イエスと名付けた

ルカ2:21-24

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ルカ2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
ルカ2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
ルカ2:23 —それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。—
ルカ2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。

 アメリカでは、普段、互いをファーストネームで呼び合います。しかも、たいていは名前を短くして呼びます。Alexander が Alex、Michael が Mike、Elizabeth が Beth とか Lisa となります。逆に長くなることもあります。John が Johnny、Sam が Sammy と呼ばれる場合などです。Richard が Rick、Edward が Ed と呼ばれるのは分かるのですが、なぜ Edward が Ted なのか、Robert が Bob で、William が Bill なのか良く分かりません。名前にはそれぞれに意味がありますから、きっと、何かいわれがあるのでしょう。

 ルカの福音書2章にあるイエスの誕生とその後の物語では、マリヤから生まれた幼子、じつは、神の御子は、「イエスと名付けられた」とあります。この「イエス」という名にはどんな意味があるのでしょうか。また、イエスはキリストとも呼ばれます。「キリスト」という呼び名にはどんな意味があるのでしょうか。「クリスマス」は Christ-mas と書き、「キリストのミサ」「キリストへの礼拝」という意味です。ですから、神の御子に与えられた、「イエス」という名、また「キリスト」という呼び名の意味を良く知って、ほんとうの意味でのクリスマスをお祝いしたいと思います。

 一、イエス

 最初に「イエス」という名について考えてみましょう。

 「イエス」というのは旧約聖書の「ヨシュア」のギリシャ語名です。モーセの後継者となって、イスラエルを約束の地に導き入れた、あのヨシュアです。神の御子はユダヤの人々からは「ヨシュア」と呼ばれ、ギリシャの人々からは「イエス」と呼ばれたのです。

 「ヨシュア」という名前は、神のお名前の「ヤーウェ」と「救う」という言葉が組み合わさってできたもので「ヤーウェは救う」という意味になります。天使が、マリヤにも、マリヤの夫となるヨセフにも、「その名をイエスとつけなさい」と、あらかじめ告げていました。ふたりは、神が告げられたとおり、生まれた子に「イエス」と名付けました。それは、この男の子が「ヨシュア」という名の通り、人々を救うお方となるからでした。すべての人はこの幼子によって救われると、神がお定めになったのです。

 「救う」、あるいは「救われる」といってもいろんな意味があります。お金がなくて困っている時、誰かが用立ててくれたら、私たちは「救われた」と感じるでしょう。重い病気が直った時、「救われた」と言って喜ぶでしょう。国が存亡の危機にある時、有能な指導者が国を守ったなら、その人は国を「救った人」と呼ばれるでしょう。精神的に落ち込んだり、混乱したりしている時に、誰かが支えになってくれたり、導きを与えてくれたりして、そこから立ち直ることができたなら、そのこともまた「救われた」ということばで言い表わすことができるでしょう。

 しかし、イエスが私たちに与えてくださる救いは、たんに経済的なもの、医学的なもの、社会的なもの、精神的なものだけではありません。それは、お金が与えられる、病気が良くなる、社会が秩序を取り戻す、私たちが精神的な支えを与えられるだけのものではないのです。そういうことだけであれば、イエスなしでも、ある程度は現在この地上で得ることができるでしょう。イエスの救いはそれ以上のものです。天使がヨセフに、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)と告げたように、イエスが私たちに与えてくださる「救い」とは、罪からの救いです。

 どんなに豊かな時代になっても、どんなに自由で公平な社会ができあがっても、また、医学や科学技術が進歩しても、人間にはそれによっては解決できない根本的な問題があります。それが罪です。罪は、お金によっても、教育によっても、どんな道徳的な行いによっても解決することはできません。それはこの世界に、私たちの社会に起こっている様々な問題を見れば良く分かります。私たちが罪に縛られている間は、ほんとうの幸せはないのです。

 聖書で言う「罪」とは、「犯罪」を含みますが、「犯罪」のことだけではありません。犯罪を生み出す、もっと根本的なものです。もし、罪が「犯罪」のことなら、「すべての人は罪を犯したため、神からの栄誉を受けられなくなっている」(ローマ3:23)という聖書のステートメントは間違っていることになります。私たちのほとんどは、交通違反はしたことはあるでしょうが、コートに呼び出されたりジェイルに入れらたというようなことはないでしょうから。しかし、「犯罪」を犯さなかったとしても、犯罪の根である罪を心に持っているということでは、私たちはみな、等しく「罪びと」なのです。

