2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
12月25日が過ぎ、もうクリスマス・シーズンが終わったように思っている人が大勢いますが、じつは、クリスマスは1月5日まで続きます。1月1日は、神の御子に「イエス」の名が与えられた日です。元日には、新年を祝うとともに、私たちに「イエス」(「神、救いたもう」の意)という救いの御名が与えられていることを大いに喜び、感謝したいと思います。
救い主のご降誕に関連して次にお祝いするのは、クリスマスから40日目の2月2日で、「主の奉献日」(Presentation of Jesus)と呼ばれます。きょうは、その日に起こったことをふり返ってみましょう。
一、シメオンの喜び
律法では、男の子が生まれた場合、生後40日になったら、神殿に連れていき、その子を神に献げることが定められていました。ヨセフとマリアも赤ちゃんのイエスを連れて神殿に行きました。すると、いつも神殿にいて祈りをささげていた預言者シメオンが赤ん坊のイエスを抱いて、こう言ったのです(ルカ2:29-32)。
主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。
シメオンは、神が救い主を送ってくださることを生涯をかけて待ち望んでいました。高齢になっていて、自分の生きている間に、救い主に会えるのだろうかという心配がありましたが、その時はまだ赤ん坊でしたが、救い主をその目で見、その腕に抱くことができたのです。感動のあまり、「もう、これでいつ世を去ってもいい」と言ったのが、この言葉です。
シメオンが腕に抱いたこの幼な子がもたらす救いは、イスラエルのためだけのものではありません。20節に「あなたが万民の前に備えられた救いを」と言われている通り、イエス・キリストの救いは、異邦人と呼ばれている人たちにも与えられる救いです。そして、救われた異邦人はもはや異邦人ではなく、「神の民」となるのです。イエス・キリストを信じる者は、すべて「神のイスラエル」であり、まだこの救いを知らない人々に、救いを知らせる「光」となるのです。21節で「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を」と言われているのはイエスとともに今日のクリスチャンにあてはまる言葉です。
私たちは、今年、ピリピ2:15-16を年間聖句に選び、「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝く」ことを目指してきました。世の光として輝く。それは決して人々の注目をあびることではありません。「一隅を照らす」という言葉がありますが、自分の置かれた場所で、自分でしかできない役割を果たすことなのです。神に信頼し、人々に仕える生き方、それがイエス・キリストの救いの光を人々に届けることになるのです。クリスマスのライトニングはやがて消えます。しかし、「世の光」であるイエス・キリストの栄光は消えることはありません。そして、イエスによって「世の光」とされた私たちも、輝き続けるのです。
二、救い主の苦難
シメオンは、幼な子について様々な預言をしました。その多くはこの幼な子が偉大な神の御業をなすということだったでしょうけれど、同時に、シメオンは、このようにも言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)「シメオンは…母マリアに言った」とありますので、この言葉は、シメオンが赤ん坊のイエスを母の腕に返すとき、周囲の人には聞こえないように、そっと、マリアにだけささやいたのかもしれません。「この子は、…人々の反対にあう…。マリアの心を…剣が刺し貫くことになる…」とは、子どもの誕生を喜び、その子に神の祝福を願う神殿での奉献の儀式にふさわしくない言葉です。これらの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
それは、イエスが「万民の救い」となるために、通らなければならない「十字架の道」を示しています。どの国でも王子の誕生のときには、大々的にそれが発表され、国中の人がそれを祝うのですが、王の王であるお方がお生まれになったのに、それを知らせる人、祝う人は誰もいませんでした。それで、人々の代わりに天使が御子の誕生を告げ、天の軍勢がそれを祝いました。あらゆるものの主であるお方が家畜小屋でお生まれになるなど、とんでもないことですが、そのことにもイエスの苦難が暗示されています。飼葉おけに寝かせられたイエスに十字架の影が落ちている画像がありましたが、これは、イエスが、ご自分のいのちを与えるためにお生まれになったことを示そうとしたものなのでしょう。
また、幼児のイエスがヨセフの仕事部屋で釘を手にして遊んでいる絵があります。よく見ると、窓を通して差し込む光がイエスにあたり、その影が十字架の形になっています。描かれた3本の大きな釘は、イエスが十字架に架けられるときにその両手と両足に打ち込まれた3本の釘を示し、机でハンマーをふるうヨセフの姿は、その釘をイエスに打ち込んだローマ兵の姿に重なります。
主の奉献日から月日が経ったころ、東方の賢者たちが、イエスを礼拝するためにやってきました。「万民の救い」であるイエスが、異邦人の礼拝を受けた日で、1月6日がそれを記念する「エピファニー」です。東方の賢者たちが帰ったあと、ヘロデがイエスを殺すためベツレヘムに兵隊を送りましたが、御使いからそのことを知らされたヨセフは、マリアとイエスを連れてエジプトに行き、難を逃れました。これは、イエスが命を狙われた最初の出来事でした。イエスは、このように、幼いころから十字架の苦しみを担い、苦難の道を歩まれたのです。
クリスマスもエピファニーも、喜ばしい祭日です。神の恵みを想い、栄光をたたえる日です。しかし、そうした喜びの陰に悲しい出来事があり、救い主の栄光とともに苦難が隠されていたのです。それは、イエスが人の世の闇、人間の罪を引き受け、私たちに代わって苦しみ、その苦しみによって私たちを救おうとされたからです。
