22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
みなさんは、今日のメッセージの題を見て、「これって、『最後の晩餐』の間違いじゃないんですか?」と思いませんでしたか。「最後の晩餐」ということばが、あまりにも有名なので、このメッセージの題はタイプミスだと思う人がいても不思議ではありません。でも、今日のメッセージの題は「最初の晩餐」で正しいのです。私は、たいていの場合、聖書のことばをそのままメッセージの題にするか、メッセージの内容を表わす単純なことばを使います。私のウェブページには2001年から279の礼拝メッセージがアップロードされており、今日のメッセージが280番目になりますが、それを眺めてみて、我ながら、もう少し気のきいたタイトルをつけられないのかと思いました。ある説教者の説教題は、まるで小説の題か映画の題のようですが、私のは、どれも平凡です。でも、平凡なほうが、メッセージの内容がすぐにわかり、索引がわりになって良いのかもしれないと思っています。けれども今日のタイトルは、みなさんを「あれっ」と思わせたかもしれません。
けれども、私は、決して奇をてらってこのタイトルをつけたわけではありません。主イエスが十字架を前にして弟子たちとなさった食事は、たしかに「最後の晩餐」です。しかし、それは、別の観点から見れば、「最初の晩餐」でした。主イエスが「最後の晩餐」を「最初の晩餐」にしてくださったのです。「最後の晩餐が最初の晩餐である」というのは、まるでなぞなぞのようですが、これは聖餐を守る私たちにとってとても大切なことなので、しっかりとその謎解きをしておきましょう。
一、新しい契約の最初の晩餐
まず、第一に、この食事は、古い契約の最後の食事であり、新しい契約の最初の食事でした。「古い契約」とは何でしょう。それは、神とイスラエルの間に立てられた契約です。神は、エジプトで奴隷だったイスラエルの人々をあわれみ、十の災いでエジプトを罰し、イスラエルを救われました。神は、エジプトで奴隷だった小さな民族を、神の民として選び、ご自分のものとなさったのです。神は、イエスラエルに「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト20:2)と言われました。イスラエルは神の民となり、神はイスラエルの神となってくださいました。神がイスラエルの人々に与えた律法や儀式、お祭りは、イスラエルの人々を、その契約の中に留まらせるためのものでした。
なかでも過越の食事は、イスラエルがエジプトから救い出されたことを再現するものでした。過越の食事では、レンガ色のスープを飲みます。それは、イスラエルがエジプトでレンガづくりのために働かされていたことを思い起こさせました。苦菜も食べました。エジプトでの苦しみを忘れないためです。過越の食事では、パン種の入らないパンを食べましたが、それは、エジプトを大急ぎで脱出したため、パン種を発酵させている暇がなかったからです。そして、過越の食事のメインは、子羊です。一家につき一頭の子羊が屠られ、その血が家の柱と鴨居に塗られました。それは、エジプトに与えられた第十番目の災い、エジプト中の初子という初子が一晩のうちにすべて息絶えてしまうという災いから逃れるためでした。子羊の血が塗られた家には、その災いが及ばず、"Pass Over"、過ぎ越して行ったのです。それで、この災いからの救いが、文字通り "Pass-over"、"Passorver"、「過越」と呼ばれるようになったのです。イスラエルを解放することを頑固に拒んでいたファラオも、この災いに恐れをなして、イスラエルをエジプトから去らせたのでした。それで、過越の食事はイスラエルの救いを表わすものとなったのです。
主イエスが弟子たちと一緒になさった食事は、この過越の食事でした。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(15節)との、主のことばの通りです。17節で主イエスは杯をとって弟子たちに分け与えたあります。この杯は、過越の杯です。過越の食事では赤ワインを飲むのが慣わしになっていました。ところが、主は、20節でもう一度杯を弟子たちに与えています。これは過越の杯ではなく、それとは別のものです。主はそれを「新しい契約」と呼びました。過越の食事は、古い契約の食事です。それは、神とイスラエルとだけの契約でした。しかし、主が言われた「新しい契約」は、イスラエルだけにとどまりません。それは、全世界のキリストを信じる者との契約です。