感謝の食事

ルカ22:7-19

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22:7 さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、
22:8 イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。
22:9 彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。
22:10 イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、
22:11 その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。
22:12 すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。
22:13 弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。
22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。
22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 11月は感謝の月で、アメリカではこの月の第四木曜日に「サンクスギヴィング・デー」を祝い、この広大な国土を実り豊かな土地にした、開拓者たちの労苦に感謝します。

 サンクスギヴィング・デーの由来は、皆さんよくご存知の通りです。1620年、メイフラワー号は温暖なヴァージニアを目指していました。ところが、悪天候のためコースを外れ、寒さの厳しいマサチューセッツ、ケープコッドに着きました。陸地は雪で覆われていたため、人々は船に留まって冬を過ごしました。飢えと寒さ、そして病気のため、102名の乗客のうち、生き残ったはわずか50名でした。そうした困難にもかかわらず、春になって人々は上陸し、先住民の廃村に家を建て、田畑を耕し、秋には、新天地での最初の収穫を祝い、神に感謝の礼拝をささげました。

 最初のサンクスギヴィング・デーは食事よりも礼拝が主でしたが、時間が経つにつれて礼拝の要素が忘れられ、サンクスギヴィング・デーは、もっぱら食事が中心の祝日になりました。私たちがはじめてアメリカに来たとき、ある家庭のサンクスギヴィング・デナーに招かれました。それで、友人に「サンクスギヴィング・デーにはどう言って挨拶すればいいのですか」と聞きいたら、"Happy Thanksgiving Day!" でいいんだと教えてもらいました。その家に着いて、ご主人に「サンクスギヴィング・デナーの前には何か特別なことをするんですか」と尋ねたら、「何もないよ。さあ、食べましょう」と言われて、あとはひたすら食べる会になりました。"Let's eat!" が「サンクスギヴィング・デーの言葉」なのだということを教わりました。

 一、過越の食事

 けれども、サンクスギヴィング・デーにターキーとクランベリー・ソース、ポテトとパンプキン・パイを食べるのには、目的があります。アメリカの開拓の歴史を忘れず、開拓者たちに感謝するためです。サンクスギヴィングのメニューは400年前と少しも変わっていません。いつだったか、「サンクスギヴィングにターキーを食べたかい?」ときかれたことがありました。「私たち家族にはターキーは大きすぎるので、チキンにしました」と答えたら、「チキンじゃ駄目だよ、ターキーにしなきゃ」と笑われてしまったことがあります。アメリカの人々は、何百年たっても、変わらず当時の食べ物を食べることによって、アメリカのルーツを覚えたのです。

 みなさんは、食べ物と特定の人物や場所、出来事とが結びついているという体験がありませんか。私はよもぎ餅を食べるたびに、よもぎ餅を作ってくれた母を思い出します。ラムネを飲むとこどもの頃がよみがえってきます。たこ焼きやお好み焼きを食べると、生まれ育った大阪の雑踏が浮かんできます。食べ物や食事には、人々の記憶を呼び覚ますという力があり、神は、ご自分のことを覚えさせるため、それを用いられました。

 神は、エジプトから救い出したイスラエルの人々に、過越祭で、小羊の料理に種なしパンと苦菜を添えて食べるよう命じています(出エジプト12:8)。過越の夜、長子(最初に生まれた子)が一夜のうちに死ぬという災いがエジプトにやってきました。神は、子羊をほふり、その血を家の入り口に塗ることによって、イスラエルの人々を災いから救われました。その家の長子のかわりに小羊が身代わりとして、殺されたのです。過越祭で小羊をほふるのは神の救いを覚えるためです。種なしパンを食べるのは、エジプトから急いで脱出するために、パン種が発酵するのを待っていられなかったからです。苦菜は、エジプトで奴隷となって、厳しい労働を強いられた苦しみを思い起こすためでした。神は、人々がそうしたものを食べることによって、自分たちのルーツを振り返り、奴隷から解放してくださった神の愛とあわれみ、力と栄光とを覚えて、神に感謝をささげることを期待されたのです。

 二、主の晩餐

 イエスも、十字架にかけられる前の晩、弟子たちといっしょに「過越の食事」をされました。今朝の聖書の7節と8節に「さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、『行って、過越の食事ができるように準備をしなさい』」とある通りです。

 この「過越の食事」を描いたのが、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」です。この絵はイタリア、ミラノの修道院の食堂の壁に描かれたもので、世界遺産に登録されています。実物は縦4メートル、横9メートルもあり、人物はほぼ等身大に描かれているそうです。いちど実物を見たいと思いますが、カンバスに書かれた絵なら、アメリカでも見るチャンスがありますが、壁画はそこに行かなければ見られないのが残念です。

 この絵が「最後の晩餐」と名付けられたため、多くの人は、イエスが弟子たちとともになさった「過越の食事」を、弟子たちとの「お別れの食事」というイメージでとらえてしまうようになりました。しかし、実際は、それだけではありません。「過越の食事」は先程話しましたように、神がエジプトで奴隷であったイスラエルの人々を、小羊の血によって救い出されたことを覚え、感謝するものです。同じように、主が弟子たちとなさった食事は、弟子たちが、イエス・キリストによって罪の奴隷から解放されたことを、これから長く覚え、感謝するためのものでした。イエスは、イスラエル民族の救いを記念する「過越の食事」を、どの民族であれ、イエスを信じる者が罪から救われて永遠の命を得ることを告げ知らせ、それを覚える「主の晩餐」に変化させたのです。イエスが弟子たちと共になさった晩餐は「過越の食事」としては「最後の」晩餐でしたが、「主の晩餐」としては「最初の」晩餐だったのです。

