2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。」
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」
一、神の栄光
今朝の聖書箇所の「いと高きところでは、神に栄光があるように」はラテン語で“Gloria in exelsis Deo” です。讃美歌「荒野のはてに」では、ラテン語のまま歌いますので、皆さんもよくご存知でしょう。「荒野のはてに」はクリスマスの賛美の代表的なものですが、“Gloria in exelsis Deo” は、クリスマスだけの賛美ではありません。初代教会は、「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」のあとに、「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝をささげまつる…」という言葉を付け加え、「グロリア」、あるいは「栄光の賛歌」という賛美を作りました。この賛美は、今にいたるまで、多くの教会で、礼拝のたびごとに歌われています。
「いと高きところでは、神に栄光があるように」と神を賛美することができるのは、「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と言われている「平和」によってなのです。きょうは、この「平和」について学びましょう。
イエスの降誕の出来事には、神の栄光の現れがいくつもあり、そのたびに「恐れるな」という言葉が語られています。最初は、天使がザカリヤに現れたときでした。神殿は神の家ですから、そこに天使が現われても不思議ではなく、ザカリヤは祭司でしたから、そのことを受けとめることができたはずでした。しかし、イエスが降誕された時代には、長い間、こうした神の栄光の現れがなかったので、ザカリヤは天使を見て、「おじ惑い、恐怖の念に襲われた」(ルカ1:12)と聖書は言っています。
神の栄光を見て「おじ惑い、恐怖の念に襲われた」ザカリヤの姿は、日常に慣れきって、習慣的に神を礼拝していた当時の人々の姿を表わしていると思われます。神殿の儀式は、規則正しく行われてはいましたが、そこには神の臨在がありませんでした。言葉では神の栄光が讃えられていても、神の栄光の現れは見られなかったのです。祭司は、聖なる装束を身にまとっていましたが、神の聖なることがほんとうに重んじられていたわけではありませんでした。
それは、現代の私たちも同じかもしれません。教会の礼拝は、旧約時代の神殿とその礼拝と同じく、神に出会う場ですが、今日、どれだけの人が、教会の礼拝で、神と出会い、その栄光を仰ぎ見、神の言葉の語りかけを聞くことを期待しているでしょうか。現代は、どこの国でも、人々はイベントやプログラムを楽しむため、あるいは誰かに会うために、また、そこで自分の役割を果たしたり、説教を人生に役立つ「ためになる話」として聞くために来ているというのが現実であると言われています。
神と出会う場所は、神殿や教会とともに、わたしたちの内面の最も奥深いところにもあります。よく「内なる宮」と言われるのがそれです。聖霊は、贖われた者の霊に宿り、そこを神と出会う場所としてくださっています。聖霊は、そこで、私たち自身の力や、この世の力を越えた、超自然の働きをしてくださるのです。皆さんにも、深い黙想の中で、今まで体験したことのなかった勇気や確信、励ましや慰めを受けたことでしょう。
もし、わたしたちが、いっさいの超自然的なこと、霊的なことを認めなかったら、不可能を可能にする神の力を受けることができません。また、自分で決めた通りに自分の人生を生きようとするなら、神がわたしたちの人生を導こうとしておられる導きを得ることができません。自分を変えたいと願うこともなく、日常の事柄に満足しきって、神を求めようとしないなら、その人は、神の栄光を仰ぎ見ることや神の臨在を感じることなく、生涯を終わってしまうことでしょう。それは。なんと、残念なことでしょうか。
ザカリヤは天使を見て恐れ、怯えました。彼の過度の恐れは、決して誉められたことではありませんが、神の栄光さえ、無視しょうとする今日の人々に、神を恐れることの大切さを教えているように思います。
二、神からの平和
次に、天使はマリアに現れました。ザカリヤは天使を見て恐れましたが、マリアはそうではありませんでした。なぜでしょう。当時、女性は男性と同じように神殿に詣でることを許されていませんでした。神殿には「婦人の庭」というのがあって、そこから先には垣根があり、それを越えて入ることができませんでした。物理的にも神殿から遠ざけられていてたのです。しかし、信仰深い女性たちは、みずからの「内なる宮」で神とまじわる生活をしていました。マリアもそのような女性のひとりでした。ルカ1〜2章には、マリアが「思いめぐらした」あるいは「心に留めていた」ということが三度も書かれています(ルカ1:29、2:19、2:51)。
これは、マリアのデボーショナルな生き方を表しています。マリアが天使を恐れなかったのは、ふだんから、日常の中で天のものを見聞きしていたからだろうと思います。しかし、「神が、天使を遣わしてまで自分に告げ知らせようとしておられるのは、いったい、どんなメッセージだろう」と思って、「ひどく胸騒ぎ」をしています(ルカ1:29)。天使は、マリアの「胸騒ぎ」を知って、「恐れるな」と語りかけました。マリアは「恐れるな」という言葉によって、神の御子、救い主の母になるという、とてつもなく大きなメッセージを受け留めることができたのです。
三度目に、天使は羊飼いに現れました。真夜中、星の輝きより強い光が羊飼いたちを突然照らしました。この光は神の栄光の輝きでした。羊飼いたちは恐れました。しかし、ここでも天使は「恐れるな」と呼びかけています(ルカ2:10)。ある人が「聖書には『恐れるな』という言葉が365回出てくる」と言っているのですが、私は、そのうちの100の聖書箇所しか確認できませんでした。でも、100もあれば十分でしょう。いいえ、たったひとことでも、力ある神の言葉を聞くことができれば、わたしたちは恐れから救われるのです。
