2:25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。
2:26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。
2:27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、
2:28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
2:29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます、
2:30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
2:31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
2:33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。
2:34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――
2:35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。
アドベントの二本目のキャンドルは「天使のキャンドル」と呼ばれ、それは「平和」を表わします。イエスがお生まれになった夜、天の軍勢が「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と賛美したことから来ています。
「いと高きところでは、神に栄光があるように」はラテン語で「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」(Glória in excélsis Deo)と言います。「グロリア」は「栄光」、「イン」は英語の "in" と同じです。「エクセルシス」は「いと高きところ」で、「デオ」は「神に」という意味です。多くのクリスマスの賛美歌には、この言葉が含まれていますし、中には「荒野のはてに」など、そのままラテン語で歌う賛美歌もあります。
「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」(いと高きところでは、神に栄光があるように)というラテン語は良く知られていますが、それに続く「エト・イン・テラ・パックス・ホムニブス・ボネ・ヴォランタティス」(et in terra pax homínibus bonae voluntátis)というラテン語はあまり知られていませんので、説明しておきます。「エト」は英語の "and" で、「テラ」は「地」、「パックス」は「平和」、「ホムニブス」は「人々に」、「ボネ・ヴォランタティス」は "Goodwill"(善意の)という意味になります。
聖書には「天の軍勢」がこの賛美をささげたとあります。「天の軍勢」というわけですから、それは幾千万の天使の大合唱だったことでしょう。日本では毎年12月第一日曜日に「一万人の第九」という催しがあり、ベートヴェンの第九交響曲が演奏され、「歓喜の歌」の合唱がありますが、その大合唱も、天使たちの大々合唱にくらべればちっぽけなものに見えるでしょう。
一、神に栄光
「いと高きところでは、神に栄光があるように」という賛美は、救い主のお生まれにふさわしい賛美です。神は、もとから栄光に満ちたお方ですが、救い主を通して、さらに大きく、豊かな栄光をお受けになるからです。
人間は神の栄光をたたえ、それを表わし、その栄光に与かるために造られました。しかし、人は神に背を向け、神をたたえるどころか、自らを神にまつりあげ、神にとってかわって世界を支配しようとしました。それは、大規模な形では世界征服を狙う独裁者に見ることができますが、同じことは、私たちの身近に、いや私たち自身の中にもあるのです。自分が中心でなければ気が済まないこと、思いどおりにならないとわめき散らすこと、何事にも首をつっこんで人をコントロールしたがること、他の人が誉められるとそれを妬むことなどに、神のみこころを悲しませる罪があります。こうした罪は、それが見えるか見えないか、大きいか小さいかに関わりなく、世界に戦争と不安を、社会に不正と不公平を、家庭に亀裂と破壊を、個人に虚しさと不安をもたらしてきました。神が、そのような世界を裁き、人類を滅ぼしてしまわれたとしても、神の栄光は少しも損なわれることはありません。神は罪を取り除くことにおいて大きな栄光をお受けになるでしょう。
しかし、神は罪とともに人間が取り除かれることを望まれませんでした。神は人を愛して、罪の中から人を救い出す道を選ばれたのです。そして、そのために、ご自分のひとり子を救い主として、この世に遣わしてくださいました。救い主は人の罪を背負い、人類の身代わりとなって、ご自分の身に神のさばきを引き受けてくださいました。救い主はご自分がさばきを受けることによって人の罪を赦し、ご自分が命を捨てることによって、信じる者に永遠の命を分け与えてくださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神は、救い主イエス・キリストによって、この世に愛を届けてくださいました。これはこの世のどこにもない愛です。人はこの愛によって救われます。そして、救われた者は、この愛のゆえに神の栄光をもっと豊かにほめたたえるのです。エペソ1:6に「これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」とある通りです。
すべての人は、神に造られた者として神の栄光をたたえることができます。ですから、教会の礼拝はすべての人に開かれています。しかし、イエス・キリストが私の罪のために命を投げ出してくださったことを知り、信じる者は、造られた者としてだけでなく、イエス・キリストの十字架の血で、罪から買い戻された者、つまり、贖われた者として、より豊かに神をほめたたえることができるようになるのです。教会の礼拝に集い、一緒に神への賛美を歌っておられる方々が一人残らず、イエス・キリストをご自分の救い主、また主として、その心に、生活に、人生に迎え入れ、キリストによって示された神の愛のゆえに、より大きく、豊かに神の栄光をほめたたえることができますよう願い、このクリスマスがその時となるよう祈っています。
二、地に平和
