22:63 さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。
22:64 そして目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか。」と聞いたりした。
22:65 また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。
22:66 夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、
22:67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、
22:68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
22:69 しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
22:70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。
22:71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言った。
一、心の傷
3月11日、東日本大震災から一年が経ちました。被災地はまだがれきが手付かずに残っているところも多く、地震と津波が作った傷跡がくっきりと残っています。地震と津波は、土地に傷跡を残しただけでなく、そこに住む人々の心にも大きな傷を残しました。大震災以来、震度4以上の余震が、300回以上もあったそうです。地震の震度は「7」までしかなく、「震度4」といえば、はっきり揺れを感じ、戸棚のものが落ちてくるような状態です。良く眠っていても目を覚ますほどの揺れです。ほぼ、毎日のように、家具などがガタガタ揺れる地震があり、眠っていてもその揺れのために起こされるようでは、大変なストレスになると思います。このストレスが高じるとそれが大きな心の傷(トラウマ)となり、そのトラウマから、様々な症状が現われてきます。町ごと津波に飲まれていく光景を目のあたりにした人は、それを思い出したくないと思っていても、その時の恐怖や不安が突然ぶり返してくることがあります。「フラッシュバック」と言って、もう過去の出来事なのに、今、体験しているかのように感じてしまうのです。被災された方々が生活の困難に加えて、精神的な苦痛も背負わされていることを思うと心が痛みます。
トラウマを体験した人は、それを避けようとしますので、何事にも消極的になります。たとえば大きな自動車事故に遭った人が、それから車を運転できなくなるだけでなく、家にひきこもってしまうことがあります。人間関係でトラウマに遭った人が、人との関わりを避けて閉じこもってしまうのも良く見聞きすることです。また、身の回りに起こることにあまりにも過敏になりますので、ちいさな物音に驚いたり、予期しないことが起こると慌てたり、毎日をビクビク、イライラしながら過ごすようになってしまいます。
こういう状態を PTSD(posttraumatic stress disorder)と言います。日本語で「心的外傷後ストレス障害」と呼ばれますが、トラウマの「後遺症」のようなものです。PTSD という言葉は阪神淡路大震災の後、一般に使われるようになりましたが、東日本大震災の被災者にも同じ症状を持つ人が多く、とても心配されています。今回の震災では、地震と津波だけでなく、原子力発電所の事故による放射能への恐怖も加わっています。目に見えない放射能への恐怖も、人々の心に大きな傷を残すだろうと言われています。物事を感じやすいちいさな子どもたちに心の傷が残らないように、人々の心の傷がいやされるよう、祈っていきたいと思います。
二、神によるいやし
日本の政府は、人々の心のケアにも目を向けて、心理学者や精神科医などの専門家によるチームを立ち上げたと聞きました。それは良いことで必要なことだと思いますが、最終的に人々の心をいやすのは、神であることを忘れてはならないと思います。
トラウマの後遺症(PTSD)を持っている人をいやすのは、その人に現実を見つめさせることだと言われます。トラウマの後遺症を持っていると、現実は良い方向に向かっているのに、それを認めることができず、過去に逆戻りしてしまいます。いつまでも過去を引きずっていて、過去は過去、今は今と、区別をつけて、今を精一杯生きることができなくなってしまうのです。トラウマから癒されないでいると、劣等感にとらわれ、自分はダメだ、何もできないと思い込んで、自分のあるがままの姿を、長所も短所も含めて正しく見ることができなくなってしまいます。現実から逃げているのです。
「現実を見つめさせる」というのは、口で言うのは簡単ですが、実際はとても難しいことです。過去にとらわれず、今を精一杯生きると言っても、それは将来に対する希望がなしに出来ることではありません。自分を正しく見つめると言っても、自分がなぜ、今、ここに、このようにして存在しているのかという根本的な問題に答えがないかぎり、自分のほんとうの姿を知ることはできないのです。そして、その答えや希望は、神から来るのです。
2012年1月18日の産経ニュースに、被災者がお化けや幽霊を見て不安になっているのですが、近所の人や親戚にそんなことを話しても、「気のせいだ」とか「子どもじみたことを言って」などと軽くあしられそうで、誰にも話せないでいるということが書かれていました。「仮設住宅に何かがいる。その敷地で何かあったんじゃないかと思う」「水たまりに目玉がたくさん見えた」「海を人が歩いていた」などという人が大勢いるのですが、そんな相談は市役所や町役場に持っていくことはできません。それで宮城県宗教法人連絡協議会では僧侶、神父、牧師、また神主が電話で相談に乗る「心の相談室」を実施しているそうです。皆、なんの心の準備もないままに、多くの人を亡くしています。震災では、多くの親族や仲間が一瞬にして死んでいきました。そのような凄まじい光景を目の当たりにした人々が、心に落ち着きを取り戻し、生と死とをきちんと整理して考えることができるまでは、お化けや幽霊の悩みは簡単には解けないでしょう。
なぜ、あの人が死に、自分が生き残ったのか、人はかならず年老いて死んでいく、そこには苦しみや悲しみがいっぱいある、それでもなぜ人は生きなければならないのか、それは、行政やカウンセリングだけでは解決できない問題です。そうしたことに答えを与え、心の傷を癒すことができるのは、ただ神だけです。
神は言われます。「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」(申命記32:39)また、「神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださる…。」(ヨブ5:18)「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」(詩篇147:3)と、聖書にある通りです。