「恐れ」の反対は「平安」、「平和」です。天使は、ザカリヤにも、マリアにも、羊飼いにも「恐れるな」と言いましたが、それは言い換えれば、「平安があるように」ということです。神の栄光は、罪ある人間には、慕わしいものというよりは、恐ろしいものです。聖書には神の栄光に打たれて命を落としたした人たちのことが書かれています。イザヤは、幻の中で神の栄光を見たとき、「わざわいなるかな。わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫びました。パウロは、まだ「サウロ」と呼ばれていたころ、キリストの栄光に打たれ地に倒れ、目が見えなくなってしまいました(使徒9:3-9)。ヨハネは、「島流し」となってパトモスにいたとき、キリストの栄光の姿を見て、死人のようになりました。ヨハネの黙示録1:17に「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった」と書かれています。
そして、黙示録は続けてこう言います。「すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。…』」イエスご自身が、ヨハネに「恐れるな」と言って手を差し伸ばしてくださったのです。聖なる神の前に出ようとしても、その栄光を仰ぎみようとしても滅びるしかない罪ある者に、神は、「平和」と「平安」を告げ知らせてくださっているのです。
三、キリストによる平和
「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。この言葉には、いくつかの意味があって、ひとつには「戦争のない状態」を意味します。日本語で「平和」という時にはそういった意味があります。また、「シャローム」には「繁栄」という意味もあります。イエスがお生まれになった時代、地中海世界はローマ帝国によって治められ、長い間続いた戦争が終わり、平和な時代となりました。人々はこれを「ローマの平和」(Pax Romana)と呼んで、それを楽しみましたが、ユダヤの人々には、それは、屈辱以外の何者でもありませんでした。ユダヤの人々が願った「平和」は、ユダヤの国が独立して、ソロモンの時代のような繁栄を取り戻すことでした。そして、そのことを「救い主」に期待したのです。
しかし、神が「救い主」を通して与えようとされた「平和」は、そうしたものではありません。それは「内面の平和」でした。日本語では「平安」と訳されます。しかし、聖書が言う「内面の平和」は、日本語でいう「平安」と同じではありません。日本的な意味での「平安」は、「まわりの状況がどんなであっても、それは一時的なものであることを悟って、心を平静に保つこと」です。そこには、自分と環境との関係しかありません。そこでいう「平安」は、自ら悟りを開いてつくり出すものです。
しかし、聖書の「平安」は、神との関係を問題にします。聖なる神と罪ある人間には相いれないものがあります。罪とは、神に戦争をしかけるようなものです。人間に勝ち目があるはずがありませんから、そこには滅びしかありません。しかし、神のほうから和解を申し出てくださって、その和解の条件のすべてを神が満たしてくださったとしたら、どうでしょうか。わたしたちにはただ神に降伏して、従順を誓うだけです。実際神は、ご自分の御子、イエス・キリストの十字架で、和解のための条件をすべて満たしてくださいました。わたしたちの罪を赦し、敵であったわたしたちをご自分の民として受け入れてくださったのです。キリストの十字架の死は、罪の奴隷であったわたしたちを買い戻すもので「贖い」と呼ばれますが、それによってわたしちは神との平和を得ることができるので、「和解」とも呼ばれます。ローマ5:10-11に「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」とある通りです。
ローマ5章は「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)という言葉で始まっています。聖書が教える「平和」、「平安」は、主イエス・キリストがくださるもので、わたしたちを神との正しい関係に置くものです。ですから、この「平和」、「平安」は「主の平安」“Pax Domini” と呼ばれます。ユダヤでは「シャローム」が挨拶の言葉ですが、初代教会もまた、礼拝では互いに “Peace be with you!” と言い合って挨拶を交わしました。信仰と聖霊に満たされていた初代のクリスチャンは、この「主の平安」を日々に体験していましたので、礼拝の中でその「平安」を口にせずにはおれなかったのだろうと思います。この平安は、今も、イエス・キリストを信じ罪赦された者に宿ります。求める者すべてに与えられます。わたしたちは、「主の平安」によって神に近づき、恐れなく神の栄光を賛美し、神に仕えることができるのです。
これが、天使が羊飼いに「恐れるな」と呼びかけ、「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と賛美した、その「平和」です。この「平和」は「み心にかなう人々に」与えられると言われていますが、「み心にかなう人々」とは、どんな人のことでしょうか。それは、特別に立派な人々のことでしょうか。いいえ、むしろ、それは自分の罪を知る人々です。自分で自分を救うことができないことを認め、白旗をあげて神に降伏する人々です。「イエス・キリストによって人を救う。」これ以上に確かな神のみこころはありません。神が、申し出ておられる「和解」を受け入れる人々、それこそが「み心にかなう人」です。このクリスマス、この「平和」、「平安」を受けて、人を救ってくださる神の栄光をほめたたえたいと思います。
(祈り)
栄光に満ちた神さま、あなたは、わたしたちを御子キリストによって、あなたと和解させてくださいました。この和解によって、わたしたちは、はじめてほんとうの平和、平安を持つことができます。このシーズンにこの平和を喜び、祝う、わたしちとしてください。「恐れるな」、「平安あれ」と語ってくださる主イエスの御名で、感謝して祈ります。
12/9/2018