2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
先週、「今度の日曜日は敬老礼拝です」と桜井先生に話しましたら、「関連した文章があるから送ってあげるよ」と言って ”Winter of My Life” という題の文章を送ってくれました。あらましこんなものでした。
「年月の過ぎるのは、あっと言う間だ。ぼくの若いころのことは、まるで昨日のことのように思い出せる。でも実際は長い年月が経っている。ぼくは、その間、どうやって過ごしたんだろう。若いころ、年配の人を見ても、自分がああなるのは随分先のことだと思っていた。だが、今、ぼくの友だちはみんなリタイアして、髪の毛が白くなり、みんなのろのろ歩いている。何人かはとても大変な状態だ。ちょっと、悲しい響きのすることばですが、若い人々への教訓として書かれたようです。パウル・トゥルニエは人生を「春、夏、秋、冬」の四つの季節に分けましたが、高齢化とともに「冬」の期間が長くなっています。人生の冬をどう過ごすかは高齢の方々の課題であり、人生の冬にどう備えるかは若い人々の課題だろうと思います。今朝は、その両方を話す時間がありませんので、おもに「人生の冬をどう過ごすか」について考えてみたいと思います。
かつては、ウトウトするのはちょっとしたご褒美だったが、今は、それは義務だよ。椅子に座っただけでウトウトしてしまう。からだのあちこちは痛いし、いろんなことをする力が無くなった。ぼくは何の準備もないまま人生の新しい季節に入った。これがどれだけ長く続くのかわからない。若い人たちよ。人生の冬に備えて、今を生きなさい。」
一、死への備え
アメリカには、世界で一番多くの百歳以上の人がいて、その数はおよそ7万人です。二番目に多いのは日本で、5万人です。けれども、アメリカの人口は日本の三倍近くですから、人口の比率から言えば、日本が百歳以上の人がいちばん多い国になります。日本で百歳以上の人の数を数え始めたのは 1963年で、そのときは 153名しかいませんでした。ところが1998年には 1万人、2003年には 2万人、そして 2009年には 4万人、今年(2012年)は 5万人をこえました。国連の予測によると、日本の百歳以上の人の数は、2050年には 27万2千人になるそうです。少子化が心配な日本で、これだけの人々をどうやって支えていくのか、それは日本ばかりでなく、世界の大きな課題になっています。それは、医療や福祉といった面だけでなく、精神的、霊的な面からも考えられなければならないと思います。
最近、高齢者のために働いている人と話す機会がありました。その人は「ふだんはぼんやり過ごしている高齢の方々も、こどもにおりがみを教えたりしているときには目をかかがやせます。そんな機会をもっと与えてあげたいと思います」と話していました。高齢の方々が、自分にはまだしなければならないことがある、自分は役に立っているという思い、いわゆる「生きがい」を持つことは大切なことです。しかし、「生きがい」以上に、「生きる意味や目的」を持っていないと、その人が「生きがい」としているボランティア活動や趣味、孫の世話などが、健康上の理由で出来なくなったとき、たちまち生きる喜びや感謝を失ってしまうでしょう。私たちには「生きがい」という精神的なものばかりでなく、「生きる意味や目的」、さらには「生きる力」といった霊的なものが必要なのです。
聖書は、私たちの地上の限られた人生は、天での永遠の人生への準備であると教えています。私たちの人生は「春、夏、秋、冬」の四季を通りますが、「冬」で終わるのではありません。人生の「冬」のあとには天の「春」が待っています。人生の冬の期間には、天の春に備えるという仕事があるのです。三浦綾子さんは、癌にかかり、執筆活動ができなくなった時も、「わたしにはまだ仕事があります。それは『死ぬ』という仕事です」と言いました。三浦さんが「『死ぬ』という仕事」と言ったのには、深い意味があります。それは、いのちあるうちに好きなことをするとか、身辺整理をしておくとかいったこと以上のものです。日本では、「死」について考えたり、話したりするのは、長い間「タブー」でした。最近、少しは「死」について考えることができるようになりましたが、それでも、多くの場合、それは自分の葬式の手順を事細かに決めておくことなどにすり替えられています。「葬式」を演出することと、「死」に備えることはまったく別のことです。「葬式の演出」が、「死」に向い合うことからの逃避になっている場合が多いと思います。死とは何なのか。人はなぜ死ぬのか。死はどこから来たのか。死を克服する道はあるのか。そういったことを真剣に問い、天を目指す旅を、最後の一歩まで歩みきること、それがほんとうの意味で、死に備えること、「『死ぬ』という仕事」なのです。これが、永遠の「春」への希望を確かなものとするために、冬の期間にしておかなければならないことなのです。
