2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。
一、御名を信じる
マリアから生まれた男の子は、八日目、割礼を受けるときに、「イエス」と名付けられました。ふつう、子どもの名前は父親がつけますが、「イエス」という名は、じつは、あらかじめ、神によって定められていました。神がイエスのまことの父だからです。
御使いは、マリアの夫となるヨセフにこう告げています。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1:20-21)ヨセフは、「主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎え」(マタイ1:24)、「御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名付け」ました。聖書には、ヨセフが語った言葉はひとつも記録されていません。ヨセフは余計なことを口にせず、黙々と神の言葉に従う、男性らしい人だったのでしょう。
神が、ご自分の御子の名前に「イエス」を選ばれたのには、理由がありました。それは、イエスの使命を表すためでした。「イエス」は、ヘブライ語の「ヨシュア」という名前のギリシャ語読みです。ヨシュアは、イスラエルがモーセに導かれてエジプトを脱出したときの、エフライム族のリーダーでした。モーセは、各部族からひとりづつリーダーを選び、約束の地をさぐらせました。そのうち十名は、不信仰から「そこには強い民がいて、われわれは滅ぼされてしまう」と言いましたが、ヨシュアと、ユダ族のリーダー、カレブのふたりは、「そこは良い地だ。主の助けによってかならずそこに入ることができる」と、信仰によって人々を励ましました。このことは神に喜ばれ、ヨシュアは、神によって、モーセの後継者に選ばれました。ヨシュアは人々を約束の地に導き入れ、荒野を四十年放浪したイスラエルに定住の地を与えました。
「ヨシュア」、その名前の意味は「ヤーウェは救う」です。ヨシュアは、その名のとおり、主なる神が、神の民を救ってくださるとの信仰を持ち、人々に神の救いを与えました。同じように、神の御子も、「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」となられました。それで、御子は「ヨシュア」、つまり、「イエス」と名付けられたのです。
ヨシュアはイスラエルの人々にしか救いを与えることができませんでしたが、イエスは、一つの国や民族だけでなく、すべての国の人々、あらゆる民族に救いをもたらしてくださいました。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う」とある「おのれの民」には、イスラエルだけでなく、全世界のあらゆる人が含まれているからです。ヨシュアはエジプトの奴隷から救われた人々を、カナンの地に導き入れましたが、イエスは、罪の奴隷から救われた人々を、「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)が支配する「神の国」に入れ、「永遠の御国」へと導いてくださるのです。
聖書は、イエスの御名が罪を赦し(ヨハネ第一2:12)、病いをいやし(使徒4:10、ヤコブ5:14)、人を救う(ローマ10:1)と教えています。イエスを信じる者たちは、イエスの御名のゆえに苦しみを受けましたが、イエスの御名を誇り、それを喜びとしました(使徒5:41)。そして、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)と宣言しました。 “No other name!” 私たちも、イエスは私を救うお方、その名は私たちを救うただひとつのお名前であることを堅く信じ、いつも確信していたいと思います。
二、御名を知る
聖書では、イエスは、他にもさざまな名前で呼ばれています。イザヤ9:6では「平和の君」、「力ある神」、「不思議な助言者」、またルカ1:35では「聖なるお方」、ヨハネ1:29では「神の子羊」、使徒3:15では「命の君」、黙示録5:5では「ユダ族の獅子」、また、「ダビデの根」(Root of David)と呼ばれています。
イエスは、「明けの明星」、「谷のゆり」、「ライオン」など、天体や植物、また動物の名前で呼ばれ、「王」、「祭司」、「裁判官」、「参議官」など、さまざまな役職名でも呼ばれています。聖書を調べると、こうしたイエスの呼び名を、およそ120見つけることができます。神の御子が持つ数多くの称号は、そのお働きの豊かさを示しています。イエスは、私たちの救いと祝福のために、ひとりで何役もこなして働いてくださっているのです。イエスは、わたしたちの様々な必要のすべてに答えてくださるお方なのです。
イエスの呼び名の中には、矛盾と思えるものもあります。イエスは「主」と呼ばれ、また「しもべ」と呼ばれています。「裁判官」と呼ばれ、また「弁護人」と呼ばれています。「神の子」と呼ばれ、また「大工の子」と呼ばれています。「神」と呼ばれ、また「人」と呼ばれています。「父」と呼ばれ、また「子」と呼ばれています。「ライオン」と呼ばれ、また「子羊」と呼ばれています。
「栄光の賛歌」でも、イエスは「主なる神、神の小羊」と歌われています。「栄光の賛歌」は「あなたこそただひとり聖であり、主であり、いと高き方です」と、イエスをほめたたえる賛美ですが、その中に、主なる神であるお方が、神の小羊となって世の罪のために死んで行かれたことが歌われているのです。イエスは、「主なる神」であり、同時に「神の小羊」なのです。イエスは神であるからこそ人を救う力を持っておられ、神の小羊となって自らを捧げられたので、罪人である私たちも救われるのです。「主なる神」であり「神の小羊」であるというのは、一見矛盾しているようですが、それらはイエスのご人格とお働きの中にみごとに溶けあっています。イエスの御名のひとつひとつには一週間かけても黙想しきれないほどの豊かさがあります。イエスの御名を深く思い巡らすとき、イエスが、他の誰とも違った独自なお方、ただひとりの救い主であることが分かってきます。そして、この御名に私たちの救いがあることを知って、私たちは大きな喜び、感謝、賛美に導かれるのです。
