もこどものころから雷が怖くて、雷が鳴ると、いつもベッドにもぐり込んで耳をふさいでいたのです。こどもにどんなに口で「大丈夫だよ。怖くないよ。」と言っても、自分がベッドにもぐりこんでいたのでは、こどもの恐怖心を取り除くことはできません。私たちお互いはこの母親のようかもしれません。だからこそ、イエスがご自分の教えの通りに生きたことに感動するのです。
しかし、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ということばは、たんに私たちの心を温め、感動させるためだけのものではありません。このことばは、イエスから私たちへの赦しのことばです。イエスが「父よ。彼らをお赦しください。」と祈った、その「彼ら」とは誰のことでしょうか。まず、イエスを鞭打ち、茨の冠をかぶせ、十字架を負わせ、死刑場に曳いていき、着物をはぎとって十字架に釘付けにしたローマ兵のことでしょう。それは、「十字架につけろ」と叫び、十字架につけられたイエスを嘲った群衆でもあったでしょう。この「彼ら」の中には、イエスが何の罪もないお方であることを知りながら、自分の立場を守るためにユダヤ人のいいなりになったポンテオ・ピラトも含まれていたことでしょう。"The Passion of the Christ" の映画に、イエスのこのことばを聞いた群衆のひとりが、イエスを口汚くののしるユダヤの指導者に対して、「おい、今のことばを聞いたか。このお方は、あんたのために祈っているんだぜ。」と言う場面があります。イエスはユダヤの指導者たちの陰謀によって十字架につけられたのですが、イエスはそのユダヤの指導者のためにも、父なる神に赦しを祈られたことでしょう。そして、その「彼ら」には、私たちも含まれるのです。私たちもユダヤの群衆のように、ものごとの真実を求めず、多数の声に聞き従って、真実なお方を斥けてきました。ピラトのように正義よりも自分の利益を優先させ、真理であるお方を軽く扱ってきました。ローマ兵のように霊的なことに対してまったく無頓着で、聖なるお方をあなどってきました。イエスが「彼らをお赦しください。」と祈られた「彼ら」の中に私たちもいるのです。このことが分かるとき、私たちは、イエスの祈りが、じつに私たちのためだったことが分かるのです。水野源三さんの作品に「私がいる」という詩があります。
ナザレのイエスをイエスの祈りが私のためだったということが分かるとき、私たちは、イエスのことばに感動して終わるだけでなく、「イエスさま、私の罪を赦してください。」との祈りに導かれるのです。
十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる
(『わが恵み汝に足れり』より)
私たちは、神を知らずに生きていた時の、神に対する不信仰や不従順の罪を赦していただくことはもちろん、その後、クリスチャンになってからも犯している罪を日々悔い改め、赦していただかなくてはなりません。クリスチャンになったらもう罪を悔い改めることも、赦しを願うこともいらなくなるというのはまったくの誤解です。私たちは「自分は正しい人間だ。自分には何の間違いもない。」という高慢の罪を悔い改めてクリスチャンになったのですから、クリスチャンになってからはいよいよへりくだって、罪の赦しを求めるようになるはずです。聖書の中の最高の祈りはルカ18:13にある「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」だと言われます。古代の教会は "Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner." という祈りが繰り返し唱えられてきました。私たちも、それと同じ謙遜なこころで、「イエスさま、私の罪を赦してください。」と、祈ろうではありませんか。イエスの「父よ、彼らをお赦しください。」とのことばにこたえるのに、「イエスさま、私の罪を赦してください。」という祈り以外にふさわしいことばはありません。イエスの十字架を前にするなら、そう祈らずにはおれないはずです。
二、赦します
「父よ。彼らをお赦しください。」このことばは私たちを、まず「イエスさま、赦してください。」との祈りに導きます。そして、次に「私も、私に負い目のある人たちを赦します。」という祈りに導きます。心から真剣に「赦してください。」と祈りながら、「私は決して人を赦しません。」と言い張ることは、誰にもできません。聖フランシスコの祈りにあるように「赦すことの中に赦されることがある」のです。
しかし、人を赦すということが、自分が高いところに立って、人を「赦してあげる」ということにならないよう注意しなければなりません。私は、ある人がとても勝手なことをして非難されたとき、自分の非を認めないまま、「私は、いわれのないことで非難されていますが、私を非難している人を赦します。」と言っているのを聞いて、何かおかしいように感じたことがあります。「赦してあげる」ということばの中には、何か傲慢な臭いがします。自分は正しくて、相手は間違っているという決め付けがあります。「赦してあげる」というのは自分を神の立場に置くことで、自分がまず赦されなければならない存在、赦されている存在だということを見落としています。私たちは、人を赦そうとしても、なかなかそれができないで苦しむのですが、「赦してあげる」と言ってしまえば、そうした苦闘を体験しないで済みます。それは楽なことかもしれませんが、そこに本当の赦しがあるのだろうかと疑問に思います。