二、救いを見ること
「死」に備える、最善の準備は、今朝の聖書のことばを使って言うなら、「救いを見る」ことです。神の救いを待ち望んでいたシメオンは、赤ちゃんのイエスを抱き、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」(29-30節)と言いました。「私は救いを見ました。これで、私は安らかに死ぬことができます」とシメオンは言ったのです。「安らかな死」、それは、神の「救いを見る」ことによってはじめて与えられるのです。
「死」は罪から来ます。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です」とある通りです。しかし、神は、死ぬべき人間をあわれんで、たとえ、一度はからだの死を体験しても、その霊は永遠に神と共に生きる道を開いてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちです。キリストは、ほんとうは私たちが受け取るべき罪の報酬を私たちに代わって受け取り、罪の償いを果たし、私たちに赦しを与えてくださいました。そればかりでなく、復活によって、私たちを死の束縛から解放し、永遠のいのちを授けてくださいました。それでローマ6:23は、「罪から来る報酬は死です」と言ったあと、「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と力強く、永遠のいのちを宣言しているのです。もし、聖書が「罪から来る報酬は死です」だけで終わっていたら、それはなんと悲しく、絶望的なことばでしょう。しかし、聖書は、イエス・キリストから来る「永遠のいのち」というグッド・ニュースで、その文章を締めくくっています。聖書は、このように、イエス・キリストにある救いの出来事を告げ知らせる書物です。
聖書が他の宗教の教典のように、教訓を集めたものでなく、イスラエルの歴史やイエスの生涯、また、初代の教会の歴史が大部分を占めているのは、救いが歴史の中で起こった出来事だからです。出来事を知らせるのがニュースですから、聖書のメッセージが「福音」、グッド・ニュースと呼ばれるのです。そして、聖書が私たちに求めている信仰は、歴史の中になされた神のみわざの中に救いを見る「歴史的信仰」です。それは自然信仰や悟りの教えとは区別されています。自然信仰というのは、日本の神道のように、私たちをとりまく自然から、人間よりも偉大なものを感じ取るということです。それはとても漠然としたもので、そこには罪の赦しも死からの解放もありません。また、それは、仏教のような悟りの教えでもありません。悟りの教えというのは、人間の心を高め、思いを深めて、日常を超越した境地に至ることです。それは誰にでもできることではありませんし、たとえ、高く深い境地に至ったとしても、そこで発見したことが真理であるかどうかは誰にも分かりません。何かを感じ取ることや悟りを開ことによってではなく、神が人間の歴史の中に出来事として与えてくださった神の救いを認め、受け入れ、それに信頼すること、それを聖書は私たちに教えています。
アメリカが独立国家であってイギリスの植民地でないこと、それが独立戦争を指揮したジョージ・ワシントンによってもたらされたことは、誰もが知っている歴史の出来事です。アメリカの独立は、この歴史の事実の上に立っています。アメリカは独立戦争だけでなく、南北戦争も通ってきました。同盟国をヒットラーの独裁から解放するために、多くの兵士をヨーロッパに送りました。自由や独立はそうした犠牲によって勝ち取られたものでした。それでアメリカでは毎年、5月の最後の月曜日にメモリアル・デーがあり、国のために命を捧げた人々の尊い犠牲を覚えます。そして、7月4日に自由と独立を祝うのです。同じように、教会はグッドフライデーにイエス・キリストの全人類のための罪のための犠牲を覚え、イースターには、その復活を祝います。イエス・キリストの十字架と復活という歴史の出来事が、人を罪と死から解放したからです。ローマ4:25に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」とあるとおりです。
