平和〜天使のキャンドル

ルカ2:8-14

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2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 プルーンヤード・ショッピング・モールのビルディングの頂上に、今年も、"PEACE ON EARTH" ということばが飾られるようになりました。「地に平和!」とは、クリスマスの夜、天使たちが

いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、
御心にかなう人々にあるように。
と歌った賛美(ルカ2:14)から取られた言葉です。聖書のことばを人目につくところに掲げるのは「信仰の自由」を侵すから、それを取り下げるようにと騒いでいる人もいるようです。そんなことを言うのなら、「目からウロコ」「良いサマリヤ人」「狭い門から入れ」「ブタに真珠」「一粒の麦」「世の光・地の塩」「落ち穂拾い」「ラクダと針の穴」「ヘビのように賢く」「四十日四十夜」「働かざるものは食うべからず」などの言葉も使うことができなくなってしまいます。これらはみな、聖書から取られたことばだからです。「信仰の自由」が保証されているアメリカでは、クリスチャンが、何の妨げもなく、聖書のことばを伝えることができるはずです。今朝は、アドベントキャンドルの二本目、「天使のキャンドル」に火を灯しました。聖書の教える「平和」をしっかりと握りしめ、人々に "PEACE ON EARTH" と呼びかけることのできる私たちとなりましょう。

 一、不安な時代

 「平和」、それは、誰もが望んでいることなのですが、いつの時代、どこの国でも戦争は絶えません。ある人が「平和とは、今の戦争と次の戦争との間の小休止の時である。」と言いましたが、その通りなのは残念なことです。また、表面的には平和であっても、それが本当の平和でないことも多くあります。たとえば、日本の歴史では、江戸時代は戦争のない平和な時代でした。しかし、それは、キリシタンを撲滅し、農民から取れるだけの年貢をしぼり取ることによって成り立っていた平和でした。徳川御三家にとっては平和であったかもしれませんが、それ以外の大名や民衆にとっては、ほんとうの平和ではなかったのです。イエスの時代のユダヤの国も同じようでした。紀元一世紀の地中海の世界は、長年続いた戦争が止んだ平和な時代でした。ローマが世界にもたらした平和は "Pax Romana"(ローマの平和)と呼ばれましたが、その平和は、他の国々がローマの奴隷となって従っている限りの平和でしかありませんでした。ローマの平和を楽しんだのは、一部のローマ市民だけであって、ユダヤをはじめとして、ローマの強大な軍事力によって屈服させられた国々は、自由と独立とを失い、ローマの平和とはほど遠いところにあったのです。

 いつの時代にも、時代の変換点(Turning Point)というものがありましたが、最近のアメリカでは5年前の「9・11」がターニングポイントでした。今まで、なんの不安もなく飛行機に乗っていたのが、厳重な手荷物検査や身体検査なしでは、飛行機に乗れなくなってしまいました。離陸30分前でも、飛行機に乗れたのに、いまでは2時間前には空港に行っていなければなりません。「ローマの平和」にも似た「アメリカの平和」がニューヨークのツインタワーと共に音を立てて崩れてしまいました。日本でも、隣国の攻撃に備えて、防衛庁を防衛省に格上げすることが計画されているそうです。今の世界には、世界大戦というものはありませんし、東西の冷戦も終わりましたが、それでも世界の国々がお互いに信頼しあうことができず、腹のうちを探りあいながら、ピリピリ、ビクビクしあっています。

 「平和」という言葉は、政治的な意味での「平和」ばかりでなく、内面的なものに対しても使われ、聖書では「平安」と訳されています。この内面の平安というものは不思議なもので、身の回りに何の不安材料もないのに、絶えず不安な人もいれば、病気や、経済的な問題、さまざまな困難の中にいても平安を保っていられる人もいます。平和な時代だから私たちも平安でいられるとは限らず、戦争のただ中だから平安を保つことができないというわけでもないようです。神のくださる平安は、人知を越えたものです。そして、この平安を持っている人だけが、ほんとうの意味での平和を自分の回りにつくり出していくことができるのです。