 「過越の食事」では最初にパンを食べ、それからメインの小羊をぶどう酒と共に食べます。同じように「主の晩餐」でも先にパンを食べ、あとでぶどう酒を飲みます。パンは十字架にかかられたイエスのからだを、ぶどう酒はそこで流された血を表わしています。「過越の食事」では子羊の料理を食べましたが、「主の晩餐」では食べません。それは、イエスご自身が過越の小羊だからです。イエスはパンをご自分のからだとしてお与えになりましたから、パンを食べることは「小羊」を食べることになるからです。「過越の食事」では苦菜を食べますが、「主の晩餐」には苦菜はありません。苦いもの、苦しいものはイエス・キリストの十字架によって取り去られているからです。

 旧約の「過越の小羊」は、じつは、「世の罪を取り除く」本物の「神の小羊」を指し示すものにすぎなかったのです。イスラエルの人々は、今に至るまで、「過越の食事」を守っていますが、そこで食べるパンの本当の意味、ほふられた子羊とその血の本当の意味を知らないままでいます。過越の小羊は、私たちの身代わりとなられたキリストを指すものでした。そのパンと杯も、私たちに命を与えるキリストを示すものだったのです。過越は、キリストの十字架によって成就しました。ですから、私たちは、イスラエルの人々が「過越の食事」を守るのにまさって、「救いは成就した」という喜びと感謝をもって「主の晩餐」を守るのです。

 三、感謝の食事

 「主の晩餐」は初代教会では「パン裂き」(使徒2:42、46、20:7)や「ユウカリスト」と呼ばれました。「ユウカリスト」というのは、ギリシャ語で「感謝」を表わす言葉「ユウカリスティア」から来た言葉です。ルカ22:19に「パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた」とあるように、「主の晩餐」は、神への感謝から始まります。最も古い「主の晩餐の式順」には、こうあります。

司式者「主があなたがたと共におられますように。」
会 衆「あなたの霊と共におられますように。」
司式者「あなたの心をあげなさい。」
会 衆「わたしたちは、主に向って心をあげます。」
司式者「私たちは主に感謝をささげよう。」
会 衆「それはみこころにかなう良いことです。」
このあと、司式が感謝の祈りをささげ、「主の晩餐」は神への感謝で始められます。そればかりでなく、「主の晩餐」そのものが、イエス・キリストの救いを神に感謝するものです。それで、「主の晩餐」は「ユウカリスト」(感謝の食事)と呼ばれたのです。

 詩篇103篇に

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
とあります。私たちは、毎日、感謝すべきことに取り囲まれています。日々の食べ物や健康、家族の愛や人々の善意などです。しかし、それらに勝って感謝すべきことは、罪のゆるしです。たましいの健康です。永遠の命による新しい人生です。最終的には、すべての良いものは神から来るのですが、とくに罪のゆるしときよめ、また霊的な命は直接神から来るもの、イエスの十字架によってしか得られないものです。詩篇103篇は「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、…」と言って、神の救いの恵みを覚え、感謝していますが、それこそが、「主の晩餐」で感謝すべきことだと思います。

 「過越の食事」がイスラエルのエジプトからの救いを再現したように、「主の晩餐」は、キリストの救いを再現するものです。私たちが守る「主の晩餐」の姿は、ダヴィンチの絵のように整ったものではないかもしれません。私たちは毎日の生活の中で信じるよりも疑うことが多く、感謝するよりもつぶやくことが多い者たちです。様々なことで苦闘し、誘惑に負けてしまったり、横道にそれたりもします。しかし、それでも、真実な信仰者たちは、キリストを信じ、神のみこころにそって、せいいっぱい、生きていきたいと願っています。芸術作品のように美しくはなくても、命があります。生きています。芸術作品で描かれた人物は成長することはありませんが、私たちは、変えられ、成長します。生きている私たちが主の晩餐のテーブルを囲む姿は、きっと神の目にも、人々の目にも美しいものであることでしょう。私たち自身が神の作品なのです。信仰をもって、ともにパンをいただき、杯をいただくことによって、私たちは、どんな芸術作品よりももっと鮮明に、神の小羊、イエス・キリストを表わし、示すことができるのです。11月、感謝の月に守る「主の晩餐」です。主イエス・キリストの救いを心一杯感謝し、神に栄光をお返ししましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちにくださったすべての良きものを感謝します。とりわけ、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった救いを心から感謝します。それなしには、どんなに冨を得、健康を手に入し、善き人々に囲まれていても、私たちはそうしたものを心から喜ぶことができず、不安や恐れ、迷いの中に生きていかなくてはなりません。しかし、あなたは、イエス・キリストによって私たちをそうした虚しさから救い出してくださいました。このあとに続く主の晩餐によって、そのことをさらに深く覚え、あなたに感謝をささげる者としてください。神の小羊であるイエス・キリストのお名前で祈ります。

11/3/2013