どこの国のどんな人でも、キリストを信じる信仰によって、イスラエルの人々と同じように、神の民となるのです。古い契約では、イスラエルは、神の民としての身分や権利を与えられ、神の民として保護を受けましたが、神の民としての性質を持つことや神の民としての使命を果たすことに失敗しました。古い契約は外面に留まったのですが、新しい契約では、それが内面に及びます。新しい契約では、キリストを信じる者に神の民としての性質が与えられ、神の民としての使命を果たす力が与えらるのです。私たちが神の民となり、神が私たちの神となってくださるという契約は、聖書に一貫した約束で、変わることはありません。主イエスは、この契約とは別種類の新しい契約を作りだされたのではありません。神とイスラエルとの間にあった古い契約を、恵みによってもっと大きなものに拡大し、さらに豊かなもの、深いものにし、それを新しくしてくださったのです。
主は、どのようにして、新しい契約を打ちたててくだったのでしょうか。19節と20節にあるように、ご自分のからだを十字架の上にささげることによって、ご自分の血を流すことによってです。主イエスは、パンを取って「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」と言い、杯を取って「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました。主イエスは十字架の上で罪びとのために身代わりの死を遂げ、ご自分を犠牲としてささげることによってその罪を赦し、きよめてくださったのです。しかし、十字架ですべてが終わったのではありません。キリストは三日目によみがえられました。その復活によって罪のうちに死んでいた者を、生きかえらせてくださるのです。主イエスは、弟子たちに、十字架と復活による救いをわざをいつまでも覚えさせ、それを宣べ伝えさせるために、過越のパンと杯とは別の、もうひとつのパンと杯とを定めてくださいました。それが、聖餐です。キリストは「過越の食事」を「聖餐」に変えてくださいました。最後の晩餐は、最初の「聖餐」でした。イスラエルの人々が、神の民であり続けるために「過越の食事」がなくてならないものであったように、キリストはキリストを信じる者が新しい契約の中に留まっているために「聖餐」をなくてならないものとして定めてくださったのです。
イスラエルの人々は、今に至るまで、「過越の食事」を守っていますが、そこで食べるパンの本当の意味、ほふられた子羊とその血の本当の意味を知らないままでいます。過越の子羊は、私たちの身代わりとなられたキリストを指すものでした。そのパンと杯も、私たちに命を与えるキリストを示すものだったのです。過越は、キリストの十字架によって成就しました。過越の食事がエジプトからの救いを再現したように、聖餐は、キリストの十字架を再現するものです。聖餐はどんな絵画よりも、彫刻よりも、また映像よりも、みごとにカルバリの十字架を描き出しています。聖餐のテーブルを囲んでいる私たちは、カルバリ山に近づいているのです。パンがささげられ、杯がささげられる時、信仰の目によって、そこにカルバリの十字架を見ましょう。世の罪を取り除く神の仔羊を仰ぎ見ましょう。そして、パンと杯をいただく時、主イエスがくださった新しい契約を、心に深く味わいましょう。
二、臨在をあらわす最初の晩餐
第二に、この晩餐は、主の復活後、主が弟子たちとともにいてくださる霊的な臨在をあらわす最初の晩餐でもありました。
この晩餐の後、主イエスはゲツセマネの園に向かい、そこで捕まえられ、夜なか中裁判に引き回され、翌日、鞭で打たれ、十字架を背負わされて、カルバリの丘に追い立てられ、十字架の上で息を絶え、世を去られました。主イエスは、この晩餐がこの世での弟子たちとの最後の晩餐になることをご存じでしたから、弟子たちに念入りな準備を命じ、この晩餐を特別な思いで過ごされました。みなさんも、送別会で、これから別れていく人といっしょに食事をしたことがあるでしょう。別れるさみしさはありますが、「また会える」という期待がありますから、たいていの場合はそんなに深刻になることはないでしょう。今の時代ですから、「メール頂戴ね。」と言って別れることができます。しかし、明日死ぬのだと分かっていて、親しい人々と最後の食事をするというのは、どんな気持ちでしょうか。私は、この時の主イエスのお気持ちを完全に心に思い描くことはできませんが、主が「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(15節)と言われたことばの中に、そのお気持ちが良くあらわれていると思います。
