2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
かつては、どこの国でも、王子、王女が生まれたときは、それを知らせる役割の人がいました。英国にもそのような人がいて、「街角で叫ぶ人」という意味で、「タウン・クライヤー」と呼ばれます。ウィリアム王子とキャサリン妃の間に男の子が生まれ「ルイ」と名付けられたとき(2018年)、セント・メアリー・ホスピタルの前で、伝統的な衣装を着て、その誕生を告げている人をニュースで見ました。英国王室では、過去の伝統をいまだに守っているのかと感心したのですが、実は、その人は王室とは何の関係もない人で、トニー・アップルトンという、街頭宣伝を職業にしている人だったということを、後で知りました。ちょっとがっかりしましが、かつては、あんなふうにして王子、王女の誕生が伝えられたのだろうと想像することができました。
一、羊飼いへの知らせ(8-10節)
地上の王子、王女の誕生でさえ大々的に告げ知らされるのに、神の御子イエスの誕生のときには、誰もそれを告げ知らせる人がありませんでした。世界中がこぞって、祝わなければならないのに、祝う人もいなかったのです。そこで神は、天使を遣わし、救い主誕生の「喜びの知らせ」を告げさせたのです。多くの人は、「イエスの誕生のとき、大勢の人が御使いの現れを見、その歌声を聞いた」と思っていますが、じつはそうではありません。御使いが現れたのは大勢の人々がいたエルサレムではなく、もっと小さなベツレヘムの町でした。もっとも、このときだけは、住民登録のために宿屋がいっぱいになるほどの人がいましたが、御使いが現れたのは、ベツレヘムの町の中でもなかったのです。それは町から離れた野原でした。ですから、救い主誕生の知らせを聞いたのは、野原で羊と一緒に野宿していた羊飼いたちだけだったのです。
神の御子の誕生は全世界に告げ知らされなければならない大きなニュースです。なのに、なぜ、御使いはローマの皇帝やインドの王たち、また、中国の漢王朝の皇帝に現れなかったのでしょうか。御使いが名もない羊飼いたちに現れたのはなぜでしょうか。本来、職業に貴賤(貴い、卑しいの区別)は無いのですが、当時、人々は羊飼いを卑しい職業と見ていました。牧草を求めて転々とする羊飼いたちは安息日を守ることも、神殿の儀式に参加することもないので、律法に適わない人たちと見なされていたのです。いうならば、社会の片隅に追いやられていた人たちでした。
ルカの福音書を読み進んでいくと気づくことですが、そこに登場する人々は、ほとんどが、当時、社会的に軽んじられていた人々です。主の母マリアはガリラヤ地方のナザレの町にいましたが、ガリラヤは、ユダヤでは生活できなくなった貧しい人たちが、新天地を求めた開拓地で、ユダヤの人々からは「異邦人のガリラヤ」と軽蔑されていました。バプテスマのヨハネの母エリサベツは高齢になるまで子どもがありませんでした。当時、不妊の女性も肩身の狭い立場にあったのです。その他、貧しいやもめ、取税人、「ツァラート」の人、足の効かない人、目の見えない人、明日の命もわからない物乞いなどといった人々が福音書には数多く登場します。けれども、それらの人々はイエスによって救われています。癒やされています。天に迎えられています。救い主イエス・キリストは、一定の地位や身分のある人、能力や財産を持った人たちだけの救い主ではありません。むしろ、羊飼いたちのように、他の人から低く見られている人々の救い主です。イエス・キリストの恵みからもれる人、イエス・キリストの救いの及ばない人は誰もいないのです。御使いが羊飼いたちに現れたのは、イエス・キリストがすべての人の救い主であることを教えています。
二、羊飼いのためのしるし(11-12節)
御使いは羊飼いに告げました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)御使いが言った「あなたがた」は「全世界のすべての人」を指しています。しかし、羊飼いたちはこの言葉を「私たちのために」と受け止めたことでしょう。「誰か他の人のためではない、この私のために救い主がお生まれになった。」そのように受け止めること、それが信仰です。「この方こそ主キリストです。」この言葉に「イエスさま、あなたは私の主です。あなたは私の救い主です」とお答えしたいと思います。
聖書では神を呼ぶとき、たんに「神さま」ではなく、ほとんどの場合、「わが神」、また「わが主」と呼んでいます。英語では “My Lord,” “My Jesus” といった言葉が使われます。「神さま」、「イエスさま」と言うよりも、「私の神さま」、「私のイエスさま」と言ったほうが、もっと神を、またイエスを身近に感じさせてくれます。神は私たち一人ひとりと、「わたしとあなた」という生きた人格の関係を持ちたい、それを深めたいと願っておられます。私たち一人ひとりに、親しく「あなた」と呼びかけてくだる神に、私たちもまた「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)とお答えしたいと思います。
御使いは続けて言いました。「あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(12節)「しるし」というのは「奇蹟」のことです。聖書の奇蹟は、神の愛や救いの力を目に見える形で表したものです。たとえば、イスラエルがエジプトから救われたとき、海が分かれ、イスラエルの人々は、そこにできた道を通ってエジプトの軍隊から逃れました。また、食べものが何もない荒野にいた四十年の間、毎日「マナ」という食べ物が与えられました。こうしたことは、目を見張るような大きな出来事、不思議なことでした。イエスも、悪霊を追い出し、病気を直し、死んだ人さえ生き返らせました。人々はイエスのなさったことを見て驚きましたが、イエスは、数々の奇蹟を行うことによって、ご自分が、まことの神であり、人を救うお方であることを示されたのです。