無神論を信奉する人たちは神を否定し、「犯罪は病気だ」と言って、人間のたましいの奥深くにある罪の問題を無視します。人が犯罪を犯すのは、貧しく、生活が保証されてないからで、社会制度を変え、モノを与えればすべてが解決すると言ってきました。その理論に基づいた国家も造られました。しかし、それによっては、何も解決しませんでした。それは、表面をつくろい、一時的な痛み止めを与えるものにすぎなかったのです。犯罪が増え続けたら、法律を変えて犯罪を犯罪とみなさないようにし、ドラッグを使う人たちが増えたら、それを合法にし、さらには、ドラッグの危険な使い方を避けるためにと、政府がドラッグを配布するまでになりました。彼らは「宗教はアヘンだ」と言いますが、「アヘン」を与えているのは、彼らのほうなのです。聖書も、罪を「病い」にたとえていますが、本当の癒やしは痛み止めを与えることにではなく、痛みを生み出している病巣を取り除くことにあるのです。どんな手術、治療、リハビリも痛みや苦痛を伴いますが、それを避けては、本当の癒やしにはつながりません。救い主の誕生の出来事の中にあるイエスの苦難は、イエスこそが、人間の罪を、ご自分が苦しまれることによって、根本から解決されるお方であることを教えているのです。
三、マリアの悲しみ
カリフォルニアにいたころ、私は、毎年2月に行われる「牧師リトリート」に参加していました。40名ほどの牧師が集まって数日間、カトリックのリトリートセンターで過ごします。そうしたリトリートセンターの多くは、以前修道院や神学校だったところで、街から離れ、自然に囲まれた静かなところにあって、祈りに集中するにはとても良い場所です。そうしたリトリートセンターの一つに、「マリアの悲しみの園」という祈りの場所があります。そこには、母マリアが「シメオンの預言を聞いたこと」からはじまって、「エジプトに逃れたこと」、「12歳のイエスを見失ったこと」、「十字架を背負われたイエスに出会ったこと」、「イエスの十字架の死を見たこと」、「イエスの遺体を引き取ったこと」、「イエスを葬ったこと」の7つの出来事がタイルの壁画に描かれていました。人々はそこを歩きながら、マリアの悲しみを黙想します。私も一人でそこで祈りながら、マリアの悲しみの意味を考えてみました。
そこで気づいたことの一つは、イエスを愛する者は、イエスと苦しみをともにすることを厭わないということでした。子どもを愛さない親はありません。とくに母親は、子どものことで苦労し、自分が持ちこたえられなくなっても、なんとかして子どもを助けようとします。マリアとイエスは「母と子」の愛で結びついていました。愛の結びつきは、苦しみによって断ち切られることはありません。むしろ、苦しみをともにすることによって、いっそう強められるのです。
もう一つ気づいたことは、マリアがイエスと「母と子」の関係だけでなく、「主と弟子」の関係にあったことでした。カナの婚礼でぶどう酒が尽きたとき、マリアはイエスが最初の奇跡をなさることを予感し、イエスに「ぶどう酒がありません」と告げ、手伝いの人たちにも「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言いました(ヨハネ2:3, 5)。手伝いの人たちが水がめから水を汲むと、なんとそれは最上のぶどう酒に変わっていました。この奇跡によって、弟子たちはイエスを主であると信じたのですが(同2:11)、弟子たち以前にイエスを主と信じていたのはマリアでした。マリアは、イエスの最初の弟子であったと言ってよいでしょう。イエスとマリアは「主と弟子」として、信仰によって結ばれていました。その信仰によってマリアは「7つの悲しみ」を受け止め、それを乗り越え、イエスの復活の喜びへと導かれていったのです。
イエスは弟子たちに言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。……あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:20, 22)イエスを信じ、愛する者も、世にあっては涙を流し、嘆き悲しみます。実際的にも精神的にも様々な痛みを体験します。しかし、それら一つひとつには意味があり、無駄なものはありません。それによって、信じる者はさらにイエスと結びあわされるのです。そして、悲しみは、喜びに変わります。悲しみが深い分だけ喜びは大きなものになります。涙は拭われるのです。
クリスマスの喜びが本物の喜びとなるために、イエスは、私たちにご自分と苦しみをともにすることを願っておられます。イエスの受けた苦しみは、私たちの罪を贖うための苦しみで、それは、イエスの他、誰も代わることのできないものです。私たちが、いくら自分の罪のために苦しんだからといって、その償いのために自分を苦しめたからといって、それが私たちを救うのではありません。ただイエスの苦しみだけが、私たちの罪を贖うことができます。しかし、イエスの苦しみが他者のための苦しみであったように、私たちも、誰か他の人のために、進んで苦しみを引き受けるなら、いや、「苦しむ」といったことまでいかなくても、少しつらい思いをしたり、何らかの犠牲をはらったり、苦しむ人の苦しみに共感し、同情し、その人のために祈るなら、神は、そうしたことを覚えてくださり、大きな喜びで報いてくださいます。愛のゆえに苦しみを受け入れること、信仰によって苦しみを乗り越えていくこと、そのようなことをマリアから学び、彼女に倣いたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、イエス・キリストが私たちの罪を背負い、私たちのための苦しみの道を、その誕生のときから歩まれたことに感動と感謝を覚えます。イエスのご生涯を十字架の光で見つめ、イエスの苦しみの意味を理解する信仰を、私たちに与えてください。それによって、悲しみは束の間で、やがて、もっと大きな喜びが来ることを信じる者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/29/2024