マリアの黙想

ルカ2:15-20

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2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 一、人を生かす愛

 私たちはアドベントの一週ごとに一つづつキャンドルを灯してきました。最初は「預言のキャンドル」で「希望」を表し、第2は「天使のキャンドル」で「平和」、第3は「羊飼いのキャンドル」で「喜び」を表しています。そして、第4のキャンドルは「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、「愛」を表わします。

 4本のキャンドルが表わす「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」はどれも、生きていくのに必要で大切なものばかりです。人は希望なしには生きていけませんし、平和でなければ生きた心地はしません。喜びがなければ生きていることが虚しくなり、愛がなければ生きることは苦痛でしかなくなります。皆さんも希望を失くしたときの惨めな思い、不安や恐れの中で過ごしたつらさ、何をしても喜びを感じられないわびしさ、愛されているという実感を持てず、他を愛することができない苦痛を、一度や二度は味わってきたことと思います。

 聖書に「野菜を食べて愛し合うのは、/肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(箴言15:17)とあります。日本では年末年始に忘年会や新年会などで、お座敷にご馳走が並び、お酒がふるまわれます。仲良くするための食事なのに、そこで腹の探りあいをしたり、意地悪い言葉が出たり、喧嘩が始まったりすることがあります。人が愛で結ばれていなければ、ご馳走があっても、そこは争いの場になります。けれども、わずかなものしかなくても、そこに愛があれば、みんなで分けあって楽しく食べ、心まで満たされるのです。

 「温度計で測れない温かさ」という言葉があります。部屋の温度は温度計で測れます。でも、その部屋に集まった人たちの心の温かさは、温度計では測れません。暖かい部屋に暖かい飲み物や食べ物がふんだんにあったとしても、人と人との関わりにぬくもりがなければ、人は心に温かさを感じることがないでしょう。豊かなアメリカで、あり余るほどのものに囲まれながら、心が満たされずにいる人がなんと多いことでしょう。ご馳走をまるで砂を噛むような思いをして食べている人の数は数えきれないほどだと思います。「孤独は山になく街にある」という言葉がありますが、まわりに大勢の人がいても、そこで孤独を味わっている人が多いのです。動物は、環境さえ整えばどこででも生きていけるのでしょうが、人は、愛がなければ、人と人との関係で温かさを感じることがなければ、本当の意味で生きていくことができないのです。

 二、神の愛

 アドベントの4本目のキャンドルは、人が生きていくのに無くてならない愛を示しています。それが「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれるのは、その愛が、今から二千年前、ベツレヘムでお生まれになった救い主のうちに表されているからです。では、ベツレヘムで表わされた愛は、どんな愛なのでしょうか。

 それは第一に「変わらない愛」です。イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、偶然ではありません。そこには神のご計画がありました。救い主はダビデの子孫から、ダビデが生まれたベツレヘムで生まれると預言されていましたが、その預言の通りに、救い主イエスはそこでお生まれになったのです。天使は羊飼いに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)と告げましたが、「ダビデの町に」という言葉の中に、ダビデから千年近く経っても、救い主を与えるとの約束を守り続け、それを成就してくださった、神の変わらない愛が言い表わされているのです。

 人の愛は移り変わります。周囲の反対を押し切ってまで結婚したカップルが何年もしないうちに離婚してしまうこともあります。「最初の愛、いつまでも」(Fist Love Forever)というわけにはいかないのが、人の世の現実です。しかし、神の愛は違います。神は言われます。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)エレミヤ書では、「永遠の愛」は「真実の愛」と言い換えられています。「真実」は時を超えたものです。どんなに時間が経っても神の愛は変わらず、常に真実です。人が神との約束を忘れても、神は人との約束をお忘れになりません。神は、変わらない愛で、人を愛し続けておられます。クリスマスにベツレヘムで表された愛はそのような愛、計り知れない神の愛です。

 第二に、この愛は、「すべての人」への愛です。神は人を分け隔てなさらず、世界のすべての人を愛しておられます。神の愛からもれている人は誰一人いません。ルカは、そのことを示すために、当時の社会では、低くみられていた人たちを中心に福音書を書きました。ルカの福音書には数多くの女性が登場し、それぞれ重要な役割を果たしています。また、病気の人、障がいのある人、悪霊に憑かれた人、取税人、外国の人などが多く登場し、それらの人々が神の愛を受けています。降誕の物語でも同じです。

 ルカの降誕の物語で最初に登場するのはザカリヤとエリサベツという初老の夫婦です。二人の間には子どもがありませんでした。当時のイスラエルでは子どものない夫婦は低くみられ、とくに女性は辱められもしました。しかし、神は、この夫婦に、のちにバプテスマのヨハネとなる男の子を授けてくださいました。

 次に登場するのが、マリアで、彼女は「ガリラヤのナザレ」の娘でした。ガリラヤ地方は、ユダヤではやっていけなくなった貧しい人たちが新しく開拓した地域で、ユダヤの人たちからみれば、辺境の地でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言われるほど、そこに住む人たちは蔑まれていたのです。しかし、神は、ナザレのマリアに救い主の母となるという最高の祝福をお与えになりました。