 私の学生時代は、いわゆる学園紛争の時代でした。大学は落ち着いて勉強できるところではなく、とても荒れていました。私が大学に入って最初に出た授業は「哲学」の授業でしたが、教授は一所懸命「唯物論」を講義していました。教授たちが学生にそうした思想を吹き込んだため、学生たちが過激な思想に走りました。そして、その学生たちによって、今度は教授たちがつるしあげられることになったのです。福音的な神学校は別でしたが、そうでない神学校でも、教授たちが学生たちからつるしあげられることがありました。そうしたところでは、聖書がたんなる宗教の書物としてしか教えられず、学生たちは信仰を失い、すべての権威に、みことばの権威にまで逆らうようになったのです。その結果多くの学生が神学校を辞めて行きました。日本では、私と同世代の牧師の数が少ないのですが、それは、その時代に政治的な思想によって教会や神学校が大きなダメージを受けたためだろうと言われています。

 私の神学校時代、「浅間山荘事件」がありました。1972年のことでした。連合赤軍の五名が武器を持って逃走している時、河合楽器の保養施設「浅間山荘」に入り込み、山荘管理人の夫人を人質にとって立てこもった事件でした。警察の機動隊が出動して人質を救出する様子は、刻一刻とテレビ中継され、日本中の人々がテレビの前に釘付けになりました。平和な世界を、公平な社会を目指して活動していたはずの人々が互いに殺し合い、自滅していったのです。「平和」を叫ぶ人がすべて、本当の平和を求めているわけではないことが、これによって明らかになりました。それは、自分の心にある不安を隠すための活動でしかなかったのです。政府を批判し、社会の堕落を嘆く人が、必ずしも、平和や正義を愛しているとは限りません。むしろ、その人自身の不道徳や矛盾した生活を隠すために、批判の矛先を他に向けている場合が多いのです。批判のためだけの批判は、イエスが「平和をつくる者はさいわいです。」(マタイ5:9)と言われたものと程遠いものです。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3:18)とのことばのとおり、自分の心に、平安を持つ人だけが「平和をつくる」ことができることを覚えておきましょう。今は、これまでのどの時代にもまさって不安な時代です。生活の心配のいらない豊かな国に住んでいても、人々は言いようもない不安を抱えて生きています。そんな私たちに、神は平和と平安を贈り届けてくださいました。「Peace on earth! 地に平和!」ということばは、この平和を受け取りなさいという神からのメッセージなのです。

 二、偽りの平安

 では、神が贈ってくださった平和は、どのようにして受け取れば良いのでしょうか。平安を得るためにどこからはじめれば良いのでしょうか。聖書は「平安」や「平和」について多くのことを教えていますが、今朝は、ひとつのことだけをお話ししたいと思います。それは「偽りの平安から目覚める」ということです。

 イエスはこんな譬を話されました。あるところに金持ちがいました。きっと大地主で、大きな畑を持っていて、大勢の小作農民を働かせていたのでしょう。収穫の時が来て、大豊作だと知ると、彼は言いました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」贅沢な悩みですが、すぐに思いついてこう言いました。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」なんでもないことばに聞こえますが、原文では、「作物」、「倉」、「財産」という言葉すべてに、「私の作物」「私の倉」「私の財産」と、「私」という言葉がついていて、そのことが強調されています。農業に限らず、どんな事業でも、神の恵みによって成り立っているのですが、とりわけ、気象に左右されやすい農業は、神の恵み無しには成り立ちません。ですから、豊作の時は、神に向かって「あなたの恵みを感謝します。」と言うべきなのに、この金持ちは、聖書の原文どおりに訳せば、「自分に向かって」しか口を開いていないのです。神には一言の感謝もありません。そして彼は言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」この金持ちは「私のたましいに言おう。」と言っています。人のいのちは神から与えられたものなのに、この金持ちは、いのちさえも「私の」ものと考えたのです。農作物ばかりか、自分のいのちまでも自分がつくり出し、自分の意志でどうにでもなると考えたのです。この金持ちのことばを聞いた神は、こう言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:16-20)

 皆さん、この譬に「偽りの平安」を見ることができますね。この金持は、たくさんの財産をためることができたので、「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言いました。しかし、彼の命はその夜取り去られました。私たちも、この金持ちと同じように「いざという時のためにこの不動産があるから大丈夫、これだけの貯金があるから安心だ。」と考えるかもしれません。財産を持つこと自体が悪いわけでも、貯金をすることが間違っているわけでもありません。しかし、神に頼らず、財産にだけ頼っても、財産は私たちに、命の保証も、生きる喜びも、本当の平安を与えることはできません。主イエスが「人のいのちは財産によるのではない」(ルカ12:15)と言っておられる通りです。財産は「安心」与えることはできても「平安」は与えることはできません。「安心」と「平安」とは違います。ほんとうの平安は神から来るもので変わらないものですが、この世が与える「安心」は一時的なものであり、ちょっとしたことで簡単に消えてしまいます。

