22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
イエスは弟子たちとの食事を終えて、ゲツセマネの園に向かいました。イエスは、早い時期から、ご自分が苦しみを受けて死ぬことを弟子たちに予告していましたが、ゲツセマネへの道で、そのことをはっきりと語りました。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」(マタイ26:31)と言われました。羊飼いであるイエスが打たれ、イエスに従ってきた弟子たち、羊の群れが散り散りになるというのです。これを聞いたペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言いました。ルカの福音書では「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言っています。実際、ペテロは、ゲツセマネで、イエスを捕まえようとした兵士に刀で切りかかり、その耳をそぎ落としました。イエスにいさめられてペテロは刀を収めていったん退却しましたが、その後イエスの後を追って、大祭司公邸の庭先にまでもぐりこみました。ほかの弟子たちが逃げ隠れしていたのに、ペテロは、こっそりとでしたが、イエスの最期を見届けようとしたのです。しかし、ペテロの勇気もそこまででした。彼は、この大祭司の家の庭先で、三度もイエスを否定してしまったのです。
イエスは、ペテロのそんな弱さをあらじめ知って、ペテロに「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。このイエスのおことばは、ペテロと同じ弱さを持っている私たちひとりびとりへのことばでもあると思います。このイエスのおことばには、三つの大切な真理が含まれていますので、そのことを心に留め、イエスのおことばに耳を傾けましょう。
一、イエスは私に信仰を求める
イエスのおことばにある第一の真理は、「イエスは私に信仰を求められる」ということです。
イエスは、私たちに数多くのことを教えてくださいましたが、その中でいちばん大切なことは何でしょうか。今年、私たちは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)とのおことばに従って、イエスから学ぼうとしていますが、私たちがイエスから学ばなくてはならないものは何でしょうか。それは、ひとことで言えば「信仰」です。イエスは、神が私たちの父であり、この天の父に信頼するよう教えられました。また、ご自分を救い主、また主として受け入れ、従うよう、求められました。
しかし、神の民と呼ばれる人々はキリストを受け入れず、父なる神の愛の招きを退けたのです。イエスは、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」(マタイ17:17)と言って、人々の不信仰を嘆きました。イエスは、何度も、「信仰の薄い者たちよ。」と言って、弟子たちの不信仰をいさめています。イエスは、復活を信じなかった弟子たちに対して、「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。」(マルコ16:14)のです。しかし、一方、イエスは、しもべのいやしを願ったローマの百人隊長の信仰を見て、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(マタイ8:10)と言ってそれを褒め、彼のしもべをいやしました。カナンの女が、悪霊につかれた娘のいやしを求めたとき、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」(マタイ15:28)と言って、娘をいやしました。「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び続けた盲人の乞食に、イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」(ルカ18:42)と言われ、彼をたちどころに見えるようにされました。
イエスはペテロに「あなたの知恵がなくならないように。」「力がなくならないように。」「権威がなくならないように。」とは言われず、「あなたの信仰がなくならないように。」と言われました。イエスは、私たちの知恵や力を必要とはされません。イエスはすべての知恵と知識を持っておられるお方です。イエスは、全能のお方です。全能の主イエスは、なそうとしておられることを、人間の助けを一切必要としないで成し遂げることができます。私たちは「奉仕」を、自分の力でイエスを助けていることだと思いがちですが、それは間違いです。イエスは私たちの手助けがなければ何もできないお方ではありません。イエスが私たちに奉仕の機会を与えてくださるのは、私たちがそれによって私たちがイエスに力を貸すためではなく、イエスから力をいただくためなのです。同じようにイエスは、どんな人間の権威も必要とはされません。イエスは、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられるお方です。イエスは、私たちの持っているどんなものも必要とはされません。イエスはすべてのものの所有者であり、主であるからです。イエスが、私たちに求めておられるもの、それは信仰です。
