22:7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。
22:8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」
22:9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」
22:10 イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。
22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。
22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」
22:13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。
イエスは、十字架にかかられる前の日、過越の食事の準備をするよう、弟子たちに命じました。「過越の食事」については、来週くわしく学ぶことにしていますが、この過越の食事は、十字架を前にしてのイエスと弟子たちの最後の食事となったので、「最後の晩餐」とも呼ばれています。イエスは、この最後の食事を最高のものとしたかったので、弟子たちに最善の準備を命じられたのです。
来週、私たちは、聖餐を守ります。聖餐は「主の晩餐」とも呼ばれ、文字通り、主とともに食事をするひと時です。この礼拝堂が、主イエスが主催される晩餐会場に変わるのです。私たちは、聖餐のうちにイエスを自分の心に、生活に、人生に迎え入れるのです。みなさん、主イエスの晩餐会を行う準備はできていますか。そこに参加する、ひとりびとりの用意は大丈夫でしょうか。前回の聖餐を終えてから、次の聖餐に備えてきたはずですが、もう一度、聖餐への準備ができているかどうかを点検してみましょう。来週、礼拝に来て、パンと杯を見て、「今日は、聖餐式があったのか。」と、はじめて気づくようなことのないようにしましょう。主が招待しておられる晩餐に、「ちょっと疲れたから。」とか、「他にしたいことがあるから。」と言って休むことがないようにしたいものです。その時が待ち遠しくてしかたがないという気持ちで、聖餐に備えたいと思います。
聖餐のために準備するのに、必要なものは何でしょうか。聖書に「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(コリント第一13:13)とあるように、それは、「信仰」と「希望」と「愛」です。神は、私たちが何事をするにも、信仰と希望と愛によって行うことを求めておられます。ですから、聖餐に備えるのもまた、信仰と希望と愛とによるのです。
一、信仰によって備える
まず、「信仰」から始めましょう。「信仰」とは何でしょうか。それは、神の真理を自分のこととして受け取ることです。とくに、聖餐にあずかるために必要な信仰とは、キリストが私の罪のために十字架で死なれ、私を救うために復活され、今も生きておられることを堅く信じる信仰です。
イエス・キリストの十字架は歴史の事実です。誰も、イエス・キリストが十字架で死なれたことを否定することはできません。イスラエルに行きますと、いたるところに、イエスが歩まれた足跡を見ることができます。山上の説教を語られた場所、水をブドウ酒に変えたところ、ペテロの姑を癒した家、五千人の人々にパンを与えた場所などが、今も保存されています。エルサレムには、ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)といってゴルゴダの丘に向かう道があります。イエスはこの道を、十字架を背負って歩まれたのです。イエスを慕う人々は、その同じ道を歩いて、主の十字架を偲んできました。いつのころからか、ヴィア・ドロロサに14のステーションが出来、巡礼者たちは、一つ一つのステーションに立ち止まっては、キリストの十字架を深く思い見ました。やがて、十字架のステーションは、エルサレムに巡礼に行くことのできない人たちも、そこでイエスの十字架を思い見ることができるようにと、教会の庭や、教会堂の中にミニチュア版が作られるようになりました。教団の牧師リトリートで借りている施設には、広い庭に十字架のステーションがあって、私は、毎年、そこで祈りをささげ、恵まれた時を持っています。
十字架のステーションは、イエスが当時ユダヤを治めていた総督ポンテオ・ピラトによって十字架に引き渡されるところから始まります。使徒信条に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、…」とあるように、主の十字架は、ポンテオ・ピラトの統治のもとに起こったまぎれもない事実です。そして、キリストの十字架と同じように、キリストの復活もまた、数々の証拠によって証明された歴史上の事実です。
軍人でニューメキシコの知事だったルー・ウォーレスは、もとは無神論者でした。彼はイエス・キリストが神ではないことを証明しようとして、2年もの間、その証拠集めに奔走し、実際にイスラエルにも行きました。しかし、調査すればするほど、聖書が正しいことを裏付ける証拠が次々と出てくるのです。ウォーレスはついに、イエス・キリストが聖書の言うとおりのお方であるという事実の前に屈伏し、キリストを信じるようになりました。その時調べあげた資料をもとに書いたのが、あの『ベン・ハー』という物語でした。