「主の祈り」では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈ります。私はそう祈るとき、いつも「私は他の人の罪を赦しているだろうか。」と心を探られます。そして、他の人を赦すことの難しさを感じます。そして、罪びとである私が、同じ罪びとである他の人を赦すことが、こんなに難しいのなら、聖なる神が、私たちの罪を赦すのはどんなに困難なことだろうかと思うのです。にもかかわらず、神はイエスの十字架によって私たちの罪を赦してくださいました。私は「主の祈り」を祈るたびに、神が私たちの罪を赦してくださったことがどんなに恵み深いことかを感じます。そして神の赦しの恵みを味わいます。そして、その恵みに助けられて「私も、私に負い目のある人たちを赦します。」という祈りに導かれていきます。聖書は「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)と教えています。どんな場合でも神の赦しが先にあって、それに基づいて互いのほんとうの赦し合いが生まれるのです。キリストの赦しに基づかないものは、ほんとうの赦し合いではなく、お互いの間違ったことにただ目をつぶっているだけ、「和をもって尊しとする」といった日本的な「和」の精神で終わってしまいます。「神に赦されることなしに、ほんとうには人を赦すことはできない。」というのが、聖書の原則です。
しかし、赦されるだけで、赦す必要はないというなら、それも間違っています。他の人から不当な扱いを受けた人にとって、その人を赦すのは、もちろん、何の苦労もなしにできることではありません。その人を赦したとしても、不当な扱いそのものは正していかなければならない場合も多いと思います。しかし、本当に罪の赦しを体験している人は、苦闘しながらでも、不正と戦いながらでも、人を赦すことへと導かれていきます。イエスの十字架がそのことを教えています。イエスの十字架は、何よりも、私たちの罪の赦しのためのものです。しかし、同時に、それは私たちがイエスの足跡に従う模範でもあります。ペテロ第一2:19-21にこうあります。「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」イエスの十字架は「模範」であると教えられています。イエスを信じる者はイエスが生きられたように生きることが求められているのです。
ただし、それは「イエスの大きな苦しみにくらべれば、私たちの苦しみは小さなものなのだから、頑張ってそれに耐えましょう。」というだけのことではありません。イエスの十字架は確かに「模範」であり、私たちにあるべき姿を示すものですが、それは、私たちがただ真似れば良いもの、真似ることができるものではありません。ペテロ第一2:22-25にこうあります。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」ここには、イエスが十字架の上で私たちの罪をその身に負われたことがはっきりと書かれています。それは人間が決して真似ることのできないもの、イエス以外のだれも、人間にはできないことです。イエスは私たちの罪を赦すため、その罪を背負って、十字架で死んでくださいました。イエスの十字架によって私たちの罪は赦されます。そればかりでなく、イエスは、十字架の傷で私たちの心の傷をいやし、私たちの心に人を赦す思いと力を与えてくださいます。イエスの十字架のゆえに私たちは罪を離れ、義のために生きることができ、その力を得ることができるようになるのです。人を赦す心とその力はイエスの十字架から来ます。イエスの十字架は模範以上のもの、その模範に従おうとする人々に力を与えるものでもあるのです。十字架からこの力を受けるとき、イエスが十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた祈りを、私たちも祈ることができるようになるのです。
三浦綾子の小説『氷点』の中で、主人公、陽子はこう言っています。「おとうさん、おかあさん、どうかルリ子姉さんを殺した父をおゆるし下さい。今、こう書いた瞬間、『ゆるし』という言葉にハッとするような思いでした。私は今まで、こんなに人にゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。けれども、今、『ゆるし』がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。」この小説の主人公のように「赦されたい。」「赦したい。」という思いは、はっきりと意識しているかいないかにかかわらず、すべての人の心の奥底にある願いです。この願いはイエスの十字架によって満たされます。イエスこそ私たちの罪を赦す権威です。イエスの十字架はじつに赦しの十字架です。私たちはイエスの十字架によって自分の罪を赦されてはじめて、人の罪を赦すことができるようになります。「赦されたい。」「赦したい。」と願う人は誰もイエスの十字架のもとに行きましょう。神に赦され、そして人を赦す恵みの中に歩んでいきましょう。
(祈り)
あわれみ深い父なる神さま。私たちの罪がイエスを十字架に追いやりました。なのに、イエスは、十字架の苦しみの中から、あなたに向かって「父よ。彼らの罪をお赦しください。」と祈られました。この祈りはじつに私たちのため、私のためでした。この赦しの恵みを、さらに深く体験させてください。そして、イエスのこの祈りに助けられ、導かれ、私たちもついには「父よ。彼らの罪をお赦しください。」と人々のためとりなし祈る者としてください。教会が、この世界が赦しの場所となるために、進んで自分の罪を悔い改め、赦しを願い求め、罪の赦しの福音に生きるものとしてください。イエスのお名前で祈ります。
3/2/2008