イエスは、世の終わりのことに触れて、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)と言われました。イエスが天から再びおいでになる時、私たちに問われるのは、私たちがどれほどのことをなしたか、どれだけの知識を蓄えたかということではなく、私たちに信仰があったか、なかったかと言うことです。世の終わりに近づけば近づくほど、人々は目に見えない信仰よりも、目に見えるものを重要視します。信仰者と呼ばれる人々が信仰による歩みをしないで、人間の方法や能力によって事をなし、人間の好みにまかせて勝手なふるまいをするようになります。そんな時代だからこそ、イエスはなお、私たちのうちにほんとうの信仰を求められるのです。
イエスは私たちに信仰を求められるのは、信仰だけが、私たちをサタンの手から救い出すことができるからです。イエスは、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」と言われました。ケーキを作るとき、小麦粉をフィルターにかけ、もっと細かくしますね。小麦粉の粉は、フィルターの中でかき回されます。そして、さらに細かく砕かれて下に落ちていきます。そのように、ペテロは、試みる者、つまり、サタンの手の中でもてあそばされ、粉々にくだかれて地に落ちてしまうというのです。ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言いました。いかにもペテロらしい発言ですが、そのことばは嘘ではありませんでした。しかし、彼は自分のことばを守ることができませんでした。ペテロの熱心は、彼をサタンの試みから守りはしませんでした。熱心であることは素晴らしいことです。熱心に知恵や知識が伴えば、申し分ないでしょう。私たちはサタンの存在やその巧妙な手口について知らないことが多いので、聖書によって、サタンの策略を見破ることができるほどの知識を持つことができたらと願います。しかし、どんなに知識を蓄えたとしても、知識でサタンに勝つことはできません。霊の世界のことは、サタンのほうが良く知っていて、人間の知識はサタンにはかないません。人間のどんな熱心、知恵、知識、また力も、サタンの試みには弱く、無防備です。私たちをサタンの火の矢から守るのは信仰の大盾以外にありません(エペソ6:16)。試みの時、試練の時に、私たちを支えるのは信仰だけです。失敗から立ち上がらせることができるのも信仰だけです。信仰をなくしたら、他のどんなものがあっても、ほんとうの勝利も解決もありません。ですから、イエスは「あなたの信仰がなくならないように。」と、ペテロに言われたのです。
私たちは、イエスから見れば「信仰の薄い者たち」「不信仰な者たち」かもしれません。だからこそ、私たちは自分の不信仰を嘆き、悔い改めるのです。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)と叫んで、イエスのあわれみを請うのです。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)と言って、私たちを信仰に招いていてくだるイエスに手をさし伸ばすのです。
二、イエスは私のために祈ってくださる
第二の真理は、「イエスが私のために祈ってくださる」ということです。
私たちは、「主イエスよ。」と言ってイエスに祈ります。イエスは私たちの祈りを聞いてくださる方、祈りの対象です。しかし、イエスは同時に、祈るお方、しかも私たちのために祈ってくださるお方です。イエスは、その忙しいお働きの中でも静かな場所に退き、たえず祈っておられました。イエスは弟子たちに祈りを教え、弟子たちといっしょに祈りました。ゼツセマネの園に向かう前、イエスは残していく弟子たちのために長い祈りをささげられました(ヨハネ17章)。私たちはイエスの祈りの姿から、イエスが祈りについて教えたことから、多くのことを学び、励ましを受けます。しかし、それにもまさって、私たちを励ますのは、イエスが、天に帰られた今も、私たちのために祈ってくださっているということです。
イエスは私たちの大祭司です。祭司には二重の役割があります。ひとつは、神の代理人として人々に神ご自身を、また、神のみこころを示すこと、もうひとつは、人々の代表者として、人々に代わって神に、罪の赦しを願い求めることです。人間の祭司は誰も完全にそのつとめを果たすことはできませんが、イエスは神の御子ですから、私たちに完全に神を示すことができます。イエスは、人となられたお方ですから、私たちのパーフェクトな代表者として、私たちに代わって神の前に出ることができるのです。ヘブル7:24-25に「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とあります。ペテロに、「おまえのために祈った。」と言われたイエスは、私やあなたのためにも、祈っていてくださる方なのです。
では、イエスが祈ってくださるのなら、私たちは祈らなくて良いというのでしょうか。そんなことはありません。イエスは、ゲツセマネの園で眠ってしまった弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:46)と言われました。祈りなしには、誘惑から守られることも、そこから救い出されることもありません。しかし、私たちは、疲れ果てたり、大きな失望に落ち込んだりすると、ゲツセマネの弟子たちのように祈らなくなったり、祈る力さえ失くしてしまうことがあります。ふだんよく祈っている人でも、自分の祈りだけで十分だと思っている人はいないでしょう。よく祈る人ほど、自分のために祈ってくれる人、自分に代わって祈ってくれる人の必要を感じます。私の現状をいちばん良く理解し、私の心のうちのすべてを知り、私の立場に立って祈ってくれる人、それが、イエスです。イエスは、十分に祈ることのできない私たちの弱さを知っておられます。ですから、私たちの不完全な祈りをもご自分のとりなしによって完全なものにしてくださるのです。聖書は、こう言っています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15-16)
