2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
以前は、アメリカにあって日本にはないものがたくさんありました。ところが、今は、アメリカにあるもののほとんどが日本で手に入るようになりました。それでも、アメリカや他の国にはあるのに、日本には無いものがひとつあります。それは、「クリスマス切手」です。クリスマスは世界中で祝われているのですから、日本もクリスマス切手が発行してほしいですね。ところで、このクリスマス切手にかならず登場するのが、幼子イエスを抱いたマリヤです。聖書の女性の中で最もよく知られ、また最も愛されているのはマリヤでしょう。クリスマス切手のもとになった絵画では、マリヤはさまざまに描かれていますが、皆さんは、どのようなマリヤ像を心の中で描いていたでしょうか。今年のクリスマスはマリヤについてお話ししてきましたが、聖書からマリヤについてどんなイメージを持ちましたか。彼女からどんなことを学びましたか。
一、みことばとマリヤ
今朝の箇所は、マリヤがイエスを出産したこと、そこに羊飼いたちがやってきて、飼い葉桶に寝かせられた生まれたばかりのイエスを礼拝したことを書いています。ルカ2:1-19は、まさに、最初のクリスマスの日の出来事を描いた箇所です。この箇所のマリヤから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
想像をたくましくして、その一日を振り返ってみましょう。その日の朝、マリヤは、ヨセフに連れられて、ガリラヤのナザレからベツレヘムに向かっていました。ナザレからベツレヘムまでは徒歩で三日ぐらいの道のりでしたが、出産間近のマリヤはそんなに早く、また、長く歩くことができませんから、普通の人の何倍もの日数をかけて旅してきました。早いうちにベツレヘムに行って、宿屋の手配をしようと、お昼ごろにはベツレヘムに到着したのですが、来てびっくり、普段は静かな町が大勢の人でごったがえしていました。人口登録のために、ベツレヘム生まれの人々が、イスラエル中からやってきていたからです。ヨセフは必死になって宿屋をまわり、「空いている部屋はありませんか。妻にもうすぐこどもが産まれるのです。どんなところでもいいですから。」と頼んだのですが、どの宿屋にも空き部屋はありません。ヨセフは責任感の強い人でしたから、どんなに心配し、また、もっと早くベツレヘムに来ていればと、悔やみもしたでしょう。そんなヨセフの気持ちを知ってか、また、マリヤの姿を見てかわいそうに思ってか、宿屋の主人は「あそこなら、どうかね。雨露はしのげるが…。明日になれば、部屋が空くかもしれないから、今晩はそこでがまんしてくれないかね。」と、指さしました。それは、家畜小屋でした。家畜小屋といっても、当時は、岩を掘りぬいた洞穴を家畜小屋に使うことが多かったので、実際は、家畜をつなぎとめてある洞穴に、マリヤとヨセフは入れられたのです。
やがて日も暮れ、陣痛が起こり、マリヤは預言のとおり男の子を産みました。生まれたばかりのイエスは、飼い葉桶に寝かせられました。イエスは神の子なのですから、人間の世界でも最高の場所で生まれて当然なのに、人の住むところではなく、動物を押し込めておく洞穴で生まれたのです。このことは、いと高き神の子が、私たちの救いのために、どんなに低くなってくださったかを表わしています。神の子は、私たちと同じ人間になられたばかりでなく、神から離れ、人間の尊厳を失い、本能のままに生き、動物のようになってしまった者たちを救うため、ご自分が人間以下の扱いを受けても、それを耐え忍んでくださったのです。
夜もふけ、出産の大仕事を果たしたマリヤはゆっくりと体を休めようとしました。ところが、誰も来るはずのない、この家畜小屋に向かってくる人々がいました。それは、羊の夜番をしていた羊飼いたちでした。羊飼いたちは、ベツレヘムの野原で、天使たちのメッセージを聞いたのです。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」羊飼いたちはベツレヘム中の家畜小屋を捜しまわって、ついに、マリヤとヨセフにいた家畜小屋に、飼い葉桶に寝かせられた赤ちゃんを見つけたのです。羊飼いたちは、自分たちの見たことが天使たちの言ったとおりだったので、そのことを、近所の人々に言ってまわりました。羊飼いや、羊飼いの話を聞いてやってきた人たちが帰るころには、もう、夜も明けかけていたかもしれません。ほんとうに、この日は、さまざまなことが立て続けに起こった長い日でした。マリヤは、そんな出来事の中で、何をしていたでしょうか。19節に「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」とあります。ここには、マリヤが何かを話したとは書かれていません。おそらく、彼女は、変化の多かったこの日をじっと黙って過ごしたのでしょう。語ることよりも、聞くことに集中して、彼女は、神のなさったことを深く心に刻み込んでいたのです。
