2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
イエスがお生まれになったとき、御使いが羊飼いたちに現れ、救い主の誕生を告げ知らせました。そして、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌いました。この賛美に「平和」という言葉があるので、「天使のキャンドル」が「平和」を表すものとなりました。
一、政治的平和
平和、それは、誰もが願うものです。しかし、平和といっても、さまざまな「平和」があります。人々がまず考えるのは、政治的な平和でしょう。イエスがお生まれになったとき、世界は、また、ユダヤは平和だったでしょうか。ユダヤの国はどうだったでしょうか。ルカ2:1-2に、「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった」と記されています。この言葉は、イエスがお生まれになったときの世界の情勢やユダヤの状態を物語っています。ローマに皇帝が立ち、ユダヤの国がローマ帝国のシリヤ州に編入され、ユダヤは総督に支配される属国であったということです。
「皇帝アウグスト」の「アウグスト」というのは、皇帝に与えられた尊称です。実名はオクタビアヌスです。オクタビアヌスはジュリアス・シーザの甥にあたる人でした。シーザが暗殺されたときオクタビアヌスはまだ18歳で、留学中でした。叔父の死を聞いてローマに戻る途中、オクタビアヌスはシーザが自分を後継者にと願っていたことを知ります。そして、ローマの権力の頂点に立つことを志すのですが、それを急がず、元老院や政敵と争わず、政治的な手腕で帝国の権力を一手に握り、最初のローマ皇帝となりました。紀元前27年、オクタビアヌスが35歳のときです。76歳で世を去るまで41年の間に、彼はローマ皇帝の地位をゆるぎのないものにしました。
皇帝アウグストは、ローマを強くするための政策を次々に行い、ローマ兵の待遇を良くして、士気を高めようとしました。そのためには財源が必要でした。ローマ人は税金を免除されていましたから、彼は属国から税金を取り上げることにしました。ルカ2:1に、皇帝アウグストが住民登録の勅令を出したことが書かれていますが、この住民登録は、属国の住民から税金を取り上げるためのものでした。自国のためならまだしも、ローマに税金を取り立てられるのは、ユダヤの人々にはがまんのならないことでした。福音書によく登場する「取税人」は、ユダヤ人でありながら、ローマに雇われ、ローマのために自国民から税金を取り立てる人たちだったので、ユダヤの人々からずいぶん嫌われていました。
皇帝アウグストの時代、長年続いた戦争が止みました。それで、ローマが世界にもたらした平和は "Pax Romana"(ローマの平和)と呼ばれました。けれども、その平和は、他の国々がローマに隷属している限りの平和でしかありませんでした。ローマの平和を楽しんだのは、一部のローマ市民だけで、ローマの軍事力によって屈服させられた国々は、自由と独立とを失い、ローマの平和とはほど遠いところにあったのです。
今日、世界の目は東ヨーロッパでの戦争に注がれています。誰もが一日も早い停戦や終戦を望んでいます。水面下でさまざまな政治的な駆け引きがなされているのでしょうが、政治的な解決だけでは、ほんとうの平和はやって来ないことを、私たちは知っています。国際的な調停で不利な立場になった国は、かならず、相手の国や他の国々に不信感を持ちます。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)憲章に「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあるように、ほんとうの平和は政治的な駆け引きで作ることはできないのです。国と国、民族と民族、あるグループと別のグループとの間にある偏見や不信感、憎しみや恐怖といった、目に見えない戦争は、「政治的な平和」だけでは解決できないのです。
二、物質的繁栄
次に、「平和」とは物質的に豊かになることだと思われています。ヘブライ語では「平和」は「シャローム」と言います。「シャローム」は、旧約では、戦争や災害、ききんなど、生活を脅かすものから守られるだけでなく、豊かなもので満たされること、「繁栄」をも意味していました。申命記28:4-5には、「あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される」という約束があります。イスラエルの人口が増え、田畑からは豊かな実りがあり、家畜の群れが増えるというのです。「かごも、こね鉢も祝福される」というのは、台所で使うものに食べ物が常にあり、パンを焼くためのこね鉢に麦粉が尽きることがないという意味です。
国連は今年(2022年)11月15日に、世界人口が80億人に達したと発表しました。第二次大戦後、1950年には25億人でしたが、その時すでに、これ以上人口が増えれば食糧供給が追いつかなくなり、食糧の奪い合いが起って、世界規模の戦争が起こると言われました。飢餓や貧困が戦争を生むのだから、みんなが豊かに暮らすために人口を抑制しなければならないと、皆が議論したものです。しかし、今、人口が3倍になっても、世界には、人々を養うだけの食べ物があります。もちろん、飢餓に苦しむ人たちも大勢いるのですが、そのほとんどは、食べ物がないためではなく、戦争や内乱によってその地域に食べ物を届けることができないことが原因です。食糧不足で戦争は起こりませんでした。逆に、戦争によって食糧不足が起こりました。田畑が荒らされたり、輸送路が断たれれたからです。
モノの豊かさは、必ずしも平和につながりません。人の心には「貪欲」があって、豊かになればなるほど、「もっと欲しい」という思いが募ってくるのです。石炭は質の良し悪しはありますが、世界中のどこにでもある昔からあったエネルギー源でした。20世紀になってからは、石油が主要なエネルギー源となりました。近年、脱炭素が叫ばれてからは石油の代わりに、各国が、太陽光パネルやリチウム電池を作るための鉱物資源を奪い合うようになりました。そのために自然破壊が起こり、戦争が起こるようになりました。「環境を守ろう」、「平和な世界にしょう」という理想とは矛盾することが、実際には起っているのです。
