2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
一、愛の悲しみ
クリスマスを前にしたバイブル・スタディで、ある人がこう言いました。「私は、以前、クリスマスになると、とても悲しい気持ちになったことがありました。イエスさまはやがて十字架の上で死んで行かれる。イエスさまは苦しみ、死ぬためにお生まれになった。私は、そのころ、出産し、子育てをしていたときなので、そんな予感を持ちながらわが子を抱いていた母マリヤの心はどんなだったろうと思いました。」
この人が話したのは、シメオンがマリアに語った言葉のことです。聖書にこうあります。「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。」(ルカ2:34-35)シメオンは主イエスと母マリアの苦しみを預言したのです。それは、生まれたばかりの赤ちゃんにとってなんと不吉な言葉だったことでしょう。
イエスの誕生の後、東方の賢者たちがイエスを礼拝して帰ったあと、ヘロデ王はイエスを亡きものにするため、ベツレヘムに軍隊を送り、二歳以下の男の子を殺させました。母マリアと赤ちゃんのイエスは、ヨセフに守られ、間一髪のところで、この虐殺から逃れましたが、大勢の赤ん坊の命が奪われました。これもまた、クリスマスにまつわる悲しい物語です。救い主が世に来られたのに、世は救い主を拒絶し、締め出したのです。
きょうの箇所にはベツレヘムの町にイエスが生まれたときのことが書かれていますが、ここにも、救い主が締め出され、遠ざけられたことが書かれています。この段落の最後の言葉、「客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ2:7)がそうです。
英国の王室は、出産のときウェストミンスターにあるセント・メリー病院を使いますが、おそらくは、あらゆる設備とスタッフの完備した、最高の産室が使われてきたことでしょう。古代は、現代ほど医学が発展していませんでしたが、それでも、王子、王女の誕生のためには、最善の場所、最高のものが備えられたことでしょう。ところが、神の御子、王の王、主の主、救い主の出産には、清潔な産室も、産湯もなく、助産師もいなかったのです。こともあろうに、神の御子は、臭くて暗い家畜小屋で生まれたのです。主イエスは、その誕生のときから、疎外され、人間扱いさえされなかったのです。
「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」これは悲しい言葉です。ヨハネはこの言葉をこう言い換えました。「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」(ヨハネ1:10-11)聖書が言う「世」とは、神を締め出し、神に逆らっている人間社会のことを言います。もっとも、人々は、自分では「神を締め出し、神に逆らっている」とは思ってはいません。宗教的なものがかなり希薄になった現代ですが、それでも、人々はまだ、それぞれの宗教の教えを尊重し、何かしら「霊的」なものを求めています。しかし、さまざまな教えを受け入れ、霊能者を受け入れるのに、まことの神が送ってくださったまことの救い主を決して受け入れようとはしないのです。クリスマスに「主は来ませり」と歌っていても、その人の心に、生活に、人生に、主を迎える「部屋」がないのです。讃美歌が流れ、Hope, Peace, Joy, Love などの聖書の言葉が飾られてはいても、そこにキリストがおられない「クリスマス」を見るとき、神を愛する人々は、かえって悲しい気持ちになるのです。
二、与える愛
母マリアが抱いた悲しみは、わが子の将来についての不安というだけでなく、神の御子が受ける苦しみに対する聖なる悲しみであったと思います。母マリアがイエスとともに苦しんだ苦しみは、他のどの弟子よりも深かったことでしょう。しかし、その悲しみは復活の朝、喜びに変わりました。十字架のとき、イエスの弟子たちは、徹底して自分たちの無力を感じました。しかし、ペンテコステの日、その無力は大きな力に変えられました。聖書は、喜びの中に悲しみがあり、悲しみの中に喜びがある。力の中に弱さがあり、弱さの中に力があると教えています。それは、一見矛盾しているよう見えますが、この「矛盾」と見えることの中に真理があるのです。それは、聖書が語る「神の愛」についても同じです。
神の愛について、最も代表的な聖句は、なんといっても、ヨハネ3:16でしょう。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この聖句にも矛盾が見られます。それは、「神が…この世を愛した」ということです。