ヤコブは、ひとりの人と夜通し格闘したとき、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」(創世記32:29)と願いました。名前を知るというのは、相手の本質を知るということです。ヤコブと格闘したその人は「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったままヤコブから離れていきました。その人は、ヤコブがすでにその名を知っていた神だったのです。また、モーセが神にその名を尋ねたとき、神は「わたしはある」という者であるとおっしゃり、「ヤーウェ」という名で、ご自分を表わしてくださいました(出エジプト3:13-15)。神の御名を問うことと、それを深く心に留めることは神をさらに深く知ることに導いてくれるのです。
イエスは最後の晩餐で、最初の弟子たちと将来の弟子たちのために長い祈りを捧げ、その最後を次の言葉で締めくくりました。「わたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります。」(ヨハネ17:26)「御名を知らせる」とは、神ご自身を伝え、知らせるということです。「神について」の何らかの知識を与えるということとは違います。イエスは「またこれからも知らせましょう」と言われました。信仰生活とは、言い換えれば神を知る生活であり、神を知り続ける生活です。私たちの生涯の一日一日、一瞬一瞬に、人となられた神の御子イエスを御言葉と祈り、聖霊によってさらに深く知っていく。それこそが、信仰者を満たし生かすものであり、あらゆる良いわざの原動力となるのです。
三、御名を呼ぶ
最初に「御名を信じる」ことについて、次に「御名を知る」ことについてお話ししましたので、最後に「御名を呼ぶ」ことについてお話しして、きょうのメッセージを終わりたいと思います。御名を信じる人、御名を知る人は、同時に御名を呼ぶ人です。ローマ10:13に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とあります。イエスの御名を信じるとは、「イエスさま、あなたこそ、救い主、主です。私を救ってください。私はあなたのしもべです」と、実際にイエスの御名を口にして、イエスを呼び求めることです。人は心で信じるとともに、イエスの御名を口にして救われるのです(ローマ10:10)。ですから、聖書は、イエスを信じて救われた人々を「御名を呼び求める者」(使徒9:14、ローマ15:20、コリント第一1:2)と呼んでいます。そして、「御名を呼ぶ」という言葉は、聖書では、祈りや礼拝を指しています。代々の信仰者たちは祈りと礼拝のために教会に集まり、そこで熱心にイエスの御名を呼び、真心から御名をたたえて礼拝を捧げてきました。いや、教会に集まったときだけでなく、普段の生活でもイエスの御名を口にしていました。
私は、ずっと以前に羽鳥 明先生から聞いた、この話を今でも覚えています。先生が、ある町の教会で説教するため、その町の旅館の二階の部屋に泊まっていたときのことです。朝早く、「さかな、さかな」という声を聞きました。窓から外を見ると、魚屋が手押し車に魚を積んで、それを売りにきていたのです。日本では、以前、そういう光景がよく見られました。先生が魚を売る人を見ていると、その人は町の入り組んだ路地のすべてを、出たり入ったりしながら、魚が売れようが、売れまいが、「さかな、さかな」と声をあげていました。先生はそれを見て、「ああ、私は、この人のように、路地の隅々にまで行って、『イエス・キリスト、イエス・キリスト』と言って、そのお名前を伝えているだろうか」と反省したと、言われたのです。
先生は、そのころ、身を粉にして日本の伝道のために働いていました。ご自分が生きるか死ぬかというような心臓の大手術を受けたのに、退院したすぐあとで同じ病室にいた人を訪ねて伝道していた、本物の伝道者でした。そんな先生が「私は、イエスの御名を恥じることなく語っているだろうか」と言われたのです。私は、それを聞いて、自分が怠慢で勇気のないことを思い、ほんとうに恥しく思いました。
ピリピ2:9-11にこうあります。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」イエスの御名が、天でも、地でも、地の下でも、あらゆるところであがめられるのなら、教会ではなおのことです。クリスチャンの間では、「イエスさまはなんと素晴らしいお方だろう」と、互いにイエスの御名をたたえあう言葉が交わされるものでありたいと願います。世の人は自分の名前が誉められることを求めます。しかし、私たちは自分の名前などどうでもよいのです。イエスの御名こそがあがめられるようにと、ひたすらにイエスの御名を呼ぶのです。そのように「御名を呼ぶ「コイノニア」が、この地の日本人の中にも育つよう、心から願っています。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神さま、あなたは、御子に「イエス」と名付け、このお方が、私たちを罪から救ってくださることを示してくださいました。あなたは、この御名を保ち、御名の持つ意味を知り、その力を受けるようにと私たちを招いておられます。私たちを常に主の御名を呼び求める者としてください。私たちの最も愛する御名、イエスのお名前で祈ります。
12/30/2018