ところが、救い主が世においでになったことの「しるし」は、なんと、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」だというのです。自分で自分の身を守ることのできない弱く小さな新生児、しかも、清潔な産着を着せてもらい、心地よいベビーベッドに寝かせられるのではなく、ありあわせの布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられている赤ん坊が、栄光に満ちた神の救いの「しるし」だというのです。なんとちぐはぐなことでしょう。信じ難いことでしょう。
飼葉おけに寝かせられている赤ん坊のイエス、その姿は、そこにマリアやヨセフがいなければ、まるで、家畜小屋に捨てられた子どもに見えたことでしょう。飼葉おけのイエスは、神の御子が、やがて、ご自分の民から捨てられるようになることを示しています。「飼葉おけ」は「十字架」につながっています。イエスが生まれた「ベツレヘム」には「パンの家」という意味があり、それは、イエスが、旧約時代のマナのように、天から下ってきた「パン」で、私たちを生かすために、そのお体を裂き、私たちに与えてくださったことを示唆しています。
「飼葉おけに寝かせられたみどりご。」それは驚くような「しるし」でも、神々しいものでもなく、小さな貧しいもので、とても神の偉大な救いの「しるし」とは見えないものでした。けれども、それはイエスがなそうとしておられる救いがどんなものかを物語っています。そして、この「しるし」は羊飼いたちにとっては絶好のものでした。もし、イエスが宮殿で生まれたとしたら、彼らはそんなところには行けません。しかし、家畜小屋であれば、彼らも入っていけます。羊を飼う彼らにとっては、そこは自分たちの領域でした。実際、彼らはすぐに「飼葉おけに寝かせられたみどりご」を探し当てることができました。神は、羊飼いたちに、彼らの手の届く「しるし」をお与えくださったのです。
同じように、神は、私たちにも、私たちの身近にあるもの、普段の生活の中で起こる出来事、また、すぐそばにいる人や家族や友人、さらに、教会で聞く御言葉や証を通して、私たちを教え、導き、励ましてくださっています。神は、今も、私たちに手の届く「しるし」を通して、ご自身を示してくださっています。その「しるし」を見落とさないようにしましょう。
三、羊飼いの応答(15-16節)
さて、御使いの知らせを聞いた羊飼いたちはどうしたでしょうか。15節にこうあります。「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』」羊飼いたちは、御使いの知らせに行動をもって応答しました。私たちが救われるのに必要なことは、すべて神がしてくださいました。信仰とは、神がなしとげてくださった救いを受けとることです。しかし、信仰は受け身だけのものではありません。聞いた神の言葉に応え、行動を起こすという面もあるのです。
羊飼いたちは、御使いの知らせをただ聞くだけで終わりませんでした。耳で聞いたことを目で確かめるために「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と言っています。しかも、「すぐに」にそのことをしています。御使いは「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と告げましたが、羊飼いたちもまた「きょう」のうちに行動に移しました。夜が開けて、「明日」になってからとは考えませんでした。16節に「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた」とある通り、羊飼いたちは「すぐに」、「急いで」行動しています。
私たちも、羊飼いたちのように、神のもとへと「急いで行く」者でありたいと思います。イエスは言われました。「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:36)これは短く訳せば「来て、見なさい」(〝Come, and see!〟)となります。神の言葉を耳で聞き、頭で理解するだけでは、神の偉大な栄光やその救いを体験することはできません。信仰の一歩を踏み出してイエス・キリストのもとに向かうとき、神は私たちに、神の言葉が実現するのを見せてくださるのです。
また、羊飼いたちは赤ん坊のイエスを「捜し」ました。そして、飼葉おけの中に見つけました。彼らは、そのようにして、最初に救い主に出会い、救い主を礼拝し、救い主を証しする人になったのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:9)これはイエスのお言葉、聖書の約束です。救いを、また、神からの答えを捜し求める者は、必ずそれを見つけます。私たちも、このクリスマスの「きょう」という良い日に、羊飼いたちがしたように、「行って、捜して」、救い主とその恵みを「見つけ出し」、自分のものとして受け取ろうではありませんか。
(祈り)
私たちの父なる神さま。あなたは、御子イエス・キリストを、力ある者や知恵ある者たちにではなく、弱い者、愚かな者たちに示し、喜びの知らせを聞かせてくださいました。そればかりでなく、私たちにも分かる「しるし」を与えて、「来て、見なさい」と招いてくださいました。あなたが聞かせてくださった喜びの知らせに応え、あなたが示してくださっている「しるし」によって確信を得、今度は、私たちが、他の人に「来て、見なさい」と語りかけることができるようにしてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/26/2021