21:25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、
21:26 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
21:28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから。
一、アドベントの成就
クリスマスの四週間前の日曜日から「アドベント」が始まります。「アドベント」には「到来」という意味があります。誰か、とても大切な人がやってくることを表わす言葉です。そして、誰か大切な人が来ることが分かっていたら、わたしたちはその人を迎えるために準備をします。また、もうすぐその人に会うことができると思うと、ワクワクし、楽しみにします。日本の庶民の演芸所は「寄席」と呼ばれ、寄席では、最初に「前座」と呼ばれる人が芸を披露し、最後にその日の主役、「真打」が登場します。人々は前座の芸もそれなりに楽しむのですが、真打の登場を心待ちにしていて、いよいよ真打の登場となると、大きな拍手で迎えるのです。このようなことは、アメリカでも、他の国でも、また、どんな催しでも同じで、一番大切な人は最後に登場し、人々はその登場を心待ちにするのです。
旧約時代の人々、とくにスラエルの人々はやがて救い主が来られることを長い間待ち望んできました。イスラエルの人々は、最初は土地を持たない遊牧民でした。家畜の群を追って転々としていた時代には、すでにその地に住み着いていた人たちとトラブルがありました。その後、イスラエルの人々は長い間エジプトで奴隷となり苦しめられてきました。奴隷から解放され、自分たちの土地を持つようになりましたが、そこは、強い国々にとり囲まれた場所でした。神は、イスラエルを他の民族とは違って、信仰の民とするために、神に頼らなければ生き残れないところに置かれたのです。イスラエルが神の言葉に聞き従い、神に信頼していたとき、国は栄え、人々は平和と繁栄を楽しみました。しかし、人々が神の言葉に逆らい、神よりも軍事や政略に頼るようになったとき、国は分裂し、アッシリアやバビロンという大帝国に滅ぼされてしまいました。
それでも、神は、イスラエルに回復を約束されました。その約束の一部は、ペルシャの時代に、バビロンに連れていかれた人たちが戻ってきたとき成就しましたが、イスラエルは依然としてペルシャの属州にひとつであり、イスラエルの王となるべき、救い主はまだ来ていませんでした。ペルシャからローマの時代になっても、イスラエルはローマの属州のひとつとして、ローマ総督の官邸がエルサレムに置かれ、いたるところにローマ兵が駐屯し、「取税人」といわれる人々がローマのために税を取り立てていました。しかし、信仰深い人たちは救い主の到来(アドベント)を待ち望んだのです。そして、神は、その約束どおり、救い主を送ってくださいました。それが「クリスマス」です。救い主イエス・キリストはただイスラエルだけの救い主ではなく、全世界の救い主として来てくださいました。ですから、時満ちてこの世に来てくださったイエス・キリストをわたしたちも心から祝うのです。クリスマスの日、「アドベント」は成就したのです。
二、アドベントの約束
では、新約時代に生きるわたしたちには、もう何も待ち望むものはないのでしょうか。クリスマスは、ただ「アドベント」の成就を祝うためだけのものなのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストはもういちど来てくださるのです。第二のアドベントが約束されているのです。クリスマスのシーズンは、救い主イエス・キリストがもういちどこの世に来てくださるのを待ち望む時でもあるのです。
ではイエス・キリストが「もういちど来てくださる」とはどういうことでしょうか。それは、イエス・キリストが最初に来てくださったときとくらべてみるとわかりやすいと思います。
イエス・キリストは最初にこの世に来られたとき、貧しい姿でおいでになりました。何の力も持たない赤ん坊となって、宮殿ではなく家畜小屋で、柔らかい布団の敷かれたクリブではなく飼葉おけに寝かせられたのです。しかし、もう一度来られるときには、神の御子としての栄光のお姿で、天使たちを従え、力をもっておいでになります。
また、イエス・キリストが最初においでになったとき、救い主のお生まれを知る人はマリヤとヨセフの他誰もいませんでした。救い主はベツレヘムでお生まれになることが知られていましたが、ベツレヘムの町の人も救い主の誕生を知りませんでした。世界中の人が救い主をほめたたえて当然なのに、救い主の誕生を祝う人は誰もありませんでした。しかし、主イエスの再臨のときには、違います。主イエスは誰の目にも分かる形でおいでになり、すべての人がイエス・キリストを見るのです。黙示録1:7にこうあります。
見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
イエス・キリストは救い主として世に来られました。しかし、二度目に来てくださるときには裁き主、審判者としておいでになります。「救い」と「裁き」は一体です。この世では常に、力の無い者が力ある者に、正しい者が悪い者に苦しめられています。苦しむ者が救われるためには、苦しめている者が懲らしめられる、神の正義の審判が必要です。テサロニケ第二1:6には「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである」とあります。そして、そのことは主イエスが再び来られるときに実現するのです。