私たちは祈りの最後に「イエスのお名前で祈ります。」と言います。「イエスによって祈る」「イエスを通して祈る」とは、このイエスのとりなしを信じて祈るということです。イエスが私のために祈ってくださっている。だから、私も祈ることができる。そう信じて、"In the Name of Jesus"(イエスのお名前で)祈り続けようではありませんか。
三、イエスは私に使命を与えてくださる
イエスのおことばにある第三の真理は、「イエスは私に使命を与えてくださる」ということです。
イエスは、ペテロに大きな試練を予告しましたが、それだけでなく、「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言って、試練をへた後のペテロに他の兄弟たちを力づけるという使命を与えました。大きな試練や苦しみを体験して、そこから立ち直った多くが、「私は試練を受けるまでは、他の人の苦しみが分かりませんでした。試練のおかげで、やっと他の人の弱さや痛みをを理解できるようになりました。私に試練が与えられたのは、同じ試練に遭っている人々を助けるためだと分かりました。」と言うのを、みなさんも聞いてきたことでしょう。神は、私たちに無駄な試練をお与えになることはありません。どの試練にも必ず目的があります。どの試練にも、それによって神のみこころを成し遂げるという使命が含まれているのです。
新聖歌292に「もしも私が苦しまなかったら」という賛美があります。
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
多くの人が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主イエスが苦しまなかったら
神様の愛は現われなかった
水野源三さんの詩がもとになった賛美です。源三さんが小学四年生だった時、源三さんのいた長野県埴科(はにしろ)郡坂城(さかき)町に集団赤痢が発生しました。1946年8月、敗戦からやっと一年が過ぎた時でしたら、薬もなく、十分な治療が受けられず、赤痢にかかった源三さんは、脳膜炎を起こし、脳性麻痺のため体の自由を奪われてしまいました。身動きひとつできないからだになり、自宅の六畳の部屋に寝かされたままになってしまいました。
そんな源三さんが聖書に出会ったのは、1949年、12歳の時でした。宮尾隆邦牧師が、源三さんに聖書を贈ったのです。源三さんは小学四年生の一学期までしか学校に行っていませんでしたが、聖書には全部ふりがながついていたので、それをこたつの上に置き、母親にページをめくってもらいながら読み進んでいきました。聖書と宮尾牧師の導きによって源三さんは真剣に信仰を求め、翌年1950年12月、洗礼を受けました。その時から、源三さんは変えられ、家庭も変えられました。そして、源三さんの両親もキリストを信じて、洗礼を受けました。そのころ、障害を持った人に対する偏見が根強くあったにもかかわらず、源三さんの一家は、障害のある人がいる家庭とは思えないほど明るく、笑いの絶えないところとなりました。「ただ植物のように生きる私でしたが、主イエスさまの十字架に顕された真の神さまの愛と救いに触れ、喜びと希望を持って生きることができるようになりました。」と、源三さんは言っています。
源三さんは、この神の愛、救いのよろこびを詩作によって、人々に伝えました。詩を書くといっても、身動きひとつできない源三さんには、ペンをとって書くことはできません。母うめじさんが「アカサタナ…」と五十音の最初を読みあげると、源三さんが「ナ」のところで瞬きをします。すると「ナニヌネノ…」と続けます。源三さんが「ノ」のところで瞬きをして、「野原」の「野」という文字を選びます。とても時間がかかり、忍耐のいるやり方ですが、そんな方法で、源三さんは数多くの詩を作りました。うめじさんが亡くなった後は、弟の哲男さん・秋子さん夫妻が源三さんの世話をし、秋子さんの筆記によって、『わが恵み汝に足れり』『主にまかせよ汝が身を』『今あるは神の恵み』の三つの詩集を出版しました。1984年、47歳で主のもとに召された後、第四詩集『み国をめざして』が出版されました。これらの詩集は、多くの人々に慰めと励ましを与え、神の愛を知らせるものとなりました。家族をキリストに導き、人々に神の愛とキリストの救いを伝えるのは、すべてのクリスチャンに与えられた使命ですが、源三さんは、どんな健康な人よりも、恵まれた条件を持った人よりも、その使命をみごとに果たしたのです。試練は、使命を妨げるものだと考えてしまいがちですが、そうではなく、試練は、かえって使命を強めるものです。ですから、試練を与えられたときには、イエスのおことばを握り締めながらそれに耐えたいと思います。
「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエスが私の信仰を心にかけ、私のために祈り、私に使命を与えてくださっている、そのことを覚えながら、イエスに従い続けましょう。
(祈り)
父なる神さま、御子イエスのご受難を覚える一週間を迎えました。人はなぜ苦しむのか、苦しみにはどんな意味があるのか、それは、主イエスの十字架によらないでは解けない謎です。この一週間、私たちの目をしっかりと主イエスの十字架に向けさせてください。主がペテロに言われたことばを思いめぐらし、そこにある真理を心に刻みながら、主イエスに従っていく私たちとしてください。私のため十字架を負ってくださった愛する主イエスのお名前で祈ります。
4/1/2007