「世」とは、神を締め出し、神に逆らう人間社会です。救い主を家畜小屋に追いやったわれわれです。聖書は、信仰者に、世と世のものを愛してはいけないと教えています。ヨハネ第一2:15に、こうあります。「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」また、ヤコブ4:4にも「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないのか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」とあります。こうした言葉はとても厳しく聞こえますが、特別な言葉ではありません。これが聖書のスタンダードなのです。聖書は、この点で決して妥協しません。信じる者を世から聖別された神は、信仰者に、この世と同じようになるのでなく、神の形、また、キリストの姿に似たものに変えられるよう求めておられるのです(ローマ12:2)。
ところがヨハネ3:16は「神はこの世を愛した」と言っています。信仰者には「愛してはいけない」と言われた世を、神は愛したというのです。それは、世そのものになりきってしまった私たちでさえ、神は愛してくださったということです。そして、神は、その愛を実行し、私たちを救うため、ご自分のひとり子を世に「与えた」のです。「与える」という言葉には、普通に「与える」という意味の他に、「贈る」、「譲る」、「捧げる」などという意味もあります。「神はそのひとり子を賜わった」という場合、そこには「くれてやる」、「放棄する」、「諦める」、「見捨てる」という意味が含まれています。英語で言えば、単に “give” ではなく、 “give up” です。イエスは聖餐を定められたとき、弟子たちにパンを与えて、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」(ルカ22:19)と言われました。ある訳では “This is my Body, which will be given up for you.” となっています。 “give up” 自分のものを何一つ主張せず、すべてを与えるということです。神は、最愛の御子を、世を愛するあまり、 “give up” され、御子もまた、御父の愛とご計画を知り、ご自分を “give up” されたのです。
イエスがベツレヘムに生まれ、飼い葉桶に寝かせられたということを思い巡らすとき、私は、いつも、聖餐を思い起こします。「ベツレヘム」という町の名前には「パンの家」という意味があります。イエスが寝かせられたのは、家畜のエサ箱でした。赤ん坊のイエスは、ベツレヘムの町の飼い葉桶に、まるで食べ物のように置かれたのです。実際イエスは、信じる者にいのちを与える食べ物となってくださいました。父なる神は、人々の救いのために最愛の御子を、死なせるという決断をされ、それを実行されました。御子イエスもご自分を与えつくされました。この神の愛の決断、御子の犠牲は、どんなに時代が暗くなろうとも、救いの光、救いの力を失うことはありません。時代が暗くなればなるほど、この愛の光は、よりいっそう輝き、信じる者の救いと喜びとなるのです。
三、愛の決断
この神の愛をあらわすために、2003年に、チェコのプラハで、「Bridge」という題の短編映画が作られました。そこには父ひとり、子ひとりの親子が登場します。父親は、鉄道員で、湖にかかる可動橋を操作していました。船が通るときに橋を上げ、列車が通るときには橋を降ろすのです。橋が上がっているときは、当然列車は信号待ちをしなければなりません。ところが、列車が信号を無視してスピードをあげて橋に向かってきました。この鉄道員の8歳になる男の子がそれを見て、父親に知らせに行くのですが、誤って機械の中に落ちてしまいました。そのまま橋を降ろせば、息子は機械に挟まれて死んでしまいます。しかし、橋を降ろさなかったら、列車に乗っている大勢の乗客が死んでしまいます。父親は、どうすれば良いのでしょうか。どうしたのでしょうか。
父親は、橋を降ろしました。息子を犠牲にして大勢の乗客を救いました。神もまた、橋を降ろされました。ひとり子イエス・キリストを犠牲にしてこの世を救ってくださったのです。イエス・キリストは私たちが神に立ち返るための、神と人との文字通りの「架け橋」、ブリッジになってくださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」神は、私たちへの愛のゆえに、御子を与えるという決断をされました。この神の愛の決断に、私たちも信仰の決断で答えましょう。救い主イエスに信頼し、主イエスに従うという決断です。そして、その決断によって、今までにない大きな喜びを自分のものにしたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたの大きく、深く、貴く、そして、いつ、どんなときにも変わらない愛を感謝します。あなたは、この愛を私たちに与えるために、どんなに悲しみ、嘆き、苦しみ、大きな決断をなさったことでしょうか。私たちもあなたの愛にかなわない自分を悲しみ、嘆き、そのことに苦しみます。しかし、信仰の決断によって、あなたの恵みと憐れみを受けて、あなたの愛のうちに憩います。この日、私たちを聖なる悲しみと、聖なる喜びへと誘ってください。そのようにして、今日の尊い日を過ごす者としてください。御子イエスのお名前で祈ります。
12/23/2018