このように、イエス・キリストの救いは、人類の歴史のただ中でなされ、誰の目にも明らかなのに、なぜ、人々はこの救いを「見る」ことをしないのでしょうか。それは、罪の赦しや永遠の命を切実に求めていないからです。お酒の好きな人は、まったく初めての町に行ってもすぐに酒屋を見つけると言われます。人は、自分の興味のあるものには目ざとく、決して見逃しませんが、興味のないものは、たとえ、目に入っていても、「へぇ、そんなものあったけ…」と心に留まらないことが多いのです。健康で、恵まれた環境の中にいて、物事がうまく行っているときは、心の目はどうしても、物質的な楽しみに向かいがちで、自分を楽しませることに忙しくしてしまいます。心の問題にまったく無関心でなくても、それは、誰かに話してすっとしたとか、人から声をかけてもらってうれしかったとかいうレベルで終わってしまい、神のことばによって生かされ、神の御顔を仰いで満たされるという、たましいのこと、霊のことにまで至っていないことが多いのです。
しかし、大きな失敗を犯したとき、自分のせいでトラブルが起こり、それに巻き込まれたときなどは、自分の罪深さや惨めさを思い知らされます。そんなときには、ふだん見えていなかったキリストにある罪の赦しが見えて来ます。また、余命いくばくもないことを知ったとき、生きるか死ぬかという瀬戸際に立たされたとき、愛する者の死を体験したときには、人はふだんは考えなくても、その霊においては求めている、永遠のことがらに目を向けはじめます。最近、何人かのクリスチャンから、日本の父親が病床でバプテスマを受けました、母親が信仰を持って、教会に通っていますという、うれしい知らせを聞きました。高齢になり、物事を理解することも、記憶することも困難になったとしても、霊の目、信仰の目が開かれ、イエス・キリストの救いをあざやかに見ることができたのは、なんと幸いなことでしょう。そのことをさせてくださった神はなんと力と愛とにあふれたお方でしょうか。
人は年をとるも、視力が衰え、目も霞んできます。若いころは、目で見たことがそのまま写真のように頭脳に焼き付けられたのに、年齢を重ねと、それがまるでピンボケの写真のようにしか頭脳に写らなくなります。しかし、信仰者のたましいの目は、年齢を重ねることによってさらに開かれてきます。シメオンは、イエスの説教を聞いたわけではありません。病気をいやし悪霊を追放する力あるわざを見たわけでもありません。ましてや十字架や復活は、シメオンが生後40日目のイエスを抱いたときから30年以上も先のことです。なのに、シメオンは赤ちゃんのイエスの中にすでに救いを見ていました。シメオンの信仰の目は研ぎ澄まされていたのです。シメオンが「私は救いを見ました。これで、私は安らかに死ぬことができます」と言ったように、ご高齢の方々には、イエス・キリストの救いを「見る」という大切な仕事が残っています。これをしないではこの世を去ることはできません。ご高齢の方々がキリストの救いを「見る」幸いを体験してくださるよう、心から願い、祈ります。
また、すでにイエス・キリストを「見て」いる方々は、もっと、イエス・キリストを見つめ、イエス・キリストの中にある救いの豊かさを味わい続けていただきたいと思います。そのようにして、キリストの救いを見ているみなさんが、他の人々に救いを「見せる」人になっていただきたいと思います。シメオンはまた、幼子イエスについて、「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(34節)と語りました。ここで「しるし」と言われているのは「十字架のしるし」のことです。十字架は、本来はのろいと滅びの「しるし」ですが、それはイエスによって救いと祝福の「しるし」となりました。この「しるし」という言葉は、もとの言葉で「セーメイオン」と言います。「シメオン」という名前と「セーメイオン」はとても似ています。これは偶然ではないと思います。イエスの十字架は救いのしるしですが、シメオンもまた、その救いのしるしを指し示す「しるし」となったのです。年老いても、ひたすらにイエスを見つめて歩み続ける、みなさんの信仰の歩みが、多くの人々に救いの「しるし」となりますよう、心から願います。
(祈り)
父なる神さま、今年もこのようにして敬老礼拝を守ることができありがとうございました。私たちはご高齢の方々の健康が支えられ、長く、ともに礼拝を守り、ともみことばを学び、ともに祈りたいと願っています。教会の中に世代を超えたまじわりが広がり、深められることも願っています。しかし、きょうは、それらのことにまさって、ご高齢の方々が、イエス・キリストの救いを「見る」こと、それを信じ、それを確信し、平安を与えられ、その喜びの中に生きることができますようにと祈ります。そして、あなたの救いを見ている方々が、人々にそれを指し示す「しるし」となることができますように。救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
10/21/2012