「神に栄光あれ」と歌った天使は、続いて「地に平和あれ」と歌いました。「栄光」が救い主によって明らかにされた栄光であるように、この「平和」もまた、救い主によって与えられる平和をさしています。
イエスがお生まれになった時代はローマ帝国が世界を支配していた時代です。ローマは様々な国々を征服・吸収し、地中海世界に大きな帝国を築きあげ、その地域は長い間平穏を保ちました。それは「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と呼ばれ、ローマ皇帝は自らを人々に平和をもたらす「救い主」と呼びました。しかし、「ローマの平和」はローマが他の国々を力づくでねじ伏せた上に成り立っていた平和にすぎず、属国や植民地では人々は大きな苦しみを味わっていました。歴史を通して、多くの人が、自分こそ「救い主」だと言って、世界をわが物にしょうとしましたが、そうした支配は恐怖と圧迫によるもので、決して人々に本物の平和を与えませんでした。ただおひとり、まことの救い主、平和の君であるイエス・キリストだけが、私たちに本物の平和、平安を与えてくださるのです。
キリストによって与えられる平和は、まず、人の心に「平安」となって宿ります。イエスは弟子たちに約束されました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27)弟子たちは、イエスに従い、イエスを宣べ伝えたために、大きな苦しみに遭いましたが、その中でも、心の平安を失くしませんでした。使徒パウロは「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:6-7)と教えました。それは、環境に左右されない心の平安です。神を信じて祈ることによって得られる確かなものです。私たちの人生には、思い患わずにはいられないこと、不安を覚えずにはおれないことが必ず起こります。そんな中でも、神の平安が私たちの心と思いをキリストによって守ってくれるというのです。信じて祈る者には、こんな素晴らしい約束があるのです。ですから、私たちはどんなに思い患うことがあっても、祈りを忘れないのです。
サーモメーターとサーモスタットとは名前は似ていても働きは違います。サーモメーター(温度計)は気温が上がれば上がり、気温が下がれば下がります。部屋の気温を表示するだけです。しかし、サーモスタット(温度調節器)は気温が上がれば冷房を動かして部屋の気温を下げ、気温が下がれば暖房を動かして部屋の気温を上げます。サーモメーター型の人は、大変なことがあるからといって心配し、嫌な目にあったからといって怒り、ものごとがうまくいかなかったからとって落胆します。けっきょくは回りの状況に左右されているだけです。しかし、サーモスタット型の人は違います。火のような苦しみが襲いかかってきても、静かにそれを耐え、人々を励ましていきます。まわりが冷たい雰囲気になっても、そこを温めていきます。まわりのものに左右されない、神が与えてくださる平和、キリストが与えると約束された平安を持っているからです。私たちも信仰と祈りによってこの平安を持ち続けたいと思います。
三、栄光と平和
神の平和は、また、人生に意味と目的を与える平和です。ルカの福音書には、天使が歌った「平和の歌」のほかに、シメオンが歌ったもうひとつの「平和の歌」があります。母マリヤとヨセフが生後40日目に赤ちゃんのイエスを神に捧げるために神殿にやってきたときのことです。長い間救い主の到来を待ち望んでいたシメオンという人は、その赤ちゃんこそ救い主だということを示され、赤ちゃんのイエスを腕に抱いて、こう言いました。
主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに生涯をかけて救い主の到来を待ち望んできたシメオンは、ついに救い主に出会い、そのお方を自分の腕の中に抱きしめることができたのです。シメオンは、人生の目的を達成したことに満足し、「主よ、今こそ、あなたはあなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます」と歌いました。神が与える平和、平安は、このように人生に意味を与え、目的を与えるのです。皆さんの心の中には、そのような平和、平安が宿っているでしょうか。世を去るときに、人生の目的を達成した満足を味わうことができるでしょうか。
この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。
神を信じ、キリストに従うことは、自分の幸いは何一つ求めず、ひたすらに神の栄光だけを追求するということではありません。神は、私たちが自らを注ぎ出し、自らを捧げることによって栄光をお受けになられるだけでなく、私たちが神からの平安を受け取り、それに満たされてることによって、さらに栄光をお受けになるのです。神は、私たちの救いを願っておられ、救われた者がこの地にあっても、神からの平和に満たされることを望んでおられます。私たちが神にあって幸いであり、キリストにあって満たされることが神の栄光を表わすことになるのです。
シメオンの歌は「ヌンク・ディミティス」(今、私は去る)と呼ばれています。日本の教会では、近年、礼拝の最後にシメオンの歌「ヌンク・ディミティス」を取り入れるようになりました。シメオンの歌をほぼそのまま歌うのです。シメオンが「わたしの目が今あなたの救いを見た」と言ったように、礼拝はキリストの救いを信仰の目で見、心に平安を満たされ、再び、日々の生活に帰って行くときです。礼拝は、救い主イエスと出会うところであり、その救いを「見る」、つまり、体験するところです。礼拝は、私たちが「神に栄光あれ」と言って、神に栄光をお返しするときですが、同時に、神が「地に平和あれ」と仰ったその平和を受け取るときでもあるのです。神は私たちが何も持たないで礼拝から去ることを望んでおられません。「地に平和」と天使たちによって歌われた平和を受け、それを心に宿し、この礼拝から平安のうちに進んで行きたいと思います。
(祈り)
いと高きところにおられる神さま、私たちはあなたに「栄光」をお返しします。今、私たちにあなたの救いを見せ、「平和」を与えてください。私たちはあなたからの平和なしには、起こってくる出来事に右往左往し、回りの人々の言葉や態度、行いに振り回されるだけの人生で終わってしまいます。あなたの平和なしには、一日を勇気をもって始め、それを満足と、喜びと、感謝をもって終えることができません。私たちはこの礼拝から平安のうちに生活の場に帰りたいと願っています。あなたの平和を与え、平安のうちに私たちを遣わしてください。主イエスのお名前で祈ります。
12/8/2013