 私は、高校生のときに聖書を学び始め、マタイ5-7章にある「山上の説教」を読んで「罪」とは何なのかを知りました。イエスはこう教えておられます。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

 私が中学生のころ、私の家に叔母さんが来て、手伝ってくれていました。娘さんがアメリカの方と結婚していたので、娘さんに出すエアメールの宛名を頼まれて書いたのを覚えています。この叔母さんはとても良い人なのですが、そのころの私には、とても口うるさく感じたので、ときどき、「嫌だな」と思うことがありました。私は聖書を学びはじめたとき、そのことを思い出し、イエスのこの言葉に心刺されました。イエスによれば、たとえ人を殺すようなことをしなくても、「あの人がいなければよい」などと、人の存在を否定するようなことがあれば、神の前には殺人と同じとみなされるというのです。

 イエスはまた、こうも教えられました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)その通りです。イエスのことばの通り、罪が心の中から起こってくることを否定できる人はいないと思います。神は人の心の中までもご覧になるお方です。神が私たちの心をご覧になるとき、それは決してきれいなものではないことは誰もが知っています。こどもさんびかに

わたしたちのこころには いやなものがいっぱいで
きよいきよいかみさまは さぞみるのもおいやでしょう
という歌がありますが、私は、罪とは心の汚れから出てくるものだということも知りました。よく、「心にもないことを言ってしまった」と言い訳をすることがありますが、心にないことはことばや態度や行いとなって現れることはないでしょう。心の中にある自己中心やわがまま、不誠実や怠け心、妬みや怒り、恐れや臆病などが、ことばになり、態度になり、行いとなって出てくるのです。

 そして、そんな罪をやめたいと思っているのに、罪に縛られ、それにコントロールされてしまっている。それが人が「罪びと」であるということです。そして、これらすべてのことは、人が、造り主である神から離れていること、神を神として愛し、仕えることがないことから出ています。自分の人生の中に神に与える場所が少しもないのです。私たちの幸いのすべては神にあるのに、その神を捨てて生きるという的外れな生き方が罪なのです。

 私は、イエスの教えばかりでなく、イエスが他のどんなものにも屈することなく神に従い通し、自分を低くして人に仕え、十字架の死さえも受け入れられた姿を通しても、自分の罪がより分かるようになりました。明るい場所に出てはじめてものが良く見えるように、私は聖なるお方に触れてはじめて自分の罪、汚れ、醜さが分かるようになりました。神は聖なるお方ですから、この罪があるかぎり、私たちは、神のもとに帰ることができません。それで神はご自分の御子を人の世界に遣わし、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」としてくださったのです。

 旧約時代のヨシュアは、イスラエルの人々を約束の地に導き入れ、エリコの町を皮切りに、カナン人の町々を次々と攻め落として、エジプトを出てから土地も家も畑も持たなかったイスラエルに定住の地を与えました。ヨシュアのあと、さばきつかさ(士師)たちがイスラエルを外敵から救い、イスラエルに王が立てられてからは、彼らが国を守りました。しかし、人々は神を忘れ、神を捨て、滅びていきました。罪が社会を壊し、国を滅ぼしたのです。ヨシュアも、さばきつかさ(士師)たち、王たちも、人々を罪から救うことはできませんでした。罪を犯しては滅びていく人間の空しい歴史に終止符を打つことはできなかったのです。しかし、イエスは、人間を、不幸の根源である罪から救う、まことのヨシュア、「救う者」としてこの世に来てくださったのです。

 救いの必要なとき、このイエスのお名前を呼びましょう。聖書に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)とあります。イエス、「罪から救う者」という名を持っておられる、このお方に、救いを求めようではありませんか。

 二、キリスト

 次に「キリスト」という名前について考えてみましょう。

 「キリスト」というのは、正確に言えば、名前というよりも、役職を表わす称号です。しかし、イエスは常に「イエス・キリスト」と呼ばれ、イエスのお名前の一部となりました。例えば、忠臣蔵で知られる大石内蔵助ですが、彼のフルネームは「大石内蔵助藤原良雄」(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」と言います。「内蔵助」というのは役職名です。「内蔵」(うちくら)というのは、朝廷の宝物を収めた場所で、それを管理する役職が「内蔵寮」(くらのつかさ)と言い、「内蔵助」というのはその助役という意味になります。「大石内蔵助」がこのようにその役職名で呼ばれるように、イエスも常に「イエス・キリスト」と、その役割を表わす名前で呼ばれ、それによって私たちはイエスがどのようなお方かを知るのです。

