キリストの来られた目的

ルカ2:34-35

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2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

 イエスがお生まれになってから四十日して、ヨセフと母マリヤは赤ちゃんのイエスを連れて神殿にやって来ました。そのとき、突然、見知らぬ男性が近づいてきて、赤ちゃんのイエスを母マリヤから受け取って自分の腕の中に抱き、神を賛美し始めました。そのうち、この人、シメオンばかりでなく、アンナという女預言者も加わって、幼子についていろいろと語り出したのです。これにはヨセフも母マリヤも驚いたに違いありません。イエスの宮詣で(英語では Presentation of Jesus)の時に起こった出来事とそこで語られたことの中に、イエスがなぜ、何のためにこの世においでになったかを学ぶことができます。

 一、神のみこころを行うために

 イエスがこの世においでになったのは、第一に、父なる神のみこころを行うためでした。このことをイエスの割礼の時にさかのぼって学んでみましょう。

 ルカ2:21にイエスが生後八日目に割礼を受けたことが書かれています。中東では古代から男の子が生まれたとき割礼を施す慣わしがありました。神は、これを神と神の民との契約のしるしとされ、イスラエルの男子はすべて割礼を受けました。割礼の日は同時に名前をつける日でしたので、ヨセフと母マリヤは天使が告げたとおり幼子をイエスと名づけました。ヨセフと母マリヤは律法の定め通りのことを行い、また、天使によって告げられたことばに従いました。

 その後、ヨセフと母マリヤは幼子をささげるため宮詣でをしましたが、これも律法を守り、神のことばに従うためでした。はじめての出産の後、まだ四十日しか経っていないときにエルサレムの神殿まで行くのはたやすいことではなかったでしょう。現代の人なら、なんて不合理なことをと不満を持ったり、おっくうになったりするでしょう。しかし、母マリヤは忠実に神の定めに従っています。

 神を信じる者、神を愛する者は、みな神のことばを喜び、神が命じられた定めを守り行います。神が命じられたことの中には、それを定められた神の意図がわからないときには、なぜこんなことをしなければならないのか疑問に思ったり、そんなことはしたくないと反発したくなるようなことが無いわけではありません。しかし、たとえ、今はその理由が分からなくても、神のことばに従い、それを守っていく、それが信仰の姿勢です。母マリヤは、「あなたは男の子を産む」というお告げを聞いたとき、「なぜ? どうして?」と思い、また、その疑問を口にしました。しかし、最後には「おことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言って、神のことばに従いました。

 しばしば「人は律法によっては救われないのだから、律法を守らなくても良い。」と言われることがありますが、そうでしょうか。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)と言って、人々に律法を守るよう求められました。しかも、律法を表面的に守るというのでなく、本質的に守ることを要求されました。たとえば、「人を殺してはならない」という律法について、実際に殺人をしなくても、人をことばや態度で抹殺してしまうことも殺人と同じだと、イエスは言われました。昨年10月、岡山で14歳の女の子が貨物列車に飛び込んで自殺しました。彼女のブログに〈あなたがきたら皆が頑張って練習している40人41脚が台無しね〉〈うざいから早く消えればいいのに〉〈あいつまじ死ね〉などという書き込みがあったのが原因でした。「ネットいじめ」と呼ばれるものです。からだの弱かったこの子はクラスのみんなから「キモイ」と言われ、仲間はずれにされており、誰も彼女をかばうクラスメートもいなかったのです。ことばや態度が人を殺してしまうということが、現代、こんな形で実現しているのは悲しいことですが、犯罪さえ犯さなければ何をしても大丈夫などといったことがいかに間違ったことかが良く分かります。もし、神の律法がイエスが教えられた通りに今に至るまで守られていたら、今日の社会はもっと素晴らしいものになっていたでしょう。

 イエスは律法は要らないもの、守らなくても良いものとは教えられませんでした。イエスご自身が律法を守られました。イエスは律法の与え主であるのに、父なる神の定めに進んで服従し、律法を守り通されたのです。イエスの宮詣での記事の最後に「さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。」(ルカ2:39)と書かれています。この「彼ら」の中にはイエスも含まれています。神のことばに従う敬虔なヨセフと母マリヤを通して、イエスは赤ん坊のときから律法を守ってこられたのです。

 二、律法を守り通すために

 第二に、イエスは人として律法を守り通すために世に来てくださいました。

 イエスは天使が告げたように、もとから「聖なる者、神の子」(ルカ1:35)で罪のないお方ですが、そのことを神の定めを守り、それを実行するという具体的な行いで示されました。「罪がない」というのは、たんに悪いことをしないということではありません。正しく、きよいというのは、罪を犯さないように、悪をしないようにと縮こまっていることでもありません。むしろ、自ら進んで神に従い、神を喜び、善を行うことです。イザヤ9:6-7には「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6-7)という救い主についての預言があります。ここに「さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる」また「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあるように、救い主は、どこか高く遠いところにいて自分の聖さを守っておられるのでなく、神の主権がないがしろにされ、正義が失われ、不安な世界にやってきて、そこに神の国とその義を打ち立て、世界に平和と平安をもたらしてくださのです。イザヤ42:1-4にも「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」という預言があります。ここにもまた、様々な困難に立ち向かいながら、黙々と神のみこころに従い、神のみこころを実現していく救い主の姿が描かれています。

 私たちは誰も、罪の世界に住み、自分のうちにも罪の性質を持っていますので、神の律法に従って正しいことを実行し、聖くあろうとするとき、自分の中にそれに逆らう力を感じます。イエスは罪のない正しいお方ですから、イエスご自身から悪い思いが出てくることはありませんでした。ではイエスには何の誘惑もなく、神に従うのに何の闘いもなかったかというと、そうではありません。サタンは荒野で「あなたが神の子なら…」と言ってイエスを誘惑しました。イエスは神の子だからこそ誘惑を受けたのです。イエスは私たちの知らない、神の子であるゆえの特別な誘惑を体験されました。