神が世界を裁かれる。それは、恐ろしいことです。ある人が、悪者が横行している現状を嘆いて、クリスチャンの友人に、こう言いました。「神がおられるなら、どうして、世界に悪がはびこっているのを許しておられるのか。なぜ、神は世界中の悪い奴らを全部滅ぼしてしまわれないのか。」それを聞いたクリスチャンは、こう答えました。「もし、神がそうなさったとしたら、ぼくや君はたちまち滅びてしまうに違いないよ。ぼくらも神の前には罪びとなんだから。神は、世界を正しく裁かれる。けれども、神はぼくらが滅びてしまわないために、まず、イエスを救い主として遣わしてくださったのだよ。」そうです。主イエスが、裁き主として来られる前に、まず救い主として来てくださったことは、なんという恵みでしょう。ヨハネ3:17に「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」と、はっきり書かれています。イエスご自身が「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)と言っておられます。主イエスが再び来られる日を、平安をもって迎えることができるため、イエス・キリストは救いの道を備えてくださったのです。わたしたちは、主イエスがもう一度来られる、その日が来る前に、主イエスの救いをしっかりと握りしめていたいと思います。その救いの中に歩んでいたいと思います。そのことによって、主イエスの第二のアドベントは、わたしたちの大きな希望になるのです。
三、アドベントの希望
ユダヤの人々がヒットラーによって苦しめられていたとき、ドイツをはじめ、回りの国々の心ある人々は書棚を動かすと小さな部屋があらわれるといったしかけを作り、ユダヤの人々を自分たちの家にかくまいました。そうしたところでユダヤの人々はヒットラーの手から逃れようとしたのです。そんな「隠れ家」でも過越祭が祝われました。ある家族が過越祭を祝おうとしたとき、ろうそくがなかったので、父親がバターを燃やし、ともしびをつけました。すると、こどもが言いました。「おとうさん、もうバターは無いんだよ。それを燃やしたら、バターを食べられなくなるよ。」父親は答えました。「わが子よ、人はバターが無くても生きていける。しかし、希望を失くしたら生きていけないのだよ。」そうです。この父親の言ったことは正しいことでした。人は希望なしには生きていけません。とりわけ、苦しみの日に人を支えるのは希望です。神がこの苦しみから救い出してくださると信じる、その信仰から生まれる希望が人を支えるのです。
主イエスを信じる者には、どんな状況の中でも希望があります。神を知らない人から見れば絶望と思えるような中でも、主イエスが共にいてくださるという約束があるからです。この主イエス・キリストがもう一度この世に来て、わたしたちは主イエスにお会いできるのです。そのとき、わたしたちは、罪や悪、病気や死、苦しみや困難など、わたしたちを悩ませるすべてのものから解放され、わたしたちの救いは完成するのです。今、世界は各地で戦争や内乱、テロが起こり、人々は不安の中に生きています。このままでは新しい年はどうなるのだろうかという恐れが世界をおおっています。しかし、主イエスが再び来られるときには、あらゆる戦争は終わりを告げます。主イエスは世界に完全な平和をもたらしてくださるのです。主イエスがもういちどおいでになる。これこそ、最高の希望です。わたしたちはこの希望を持つことによって、日々に起こってくる困難や心配などに負けないで生きていくことができるのです。
先日、ダラス市内をドライブしていましたら、ショッピング・モールのあちらこちらに "Peace"、"Joy"、"Love" などのバナーが飾ってありました。どれもこのシーズンを表わす言葉です。からでしょう。しかし、イエス・キリストなしには、"Peace" も "Joy" も "Love" も実現することはないでしょう。それらは、たんなる言葉だけで終わってしまいます。「イエス・キリストがもう一度来られる。」この「希望」なしには「平和」も「喜び」も「愛」も、わたしたちの心や社会、また世界にはやって来ないでしょう。まことの神を、イエス・キリストを抜きにしてほんとうの平和、喜び、愛は無いのです。
主イエスは言われました。「これらの事が起りはじめたら」、つまり、再臨の予兆が見えたら、「身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから。」(ルカ21:28)希望を持つ者は決して、うつむき、うなだれることはしません。ある牧師が、希望をなくし、自分の問題に閉じこもっている人に言いました。「君、自分のへそばかりながめていても解決はないよ。」部屋の片隅で膝を抱え、そこに頭をうずめていても、何も起こりません。立ち上がって、天を仰ぎ、神に祈りなさいとの勧めです。皆さんが、空港に家族や友人を迎えに行くときには、出口のところで待っていて、顔を上げ、背伸びをして、出口に向かってくる人の中に、家族や友人がいないかと探すことでしょう。そのように、イエス・キリストを信じる者は、「身を起し頭をもたげ」、愛する主イエスがおいでになるのを待つのです。「救いは近づいている」との希望に励まされるのです。
「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)このアドベントにもう一度「主を待ち望む」ことを学びたいと思います。わたしたちには確かな希望が与えられているのですから、「身を起し頭をもたげ」歩み続けたいと思います。そして、主イエスを信じ、主イエスに従い、主イエスの再臨を待ち望む人が、さらに増えるようにと祈り、証ししたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは救い主を送るとの約束を、ひとつも違わず、みごとに成就してくださいました。その救い主イエス・キリストが「わたしはすぐに来る」と約束してくださいました。わたしたちを、この確かな約束にもとづいた希望に生かしてください。人生のどんな問題にもへこたれずに、「身を起こし頭をもたげる」者としてください。わたしたちが、この「希望」を証しすることによって、さらに多くの人が主イエスの再臨を待ち望むことができますように。主イエスのお名前で祈ります。
11/29/2015