 そして、きょうの箇所に登場する「羊飼い」は、社会にとってなくてならない職業でしたが、尊ばれる職業ではありませんでした。羊飼いたちは羊を追って各地を転々としましたので、ユダヤの宗教の決まりを守ることができなかったからです。しかし、天使が救い主誕生の知らせを伝えたのは、エルサレムにいる大祭司たちでも、律法学者たちでもなく、彼らから軽蔑されていた羊飼いたちでした。バッハのクリスマス・オラトリオでは、天使が羊飼いに救い主誕生の知らせを告げる場面で、「神は、かつて、羊飼いであったアブラハムに、その子孫から救い主が生まれることを告げられた。そして、今また、救い主誕生のときに、それを知らせるために羊飼いを用いられた」と歌われています。神がご自分の御子の誕生を人々に知らせるのに、貧しい羊飼いを選ばれたことは、神の愛が、すべての人に届く、広く、大きいものであるかを示しているのです。

 第三に、神の愛は「人となられた愛」です。多くの人は、「神の愛といっても、漠然としていて、つかみどころがない」と思っています。確かに、「愛」という言葉は、男女の愛を言うときにも、肉親の愛を言うときにも使われます。タバコ好きの人は「愛煙家」と呼ばれますが、この場合の「愛」は「ものごとにこだわる」ということで、良い意味ではありません。「愛」といっても人によって定義が違います。それで、神の愛と言われても、どう捉えたらいいか分からない。多くの人がそんな気持ちを抱いています。神は、そういった気持ちを良く理解しておられ、ご自分の愛を目に見える形をもって表わされました。イエス・キリストは「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)と言われていますが、ベツレヘムの飼葉おけに寝かせられた赤ん坊のイエスは、神の愛の具体的な姿、形です。神の愛そのものなのです。

 「飼葉おけ」、それは動物がそこから餌を食べるところです。イエスが飼葉おけに寝かされたのは、あたかも、イエスが食べ物であるかのようです。実際、「わたしはいのちのパン」(ヨハネ6:48)と言われ、イエスは私たちにご自分を食べさせるために、それによって私たちに命を与えるために世に来られたのです。飼葉おけは神の愛を表しています。聖書はこう言っています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(ヨハネ第一4:9)

 ベツレヘムで生まれたイエスはナザレの村で育ち、ヨルダン川でバプテスマを受け、人々を教えました。イエスの足跡は、イスラエルのいたるところに残っています。神の愛はイエスのなさったすべてのことに形をとって表れています。

 イエスは人々を救うために、自ら十字架で死なれました。ベツレヘムの飼葉おけにも、ゴルゴダの十字架にも、神の愛は形をとって表れています。ヨハネ第一4:10はこう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神の愛は、言葉だけのものでも、頭脳の中で作り出された概念といったものでもありません。それは、目で見、手で触れることができるものです。「飼葉おけ」から「十字架」までのすべてにおいて、「ここに愛がある」と指し示すことができるものなのです。

 三、神の愛を知る

 私たちは、この「神の愛」を見て、触れ、それによって生かされているでしょうか。どのようにしてそれができるのでしょうか。きょうの箇所には、神の愛を知る上での、二つの模範があります。一つは、羊飼いたちです。羊飼いたちは、天使のお告げを聞くとすぐに、「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう」と言って、「急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当て」ました。私たちも、神の言葉を聞くとき、素直な心でそれを受け入れ、信じ、御言葉に従うなら、羊飼いと同じようにイエス・キリストを探し当てることができます。神の愛を見出し、その愛によって慰められ、励まされ、力を与えられ、生かされるのです。

 もう一つの模範はマリアです。「しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」(19節)とあるように、私たちも、神の言葉を思い巡らすことによって、神の愛を深く悟ることができます。降誕の物語は、毎年、何度も何度も聞いていて、「何もかも分かっている」と思いがちです。けれども、新しい気持ちで御言葉に触れるとき、今まで気づかなかったことを発見することができます。知識として知っていても、自分の人生や生活に結びついていないことに気づきます。私たちは聖書をちょっと読んで分かったつもりになってしまうことが多いのですが、「この言葉は、私の人生にどういう意味があるのだろうか。それは何を教えようとしているのだろうか」と、聖書と対話する時を持つといいのです。そのままでは固くて食べられない豆も、何日も水に漬けておけば柔らかくなって、調理ができるようになります。そのように、御言葉を心に宿し、時間をかけて、御言葉の意味を探り、御言葉をたましいに吸収すること、それが「思い巡らすこと」、「黙想」です。

 今年のクリスマス、今まで以上に、御言葉の黙想に時間をかけましょう。御言葉に問い、御言葉に聞き、クリスマスに表された神の愛を深く想いみましょう。そして、クリスマスを「人となられた愛」、イエス・キリストによって、満たされ、生かされる日として過ごしたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、変わらない愛、すべての人に及ぶ愛を、御子の誕生によって、私たちに示してくださいました。私たちも、羊飼いたちの素直な信仰にならい、イエスとあなたの愛を見出すことができるよう助けてください。また、マリアの深い黙想にならい、その愛をたましいの奥深くで受け止め、それを体験することができるよう導いてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/22/2024