三、傷ついたいやし主
では、神はどのように私たちの心の傷をいやしてくださるのでしょうか。それはイエス・キリストが傷つけられたその傷によってです。
イエスは、宣教をはじめたときから、反対者たちの非難や中傷を受け続けてこられました。「中傷」というのは「中傷(なかきず)」と書くように、それは人のからだを傷つけはしませんが、その中にあるもの、その人の心や人格を傷つけます。反対者たちは中傷によってイエスの正しさやきよさ、誉れや栄光を傷つけたのです。イエスは時には群衆から石で打たれそうになったり、崖から突き落とされそうになりましたが、誰もイエスのからだを傷つけることはできませんでした。イエスは人類の罪のためにささげられる「神の小羊」ですから、その小羊は傷のない完全なものでなければならなかったのです。イエスは、ご自分を傷つけようとする者からご自分を守ってこられました。
しかし、ゲッセマネの園で「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られた後は、人々がイエスを傷つけるままに任せられました。イエスが神殿警備隊に捕まえられたとき、とても乱暴に扱われました。その両手は縄できつく縛られ、手首は内出血し、青く腫れたことでしょう。そして、大祭司のところに連れていかれ、裁判が始まるまでの間、63節にあるように、イエスは監視人たちからむちで叩かれ、さんざん馬鹿にされ、罵らました。
イエスは裁判で有罪となり、ローマの総督、ピラトのもとに送られました。ピラトは、イエスがガリラヤの人であると聞いて、ちょうどそのとき、エルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデのもとにイエスを連れていきました。そこでも、イエスは、ヘロデとヘロデの兵士たちに侮辱されたうえ、再びピラトのもとに送り返されました。ピラトはイエスに罪を認めることができませんでしたが、自分の身を守るために、イエスの反対者たちの言いなりになり、マタイ27:26にあるように「イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した」のです。
イエスのむち打ちは、"The Scourging at Pillar"(柱石のもとでのむち打ち)と呼ばれます。「ピラー」というのは、建物が取り壊されたあとに残った背丈の短い柱、「残柱」のことです。ローマ兵は、むち打ちを受ける犯罪人が逃げないよう、犯罪人の両手を鎖でつないでから、むちをふるいました。
使徒パウロが「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度」(コリント第二11:24・口語訳)あったと言っているように、ユダヤには、40回以上むちで打ってはいけないという規定がありました。ところが、ローマのむち打ちには制限がありませんでした。しかも、ローマのむちは、三本の皮でできていて、それぞれの先端には鉄や鉛がついている、フラグラムと呼ばれるものでした。フラグラムで叩かれると、一度に三本のむちで叩かれたのと同じになります。40回叩かれても、実際は120回になります。むちの先端についている金属が皮膚を破り、肉をえぐりとります。イエスは、このむちで肩、背中、腰、そして足を順に打たれたのです。イエスは多くの血を流し、その血がむち打ちの柱が立っている床を濡らしました。
多くの犯罪人は、十字架にかかる前に、このむち打ちで気を失い、死んでしまいました。この上、十字架の苦しみを受けるくらいなら、むち打ちで死んでしまったほうが楽だったかもしれません。しかし、イエスは、苦しみの杯の最後の一滴までも飲み干すために、この苦しみを耐え、なおも、十字架へと向かっていかれました。
傷のない神の小羊が、自ら受けてくださったこの傷、それが、私たちの傷をいやすのです。聖書は、このことを、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)と教えています。イエスは「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」(イザヤ61:1)とあることばを引いて、ご自分が、私たちの心の傷をいやすお方であると宣言されました。
イエス・キリストは、ヘンリ・ナウェンが言うように "Wounded Healer"(傷ついたいやし主)です。イエス・キリストが知らない心の傷はありません。それがどんなに深いものであろうと、このイエスによって癒せない心の傷はありません。なのになぜ、人々は、心の傷を癒されないまま、相変わらず、自分を傷つけ、互いに傷つけあいながら生きているのでしょうか。それは、本当の癒しを求めず手軽な癒しに走っているからだと思います。私たちが人生で味わう苦しみ、痛みには、神からのメッセージが隠されています。それを聞くことなく、痛み、苦しみ、悩みをごまかしてしまうのは、痛み止めを飲んでその場しのぎをするだけで、痛みの原因となっている病気を治療しないのと似ています。癒しは自分の心の傷をごまかさないことから始まります。詩篇109:22に「私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています」とあり、詩篇139:23-24には「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」という祈りがあります。聖書のこうした祈りは、現代の私たちもそのまま祈ることができる祈りです。こうした祈りが素直な心で捧げられるところ、そこに神からの癒しが届きます。
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(ペテロ第一2:24)との聖書の言葉は今も真実です。世界中の多くの人が、主イエスの癒しをあかししてきました。私たちも、主イエスに癒され、主イエスの癒しの力が真実であることを、心の傷に悩む人々にあかししていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、今朝、私たちにイエスさまを想う静かな時を与えてくださり、感謝いたします。私たちは騒がしい世界に生き、また私たちの心も、いつも、騒いでいます。そんな中で、礼拝に来て、心を静めて主イエスを想うときはなんと幸いなことでしょうか。日常の生活でも、そのようなときをを数多く持つことができるよう助けてください。静けさの中でしか聞くことのできない、あなたからの語りかけを、いやしのことばを聞くことができますように。傷ついたいやし主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/11/2012