23:32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。
23:33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
23:35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
23:36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
23:37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
23:38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
一、十字架上の七つの言葉
「十字架上の七つの言葉」というのをご存知でしょうか。イエスが十字架にかけられたとき、十字架の上から語られた七つの言葉のことです。十字架では、犯罪人は両手、両足を釘付けにされます。両手は十字架の横木に縛りつけられますが、胴体は縛られません。ですから、十字架につけられた人は、釘付けにされた両手、両足で全身を支えなければなりません。両足を踏ん張ると足から血が流れ、両手で支えようとすると今度は手から出血します。そんなことを繰り返しているうちに徐々に出血して命を落としていく、十字架はそんな残酷な処刑でした。また、十字架の上での不自然な姿勢のため、胸が圧迫され、呼吸が困難になると聞いたこともあります。イエスは十字架の傷口からだけでなく、ローマ兵から打たれた鞭の傷口からもすでに血を流しておられ、十字架の上では、息も絶え絶えでした。しかし、そんな苦しみの中からも、イエスは七つの短い言葉を語られました。その七つとは次の通りです。多くの教会では、レントの期間、とくに、受難週やグッドフライデーには、この七つの言葉を思いめぐらし、それを分かち合います。私たちもそうしたいと思います。
二、赦しとは
イエスの十字架上での最初の言葉は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」でした。この言葉を聞いて感動を覚えない人はいないでしょう。イエスは、ご自分を苦しめ殺そうとしている人々のために祈り、その人たちを赦しているのです。私たちの住む世界は、「やられたらやりかえせ」という原理で動いています。昨年は「倍返し」という言葉が流行語になったほどです。また、「笑って済まそう自分の失敗、厳しく責めよう他人の過ち」などと言われるように、私たちは自分のことには寛容なのに、他の人のこととなると、小さなことも見逃さずに攻め続けます。自分も失敗だらけの人間なのに、人を決して赦さないというのはおかしなことなのですが、多くの人はその間違いに気付かないでいます。しかし、イエスは「目には目で、歯には歯で」という報復の原理ではなく、「右の頬を打つ者に、左の頬も向ける」という赦しの原理で生きられました。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」という自己愛の原理ではなく、「敵を愛し、迫害する者ために祈れ」といういう自己犠牲の原理を貫き通されました。イエスは、ご自分が教えたとおり、右の頬を打つ者に左の頬を向け、敵を愛し、迫害する者のために祈られたのです。
赦しは、善も悪も一緒にしてしまうことでも、何が起こっても平気でいられるずぶとい心を持つことでもありません。赦しは愛です。それは他を受け入れる大きな愛です。ハインリッヒ・シュッツの「十字架上の七つの言葉」という宗教曲の序曲では「イエス・キリストが苦しみの中から語った真珠のような七つの言葉を聞きなさい」と歌われます。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という言葉は、とくに「真珠のような言葉」という表現がぴったりです。貝は貝の中に異物や寄生虫が入ったとき、それと一緒に外殻膜を取り入れ、体の中に真珠を作ることによってその傷を直していくのだそうです。イエスも十字架の傷と苦しみと死を受け入れ、それを包みこんで、赦しの真珠を作り、私たちの傷をいやしてくださったのです。赦すというのは、自分を傷つける者、苦しめる者をさえ受け入れ、愛で包みこむことです。醜い敵意を、美しい善意の真珠にしてしまうことです。
イエスは言われました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」この言葉は受容の言葉です。イエスは、自分を苦しめる者たちの苦しみを歯をくいしばって我慢し、「赦したくはないが、赦してやろう」とおっしゃったのではありません。イエスを苦しめた人々は、ほんとうは何をしているのか知っていました。律法学者やサドカイ人はイエスを殺害する計画を前々から立てていました。祭司長たちは、イエスに冒瀆罪という、ユダヤの社会で最も極悪な罪に定めようと、お膳立てをしていました。ローマ兵は、ローマの力を人々に見せつけるために、犯罪者をわざと痛めつけました。イエスの十字架は偶発的に起こったことではなく、綿密に計画されたものでした。人々は「過失犯」ではなく「確信犯」でした。そのことはイエスご自身がいちばん良く知っておられました。それなのに、イエスは「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言って、ご自分を苦しめる者たちさえもかばっておられるのです。
ある人がこんな詩を書きました。
人々はわたしのまわりに円を描いてイエスがなさったことはこの詩のとおりのことでした。人々はイエスを憎み、退け、十字架においやりました。しかし、イエスはその十字架によって、イエスを憎み、退けた人々をも含めてしまうほどのもっと大きな愛の円を描かれたのです。
わたしを締めだした
けれどもわたしは
もっと大きな円を描いて
彼らをとりこんだ