しかし、これが本当に弟子たちとの「最後の」食事となったのでしょうか。その後、主はいちども弟子たちと一緒に食事をしなかったでしょうか。復活された主は、エマオで、クレオパともうひとりの弟子にパンを取り、それを祝福し、裂いて彼らにお与えになりました。ガリラヤ湖では、主は炭火で魚とパンを焼き、ペテロと他の弟子たちが湖から上がってくるのを待っておられました。主は復活され、天に帰られるまで、何度も弟子たちにあらわれて、弟子たちとともに食事をしておられるのです。主イエスは、天に帰られた後も、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)と言っておられます。
主は、最後の晩餐で、やがて世を去ろうとしていることを弟子たちに告げ、弟子たちとの別れを悲しまれました。しかし、同時に、主は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがも生きるからです。」(ヨハネ14:18-19)と言われ、弟子たちに復活を予告されました。主は復活によって、世の終わりまでも、主を信じる者とともにいてくださるのです。主は、主に従う者を置き去りにはなさいません。主は天に帰られる時、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたともにいる。」(マタイ28:20)と約束を残していかれました。主は、主に信頼する者たちと、いつも共にいてくださり、信じる者を永遠の命で生かしてくださるのです。主は、そのことを、私たちがからだで感じ、覚えることができるようにと、世を去られる前の夜、聖餐を定めてくださったのです。主は、告別の食事を、世の終わりまでも主がともにおられる臨在の食事にしてくださいました。主は、最後の晩餐を、弟子たちといつも共にいてくださることをあらわす「最初の聖餐」にしてくださたのです。
礼拝は主イエスのメモリアル・サービスではありません。私たちは主イエスを懐かしんでここに集まっているのではなく、復活して今も生きておられる主、いやそれ以上に、信じ従う者とつねに共にいてくださる主とお会いするためにここに来ているのです。聖餐は、主イエスとの送別の食事ではありません。聖餐でいただく杯は別れの杯ではありません。聖餐は、世の終わりまでもともにいてくださる主との親しいまじわりの食事です。
「最初で最後」と言うと、「一度限り」という意味です。「最後で最初」という表現はたぶん無いと思いますが、あるとすれば、それは「新しい始まり」という意味になるでしょう。そういう意味で、聖餐は、最後で最初の晩餐です。洗礼によって新しい始まりをいただいた私たちは、生涯の間、聖餐を繰り返し守り続けていくうちに、天の晩餐にたどり着くのです。やがて私たちは地上を離れて天に帰ります。あるいは、主イエスが再び世に来られるのを迎えることができるかもしれません。その時、主は、信仰と希望と愛をもって聖餐を守り続けてきた者たちを、天の晩餐に迎え入れてくださるのです。地上の聖餐は、この天の晩餐の雛形です。私たちは天の晩餐を目指して、地上でこの聖餐を守り続けているのです。聖餐で、私たちは主の死を覚えるだけでなく、同時に、主の復活と再臨を覚えます。カルバリに近づき、カルバリから天を仰ぎ見ます。多くの教会では、聖餐のたびごとに、司式者が "Let us proclaim the mystery of faith."(信仰の奥義を告白しましょう)と呼びかけると、一同が "Christ has died. Christ is risen. Christ will come again."(キリストは死なれ、よみがえられ、再び来られる)と応答します。私たちも、私の罪のために死なれ、私を救うためによみがえられ、私を天に迎えるために再び来てくださる主イエス・キリストを告白しましょう。キリストを心に、生活に、人生にお受けし、私たちの心を天につなぎとめようではありませんか。
(祈り)
愛するイエスさま。あなたは命のパンです。あなたは、私たちを羊飼いが羊を養うように養われます。あなたは十字架にかかられる前の夜、パンとブドウ酒を取り、それを祝福し、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたに与えるわたしのからだです。わたしの血です。」
愛するイエスさま。どんな時でも愛してくださっていることを感謝します。この聖餐であなたを私の内にお迎えしたいと切に望んでいます。私の心の中に入ってください。そして、この聖餐が私を喜びと平安で満たすものとなりますように。アーメン。
3/25/2007