キリストの十字架と復活は歴史上の事実です。しかし、たんに歴史上の事実を事実として認めるだけでは、信仰にはなりません。「キリストが十字架に死なれた。復活された。」と言うだけでは、誰も救われません。そうではなく、「キリストは私の罪のために死なれた。私が受けなければならない罪の刑罰を、私の身代わりとなって十字架の上で受けてくださった。キリストは、罪のうちに死んでいた私を生まれ変わらせるために復活してくださった。」と、キリストの十字架と復活の事実を「私のためだった」と信じることによって人は救われるのです。ローマ4:25に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたのです。」とあります。聖書は、「キリストが十字架に死なれた。三日目に復活された。」という事実だけでなく、それが「私たちの罪のため」であり、「私たちが義と認められるため」であると言って、その意味をはっきりと告げています。信仰とは、キリストの十字架と復活を客観的な事実として認めるだけのものではなく、それが「私のためだった。」と受け入れることなのです。『ベン・ハー』を書いたウォーレスもまた、聖書の真理を発見した時、それを信仰によって自分のものとしたのです。「聖書は事実を書いている。」ということを認めるだけでなく、その事実を自分を救う真理として信じ、受け入れて、はじめて人は救われるのです。
神のことばを自分のこととして聞く、それが信仰です。ヘブル4:2に「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」とあります。キリストの救いという事実も、それを伝える福音も、信仰によって自分と結びつけるのでなければ、無益なものになってしまうのです。あなたは、キリストの救いを、信仰によって自分のものとしていますか。「イエスさま、あなたは私の罪のために死なれ、私を救うために復活されました。心から感謝します。」いう信仰によって、キリストを心に迎え入れているでしょうか。この信仰なしに聖餐にあずかっても、なんの意味もないばかりか、聖餐に対して罪を犯すことになるのです。正しい信仰によって、聖餐に備えましょう。
二、希望によって備える
第二に、私たちは、希望によって聖餐に備えます。私たちはアドベントの期間、主がおいでになるのを待ち望みました。レントの期間を、主の復活を待ち望んで過ごしています。イースターの後は聖霊がおいでになるのを待ち望んで過ごします。そして、ペンテコステの後には、主が再びおいでになるのを待ち望んで過ごすのです。クリスチャンの生活は待ち望む生活です。私たちは誰も、希望なしには生きていくことができません。人々が人生をあきらめてしまうのは、それが困難だからではありません。希望を失うからです。どんなに困難であっても、希望があれば人はそれに耐えることができます。毎日の生活の中で、希望はなくてならないものです。
しかし、クリスチャンの希望は、地上のこと以上のものです。地上のことは一時的なものです。地上のことにしか希望を置いていない人は、すべてがうまく行って、あらゆることが満たされたなら、それでその人の人生から希望が消え去ってしまうのです。貧しい国の若者たちが向上心を持って生き生きとしているのに、豊かな国の若者たちが希望をなくし、だらしのない生活をしているのを、私たちも見て、知っていますね。クリスチャンが待ち望んでいるのは、この地上でものごとがうまく行くことではなく、天国での祝福です。今の時代の一時的なものではなく、いつまでも変わることのない、永遠の神の国です。聖餐の制定のことばの中に「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリント第一11:26)とあるように、聖餐は、クリスチャンに主の再臨を待ち望むことを教えています。
我家に "Faith is not believing that God can. It is knowing that he will." と書かれたかべ飾りがあります。「信仰とは、神にはできると信じるだけではなく、神がしてくださると知ることである。」というのですが、本当にその通りですね。神の全能を信じる正しい信仰を持っていても、神が、その全能の力を用いて、ことを行ってくださると信じるのでなければ、その人の信仰は、たんなる知識で終わってしまいます。神にはできないことはないと信じるだけでなく、神はかならずそのことをしてくださると信じて、待ち望むことがなければ、せっかく神を信じていても、私たちの生活から喜びが消え去り、つぶやきだけが残るようになるでしょう。希望がなければ、神に喜ばれる者になろうとする努力をしなくなり、霊的に怠惰な生活に陥ってしまいます。希望なしに、祈りは生まれません。そして祈りなしに、聖餐に備えることはできないのです。
「希望」の反対は「失望」です。サタンがクリスチャンを駄目にするために最も多く使う手段は、「失望」です。サタンは、神が私たちの生活の中に働いておられることを、私たちの目から隠して、私たちの目を、身の回りに起こる悪いことだけに向けさせます。「ほら、神に従っても、何の良いことも起こらないではないか。ご覧のとおり、祈っても聞かれないではないか。」とささやくのです。しかし、神は、神を信じて生きる人には、どんなところにも、希望のないところはないと教えおられます。たとえそれが不正と苦しみの連続であったとしても、裏切りや中傷が渦巻く冷え切った愛のない場所であったとしても、また、光が見えない暗黒の只中であったとしてもです。主イエスは、不法な裁判によって無実の罪を着せられました。あの十字架で誰もが味わったことのない苦しみを受けられました。主は、その愛を注ぎ出して育ててこられた弟子たちに裏切られ、見捨てられました。主は、父なる神からも見放され、暗黒の中を歩まれました。しかし、主は、なおも希望を持ち続けました。復活の朝を待ち望みました。主はご自身の絶望を通して、私たちに希望を与えてくださったのです。「丘のうえで木に上げられ」(讃美歌二編16)という賛美の三節目に