人に厳しく当たることを「容赦しない」と言います。「容赦」の「容」は「受容」の「容」です。人を赦すとは、「容赦する」ことです。愛をもって受け入れることです。イエスは十字架によって、私たち罪ある者をも受け入れ、赦してくださったのです。誰からも受け入れられないという疎外感を味わうのは惨めなことですが、もし、そんな立場に置かれたとしても、イエスが自分を受け入れてくださっていることを知り、信じ、感じ取ることができるなら、私たちは疎外感から救われます。イエスの愛は、私たちがどんな状態であろうが、赦し、受け入れてくださる、大きな愛、確かな愛です。
三、赦されるとは
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」との言葉は、イエスから私たちへの赦しの宣言です。「赦し」というと、私たちはすぐに、自分が人を赦すことを考えてしまいます。ある人は「イエスがなさったようには人を赦せない」と言って苦しみ、ある人は、自分が他の人を傷つけたり、他の人に迷惑をかけているにもかかわらず、自分は悔い改めないで、「自分は赦されて当然」と、他の人に赦しを強要したりします。
聖書は「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」(エペソ4:32)と教えています。私たちは他の人を赦す前に、また、互いに赦し合う前に、自分が赦されていなければならないのです。赦されていない人は決して他の人を赦すことはできないからです。十字架上の七つの言葉の第一は、道徳の言葉としてでなく、私たちに罪の赦しを伝える福音の言葉として聞くべきものです。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とイエスが言われた「彼ら」とは誰のことでしょうか。十字架に釘付けにしたローマ兵のことでしょう。それは、また「十字架につけろ」と叫びんだ群衆であり、十字架につけられたイエスを嘲った人々だったでしょう。この「彼ら」の中には、イエスを見捨てた弟子たちも入っていたでしょう。そればかりではなく、その「彼ら」には、私たちも含まれているのです。私たちもユダヤの群衆のように、ものごとの真実を求めず、多数の声に聞き従って、真実なお方を斥けてきました。総督ピラトのように正義よりも自分の利益を優先させ、真理であるお方を軽く扱ってきました。ローマ兵のように霊的なことに対してまったく無頓着で、聖なるお方をあなどってきました。イエスが「彼らをおゆるしください」と祈られた「彼ら」の中に私たちもいるのです。水野源三さんの作品に「私がいる」という詩があります。
ナザレのイエスを「父よ、彼らをおゆるしください」との祈りは、じつに私たちのための祈りです。
十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる
(『わが恵み汝に足れり』より)
では、この十字架からの言葉に私たちはどう答えれば良いのでしょうか。まず第一に「主よ、私を赦してください」と願うことです。私もイエスを十字架に追いやった人々のひとりだった。それなのに、イエスは私のために、父なる神にとりなしておられる。自分の罪を認め、神の愛を知り、「主よ、私を赦してください」と、赦しを願う。それが、私たちにできる第一のことです。すべては赦されることから始まります。自分が赦され、受け入れられ、愛されている、そのことを知る人だけが、他の人を赦し、受け入れ、愛することができるのです。
第二に、私たちは、イエス・キリストによって罪を赦されていることを、心から喜び、感謝し、そのことのゆえに神を賛美し、礼拝します。日本で、ヤクザだった人が、キリストを信じ受け入れ、その人生を変えられました。その人がイエス・キリストを証しするために最初にアメリカに来るとき、飛行機の中で声をあげて泣きだしたそうです。元ヤクザで、いかつい男が男泣きに泣いたのをだれもが不思議に思いました。彼はなぜ泣いたのでしょうか。犯罪歴のある人が海外に行くのを許されるのはめったにないことだったからです。そういう人が海外に行くのは、警察の手を逃れて「高飛び」するときと決まっています。なのに、一般の市民と同じように自由に外国に行くことができる。彼は、その恵みに感動して泣いたのです。聖書に「多く赦された者は多く愛する」とあります。受けるにふさわしくないほどの赦しの恵みが与えられている。そのことに感動する人は、その恵みに涙するほど喜び、神をほめたたえずにはおれなくなるのです。
第三に、神の赦しを受けた私たちは、それによって他の人々を赦していくのです。赦しは道徳ではありません。それは「人を赦さなければならない」という義務でも、「しょうがないから、お前を赦してやろう」という高飛車な態度でもないからです。自分の、あんなに大きな罪が赦されたのだから、人の小さな過ちを赦すのを当然のこととし、何度も同じ過ちを繰り返すことがあっても、なお、その人を包みこもうとする。それが赦しです。聖書の教える赦しは、道徳の行いではありません。イエスは道徳のルールに従って私たちを赦してくださったのではなく、愛によって赦しを勝ち取ってくださったのです。ですから、私たちが他の人を赦したとしても、それは私たちの功績にはなりません。誰も「私はあの人を赦してやった」と誇ることはできません。赦しは純粋な愛です。
私たちは誰もその心の奥底に「赦されたい」「赦したい」という思いを持っています。イエスはただひとり私たちの罪を赦すことのできるお方です。イエスはその赦しを十字架によって勝ち取ってくださいました。イエスの十字架は赦しの十字架です。この十字架によって私たちは「赦され、赦す」ことができます。礼拝は自分の罪を知り、「赦されたい」と願う人々が集うところであり、人を「赦したい」と願いながら、それをなかなかできないでいる人々が神に助けを求めて集うところです。赦しの十字架のもとに近づきましょう。十字架から流れ出る血潮によって、まず自分自身が赦され、他を赦す恵みの中に生かされていきましょう。
(祈り)
あわれみ深い父なる神さま。私たちの罪がイエスを十字架に追いやりました。なのに、イエスは、十字架の苦しみの中から、あなたに向かって「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。この祈りに助けられ、導かれ、赦しの恵みの中に生かされる私たちとしてください。私たちの家庭が、教会が、この世界が赦しの場所となることができますように。イエスのお名前で祈ります。
3/30/2014