 ここ数年、日本では「いやし」という言葉が流行っています。悲しむ人を慰め、苦しむ人の痛みをやわらげ、傷ついた人を暖めることは良いことです。しかし、悲しみが与える力や苦しみがもたらす恵みを教えないで、表面的でインスタントな解決策しか与えないとしたら、かえって危険です。それは、ほんとうのいやしを与えないばかりか、ほんとうのいやしから目をそらせてしまうからです。預言者エレミヤは、旧約の時代に「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6:14)と言って嘆きましたが、もし、エレミヤが現代の風潮を見たなら、やはり、同じように嘆いたかもしれません。聖書は言っています。「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」(テサロニケ第一5:3)本当の平安を得るために、偽りの平安から目覚めていなければなりません。

 三、本当の平安

 病気になれば、熱が出たり、おなかが痛くなったりします。私たちは、痛みという危険信号によって、病気があることを知り、それに対処することができるのです。もし、からだが痛みを感じなかったら、病気がどんどん悪くなって、とんでもないことになってしまいます。痛みもまた、神が私たちに与えてくださった恵みなのです。同じように、私たちが心に痛みを感じたり、不安を感じたり、悲しんだりするのも、神の恵みです。罪を犯してもそれに痛みを感じない、罪の結果を思って不安にならない、神の栄光を損なってもそれを悲しまないとしたら、私たちは、どんどん罪の深みにはまってしまいます。"NO FEAR" というスティッカーを車に貼って乱暴な運転をする人がいます。「恐い者知らず」というわけで、そのことを自慢しているのでしょうが、「恐い者知らず」ほど「恐いもの」はありません。クリスチャンたちは "NO FEAR" というスティッカーに対して "FEAR GOD" といういうスティッカーを作って対抗していますが、私たちは、真実な神へのおそれから来る、痛みや苦しみを大切にしたいと思います。苦しむべき時に苦しみ、悲しむべきことに涙を流し、不安になることを恐れないで、そこから本当の平安を求めましょう。

 今日、バプテスマを受けた兄弟は、そのあかしにもあったように、仕事上のある出来事で心の平安を無くしました。それで、本当の平安を得たい、自分の人生を導くものが欲しいと願って、イエス・キリストを信じるようになったのです。もし、彼が、その不安を別のことで紛らわしてしまっていたら、ほんとうの平安を持つことはできなかったでしょうし、今日、ここで、その平安をあかしすることができなかったでしょう。

 主イエスは、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と言われました。イエスが与えてくださる平安は、単なる「気休め」でも、「安心」でも、「手軽ないやし」でもありませんでした。主イエスは、私たちに、本物の平安を与えるために、そのご生涯を涙と嘆きの祈りをもって過ごし、十字架の痛みと苦しみを最後の最後まで甘んじてお受けになったのです。

しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
とあるように(イザヤ53:5)、キリストの十字架の苦しみが私たちに本物の「平安」をもたらし、彼の「打ち傷」が私たちを「いやす」のです。初代のクリスチャンたちが、あの迫害の嵐をくぐり抜けることができたのは、この平安を持っていたからでした。キリストの十字架を信じ、その足跡に従う私たちも、手軽ないやしでも偽りの平安でもなく、本物のいやしを、本物の平安を主イエスからいただこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、天使たちは「地に平和!」と歌いましたが、あのクリスマスの夜、あなたは、実際にこの地に平和を与えてくださいました。私たちの平和である御子を、この地上に遣わしてくださったのです。私たちは、御子イエス・キリストによって、神との平和を得、心に消えない平安を与えられました。私たちをこの平安に導いてください。偽りの平安から目覚めて、キリストにある本当の平安に憩うことができますように。また、私たちが、人々のために平安を祈り、平和をつくり出していくことができる者としてください。平和の君であるキリストのお名前で祈ります。

12/10/2006