いたましくも神と人にと歌われていますが、まさにその通りです。
見すてられて主は死なれた
その絶望こそ わたしの希望だ
ローマ5:1-5に次のように書かれています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」私たちの希望は、イエス・キリストがその苦難によって勝ち取ってくださったものです。その希望に目を向けましょう。たとえ、苦難の中にあっても、その苦難から希望が生み出されると信じましょう。そう信じて、キリストの忍耐にならいましょう。そして、忍耐によって練られた品性を育て、希望を握り締めましょう。
三、愛によって備える
私たちは、第一に、信仰によってキリストを心に迎え入れます。第二に、希望によってキリストを心にとどめます。そして、第三に、愛によって、キリストに、私たちのうちで、働いていただきます。このようにして、私たちは聖餐に備えるのです。
人間の愛には、相手につくしているつもりでも、どこか自己中心的なところがあります。親切をするにしても、相手のためよりも、自分にとってそれが気分の良いことだからするということがあります。人に良くすることによってお返しを求める場合や、親切を与えた人の上に立とうとして、そうすることもあります。もちろん多くの場合、本人は、そのことに気づいていません。自分は純粋な気持ちでしていると思っています。自己中心的なことを無意識のうちにしているので、自分の罪に気づかないのです。気づくことがないので、悔い改めることがありません。悔い改めることがないので、自己中心からきよめられていかないのです。無意識のうちに罪を犯すことほど、怖いものはありません。クリスチャンの生活は絶えず、神のことばに心を照らされ、導かれて歩むものであって、何も考えないで思うままに好き勝手なことを口にしたり、その時の気分に任せて行動することではありません。ほんとうの愛は自己中心ではありません。愛とは、神を意識し、相手のことを考えて行動することです。このことが分かる人は、自己中心を悔い改めて、神の愛へと近づいていくのです。
ローマ5:6-7は、神の愛を次のように描いています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」キリストが十字架で死なれたのは、私たちが、すこしばかり「正しい人」だから、あるいは「情け深い人」だからというのではありません。私たちが神に逆らい、神をないがしろにする「不敬虔な者」であった時に、そのような私たちのために、その命さえも投げ出して、愛してくださったのです。私たちに必要なのは、この神の愛です。この愛が、私たちの心にとどまる時、私たちの生活は変わっていきます。それは、最初は自分では気づかず、人の目にも小さなものにしか見えないでしょう。しかし、神の愛が私たちのうちに注がれ続ける時、それは確実に、私たちの生活と人生を変えていくのです。
神の愛は、感情豊かな愛ですが、「気まぐれな」という意味では、感情的な愛ではありません。それは、「わたしはおまえを愛する。」という「意志の愛」です。堅い意志をもって私たちを愛してくださっている神は、同時に私たちにも、「私は主を愛します。」という「意志の愛」を求めておられます。この愛なしには、神の力は私たちのうちに働くことはありません。主イエスは私たちの信仰を通して私たちの心の中に入り、私たちの希望を通して私たちのうちにとどまり、そして、私たちの主への愛を通して、私たちのうちに働いてくださるのです。
過越の準備をするためにエルサレムに出かけて行った弟子たちは、「水がめを運んでいる男」に出会いました。その人について行って、その家の主人に話すと、その家の主人は「席が整っている二階の大広間」を見せてくれました。イエスは、弟子たちに食事の準備をするように命じましたが、同時に、イエスご自身が前もってその場所を用意してくださっていたのです。この主イエスの前準備があったからこそ、弟子たちはその後の準備をすることができたのです。同じように、主イエスは、来週の聖餐のために、すでに前準備を整えていてくださっています。私たちが主イエスを信じることができるように救いを成就し、主を待ち望むことができるためにみことばを与え、そして、主を愛することができるために、十字架によって、その愛を示してくださっているのです。ですから、私たちも、信仰と、希望と、愛とをもって、聖餐に備えることができるのです。この一週間、主への信仰、主にあっての希望、そして主を愛する愛を育て、主が招いてくださる聖餐に、心を込めて準備をし、ひとり残らず、感謝と喜びをもってそこにはせ参じようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなは私たちに信仰と、希望と、愛をお求めになります。私たちは、信仰にも、希望にも、愛にも足らない者たちですが、あなたは、イエス・キリストを、私たちの信仰の導き手、私たちの希望の根拠、また私たちの愛のみなもととして与えてくださいました。聖霊によって、私たちを主イエスと結びつけ、私たちの信仰を養い、希望を確かなものとし、愛を増し加えてください。そして、聖餐のうちに、主イエス・キリストを、私たちの心に、生活に、人生にお受けする者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/18/2007