 では、「キリスト」とは、どんな役割りなのでしょうか。それは「預言者」、「祭司」、「王」の三つを指します。「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味なのですが、旧約時代に、その頭に香油を注ぎかけられて任命された人々には預言者と、祭司と、王がいました。預言者、祭司、王の三つの役割は、三権分立のように、それぞれに独立していて、これらを兼ね備えることはできませんでした。ユダの王ウジヤは、祭司にしか与えられていないことをしようとして神に打たれらい病になっています。しかし、イエスは預言者、祭司、王の三つのすべてを兼ね備えたお方です。

 イエスは「預言者」として、人々に神のみこころを教えられました。イエスの教えは、その時代、ユダヤの人々が聞いていた聖書の講義や解説ではなく、権威ある神からの直接のことばでした。当時の学者たちは「神について」語りましたが、イエスは神そのものを語りました。神がイエスを通して語られたのです。旧約の預言者が人々の罪を責め、人々を悔い改めと神への信頼に導いたように、イエスもまた、私たちに罪を教え、悔い改めとへりくだりを教え、神への信頼を教えてくださいました。そして神に信頼して生きる幸いへと人々を招いてくださいました。

 また、イエスは「祭司」でした。祭司には、人々を代表して神に罪のゆるしを願うことと、神の代理者として、人々に罪のゆるしを宣言することのふたつの役割りがあります。イエスはそのふたつをみごとに果たされました。イエスは全人類の代表者となり、罪びとの身代わりとなって、神に罪のゆるしを願われました。旧約時代の祭司は、罪のゆるしのために、罪を犯した者の身代わりに動物を屠り、その血を祭壇に注ぎ、いけにえをささげました。最も多くささげられたのが、子羊でした。イエスは、どんな動物の血も、全人類の罪をあがなうには不十分であることを知っておられ、ご自分の血をささげられました。それが、イエスの十字架です。イエスは、ご自身を犠牲の子羊にして神にささげられた祭司です。こんな祭司はいままで誰一人いませんでした。私たちは、祭司であり同時に犠牲の子羊であるお方によって、罪のゆるしを得るのです。教会の礼拝は、神の子羊イエス・キリストの前に共に集まり、罪のゆるしを求め、また、それをいただく幸いを感謝するところなのです。

 そして、イエスは「王」です。地上の王たちは軍事力によって人々を震え上がらせ、その権力を増していきますが、イエスは愛と真実によって私たちを治めてくださる王です。この世の国は興っては消えていきますが、イエスの国は決して終わることがありません。

 ベツレヘムの飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんが、実は、神の御子であり、この世を罪から救うお方、「イエス」であり、預言者であり、祭司であり、王である、「キリスト」である。これがクリスマスのメッセージです。イエスがお生まれになったその夜、天使はこのことを羊飼いたちに告げました。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)
 このことばに「イエス」(救い主)と「キリスト」のふたつの名前が含まれています。クリスマスは、このイエス・キリストのお名前を賛美し、そのお名前の前にひれ伏し、そして、このお名前を宣べ伝える時です。ピリピ2:9-11に「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」とあるように、教会は、イエス・キリストのお名前を高く掲げるところです。

 皆さんが野球を見に行ったとしましょう。皆さんのひいきのチームが9回表までずっとおされぎみだったのに、9回裏に満塁になり、ホームランが出て逆転したら、ホームランを打った選手は、試合が終わってから、殊勲選手としてインタビューを受けます。その選手が再び姿を現す時、観客のみんなが、その選手の名前を呼んで、その栄誉をたたえるでしょう。そんな時に、自分の名前がどうだの、ああだのという人は、誰もいません。そのように、教会は、最も偉大な、すべてにまさるお名前、「イエス・キリスト」のお名前をほめたたえます。ただひとり聖なるお方、ただひとり主であるお方、ただひとりすべてのものの上におられるイエス・キリストの前に、共に膝をかがめ、すべてにまさる主イエス・キリストのお名前を心から賛美していきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、「イエス・キリスト」という尊い救いの御名をお与えくださり、心から感謝いたします。あなたは、いつ、どんなときでも、イエス・キリストの名によって祈る祈りを聞き入れてくださると、約束してくださいました。喜びの日ばかりでなく、悲しみの日も、恐れに取り囲まれるときも、思い煩いで一杯になるときも、この力あるお名前を呼び、この名で祈る者としてください。私たちのすべてをもって、聖なる御名をほめたたえるものとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/18/2011