聖書が教える「豊かさ」は決して、モノだけの豊かさではありません。神を信じなかったとき、私たちはモノの豊かさを追いかけてきたかもしれませんが、それによって心の平安を失ってきました。世界もモノの奪い合いによって平和を失いました。聖書の「あなたのかごも、こね鉢も祝福される」との約束には、「あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら…」(申命記28:9)との条件があります。神を信じ、神に従うことから来る祝福だけが、ほんとうの意味で人を豊かにし、世界を平和にするのです。
三、神との平和
天使が告げた「平和」は、政治的な平和でも、物質的な繁栄でもない、神からくる平和、神との平和でした。
きょうの箇所に「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」(9節)とあります。「造られた者」である人間は「造り主」である神の前に、そのままで立つことはできません。死ぬべき存在でしかない人間、罪を持つ私たちは、永遠の存在であり、聖なるお方の前に立つ時、恐れおののくことしかできません。羊飼いたちが、神の栄光に照らされて、恐れ、怯えたのは当然です。ところが、御使いはすぐさま、羊飼いに「恐れるな」と言っています。なぜでしょう。人は、罪を犯して神に敵対し、神も、人の罪を裁かなければならなかったのですが、神が、世に、キリストを遣わし、人の罪を赦し、神と人との間に和解をもたらしてくださったからです。
御使いは言いました。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(10-11節)「キリスト」には「油注がれた者」という意味があります。聖書で最初に「油注がれた」のは祭司でした。祭司は、人に対しては神を表し、神に対しては人々を代表して、神と人との間に立ち、神と人との仲立ちをする者です。ですから、「キリスト」というタイトルには、「神と人との仲立ちをする者」という意味があります。イエス・キリストは、人の罪を背負い、人に代わって神の裁きを受け、神と人との間に平和を作ってくださいました。コロサイ1:19-20にはこう書かれています。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。」これが天使の語った平和です。ですから、私たちは、神を怖がったり、怯えたりするのでなく、確信をもって、喜びをもって、また、感謝をもって、大胆に神に近づくことができるのです。そして、神との平和を持つ者は、心に平安を持つことができ、人と人との間に平和を作る者となることができるのです。
御使いは、羊飼いたちに、「あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(12節)と告げました。救い主は、本来なら王宮に生まれて当然です。ところが、家畜をつないでおく洞穴で生まれました。羊飼いたちは王宮には近づけませんが、家畜小屋なら、それは、彼らにとって親しいばしょです。ベツレヘムの町の家畜小屋がどことどこにあるか、彼らはよく知っていました。飼葉桶に寝かされている赤ちゃんを見つけるのに苦労はいらなかったと思います。イエスは神の御子であるのに、神としての栄光を捨て、低く、貧しい姿で世に来てくださいました。それは、誰もが、恐れなく、救い主に近づくことができるためだったのです。
皇帝アウグストの「アウグスト」という称号には「崇高なる者」という意味があり、皇帝は「神の子」、「救い主」とも呼ばれました。そして、皇帝が赦免を布告するとき、それは「福音」と呼ばれたのです。ローマの皇帝は、ローマの最高の祭司であり、自らをも神としました。アウグストは神になろうとし、神の栄光を奪いとりました。しかし、今日、アウグストは歴史の資料の中に名を残すだけで、彼をほめたたえ、祝う人は誰もいません。けれども、彼の時代にローマの属国でひっそりとお生まれになったイエスは、今も、世界中の人々に愛され、慕われ、礼拝されています。イエスを信じる人々は世界人口の三分の一、26億人いると言われています。アウグストの時代の「ローマの平和」はやがて消えて行きましたが、イエスがもたらしてくださった「平和」は、今も続き、世界に広がっています。天使たちが「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌った「平和」はイエス・キリストによって実現し続けているのです。
初代教会はこの天使の賛美をそのまま教会の賛美歌にしました。「栄光の賛歌」(グロリア)です。それはラテン語で "Gloria in excelsis Deo: et in terra pax homnibus bonae voluntatis." と歌われます。伝統的な礼拝形式を採用している教会では、この賛美は礼拝のたびごとに歌われます。礼拝とは、神の栄光をほめたたえることであり、神との平和を願い求めることだからです。救い主イエス・キリストによって与えられている「神との平和」なしに、私たちは「神の栄光」に近づくことはできません。とくに、このシーズンには、イエス・キリストが、私たちの平和である、イエスは十字架で平和を作ってくださった。そのことを覚えて、天使たちの歌に合わせ、神を賛美したいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちのために救い主キリストを遣わしてくださいました。イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのため、ご自分を献げ、あなたと私たちの仲立ちとなり、私たちに和解と平和をくださいました。私たちは、あなたとの平和をいただいて、恐れなくあなたに近づくことができます。クリスマスに向かう、このシーズンに、あなたの恵み深い栄光を、精一杯ほめたたえることができるよう、私たちを導き、助けてください。私たちの平和、イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/4/2022