 その上、イエスは、私たちが味わうすべての信仰の苦闘をも体験されました。ヨブ5:7に口語訳で「人が生まれて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい」とあるように、人生は様々な悩みや苦しみがあります。信仰を持つ者も、持たないものも、苦しみ・悩みの火の粉は同じようにふりかかってきます。信仰によって生きようとするともっと人生の闘いが激しくなるものです。イエスは人となって人が味わう出会うあらゆる試練を体験されました。イエスは神としての力によって試練をたやすくかわしていかれたのではありません。信仰の対象である神であるお方が、完全に人となり、神を信じ、神に頼るひとりの信仰者となって信仰のストラグルを体験し、なおそれに打ち勝って、神に従われたのです。ヘブル5:7-10に「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」とあるとおりです。このことは、人生の闘いや信仰のストラグルを体験している人々には大きな励ましです。イエスは、神のみこころに従って生きたいと願いながら、そうすることが出来ずにいる私に代わって、神のみこころを完全に全うしてくださったのです。

 三、律法を成就されたイエス

 第三にイエスは自らをささげるために人となり、世においでになりました。

 イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)と言われましたが、「律法や預言者を成就する」というのは、律法を完全に守るということばかりでなく、律法が指し示している罪のゆるしを与えるということをも意味しています。律法は罪を責め、裁くためだけに与えられたものではありません。律法そのものが罪のゆるしをもたらすことはできませんが、律法は犯した罪がゆるされ、罪人が神に立ち返ることができる道を指し示しています。それは、罪のゆるしのための犠牲とその血です。イエスは、みずからを犠牲としてささげ、罪のゆるしのために血を流すことによって律法を成就されたのです。イエスが罪のための犠牲となられたのは、あの十字架によってでしたが、イエスは生まれたときからすでにその十字架のしるしや予告を持っておられました。

 その第一は割礼のときに流された血です。割礼は小さな外科手術で生まれて八日目の赤ちゃんにはそんなに痛みはないのだそうですが、それでも、そこで血が流されます。イエスの最初に流された血は、イエスが後に流される十字架の血を予告しています。

 第二に、イエスは神殿に来られました。ルカは生後四十日目の宮もうでの記事のすぐあとに十二歳の時にイエスが再び神殿を訪問されたことを書いています。そして、ルカの福音書の大部分は、イエスが最後にエルサレムの神殿に向かわれる旅を描いています。イエスが神殿に来られる。それは意味深いことで、旧約の預言の成就なのです。ミカ1:2に「すべての国々の民よ。聞け。地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となる。」とあり、マラキ3:1に「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」とあります。イエスは宮詣でという形でご自分の家を訪れ、そこでご自分が神の家の主であることを、シメオンやアンナの口を通して宣言されたのです。

 第三に、ここにはイエスの受ける苦難の予告のことばがあります。シメオンは母マリヤに「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」と告げました。なんと不吉な預言でしょう。わが子についてこんな不吉なことばを聞きたいと思う母親がどこにいるでしょうか。母マリヤは神のことばを深く思いみる人でしたから(ルカ1:29、2:19、2:51)、シメオンが言った「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」とのことばそのものが母マリヤの胸を突き刺したに違いありません。この後、イエスはヘロデが送った兵士たちの剣によって殺されようとしています。この預言はこのあとすぐに成就しているのです。イエスはご自分の国に来られたのに、ご自分の民には受け入れられず、多くの反対を受け、ついに十字架へと追いやられました。イエスはその十字架で、ローマ兵の槍をその脇腹から心臓へとお受けになり、この預言は完全な形で成就しました。

 イエスには生まれたときから、苦難の道が定められていました。イエスは苦しむため、死ぬためにお生まれになったと言って良いでしょう。しかし、イエスはその定められた道を歩まれました。それは、その苦しみによって、信じる者を救い、従う者を死も涙もない天の国に導くためでした。イエスは旧約の律法と預言が示していたとおりに世においでになり、イエスは律法の要求をすべて満たし、それを成就されました。神の律法を守ることができない罪深さを持った者、神の律法を無視したり、それに逆らうような邪悪な心を持った者であっても、罪ゆるされて、永遠のいのちの報いを受け取ることができるようにしてくださったのです。このイエスを信じ、このイエスに結ばれるとき、私たちも神に従うことが喜びとなり、そうして神のみこころに従い、神の律法を満たすことができるようになるのです。

 キリストは律法を守ることができなかった私やあなたに代わって律法を満たすためにこの世に来てくださいました。律法が指し示していた罪のゆるしをもたらすため、十字架でご自分を犠牲として捧げられました。そして死者の中からよみがえり、私たちに罪のゆるしと永遠の命という救いのギフトを分け与えてくださいました。これこそ最高のクリスマス・ギフトです。母の腕に抱かれた幼な子にすでに神の救いの光が示されているのが見えます。このクリスマスに、ここに集う者たちが、ひとり残らずイエス・キリストをその心と生活、人生に迎え入れ、救いのギフトを受け取り、それを感謝するよう祈ってやみません。

 (祈り)

 父なる神さま、その生涯を通してあなたのみこころに従い、みこころを成就された主イエスのお姿を見ることができました。イエスがあなたのみこころに従い、十字架の死にまで従順に従われたことに、私たちの救いがあることをあらためて覚えることができました。イエスの救いによって、私たちもまた、あなたのみこころに従う者へと変えられていきますように。主イエスのお名前で祈ります。

12/19/2010