マリヤの、このような姿は、ルカ1:29にも見ることができます。マリヤは、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」とのお告げを受けた時、「これはいったい何のあいさつかと考え込ん」でいます。マリヤは、天使が自分に現れたという、センセーショナルな出来事にこころ奪われることなく、自分に伝えられようとしている神からのメッセージ、神のことばに思いを向けたのです。ルカの福音書の2章の最後には、イエスが12歳になられた時のことが書かれていますが、この時も、マリヤは、少年イエスにまつわる出来事を、その時のイエスのことばとともに「心に留めておいた」(ルカ2:51)のです。福音書の著者たちは、イエスの誕生のことやイエスの少年時代の出来事をマリヤから聞いて書いたことでしょうが、もし、マリヤが彼女の身に起こった神のみわざを深く思い見、彼女に伝えられた神のことばをこころに蓄えていなかったら、これらの出来事は、現代の私たちまで伝えられなかったかもしれません。マリヤがみことばを「思い巡らし」「心に留めて」いたので、私たちは今も、イエスの誕生のことを知り、そこに語られている神のことばを聞くことができるのです。私たちは、マリヤの姿から、神のことばを聞き、それをこころに蓄えることの大切さを学ぶことができます。
二、みことばと私たち
聖書は、私たちに、神のことばをただ聞くだけでなく、それを心に深くとどめるように教えています。詩篇1:2に「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。「口ずさむ」とあるところは、「思い巡らす」と訳すこともできます。朝、聖書を読み、神のことばを聞いても、昼になったらもうそれを忘れてしまい、夜になったらもう、すっかり心から消え去ってしまうというのでなく、みことばを、こころにとどめるためには、一日の中で幾度かそれを思いかえすことが必要なのです。そのようにして、はじめてみことばを心にたくわえることができます。このようにみことばをたくわえる人は、水路のそばに植わった木のように、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」(詩篇1:3)のです。詩篇は、みことばを深く思い見る人の人生は豊かに実を結ぶものになると約束しています。
主イエスも、種まきのたとえの中で、同じことを話されました。種まきのたとえはルカの福音書8章にありますが、そのたとえ話しの中では、種を蒔く人がまいた種が、あるものは道ばたに落ち、別の種は岩の上に落ち、また、別の種はいばらの真中に落ちました。道ばたに落ちた種は、鳥に食べられてしまいました。道ばたは、神のことばを受け取ろうとしないこころの固い人々を意味します。そういう人からはみことばは取り去られてしまうのです。岩地に落ちた種は芽を出してもすぐ枯れてしましました。岩地は、みことばをよろこんで聞きはしますが、それを心に根付かせない人々のことです。いばらに落ちた種も芽を出し、ある程度は成長するのですが、いばらに妨げられて、決して実を実らせるまでにはなりません。これは、みことばよりも、この世の心づかいや、富や、快楽に心を奪われている人々のことをさします。しかし、良い地に蒔かれた種は、何倍もの実を結びます。良い地とは、みことばを受け入れ、それを心にとどめている人々のことです。四種類の人々は、同じように神のことばを聞きましたが、聞いたみことばをどう受け止めるかによって、結果はまったく違ったものとなりました。神のことばの力は変わらないのですが、それをどう聞くかによって、多くの実を結ぶか、何一つ実を結ぶことなく終わってしまうかのどちらかになってしまうのです。ですから、聖書は「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ1:21)と言っているのです。
今年、私たちは「下に根を張り、上に実を結ぶ」という聖句を年間標語としてかかげてきました。実を結ぶためには、まず根を張る必要があります。それで、今年は特に「根を張る」ということを強調してきました。コロサイ2:6-7に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」とあります。どこに根を張るかというと、それはキリストにです。「キリストの中に根ざす」のです。「キリストの中に根ざす」ということばは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にどとまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)とのキリストのことばを思い起こさせます。「キリストの中に根ざす」というのは、たんにキリストの教えに同意するとか、それを守るという以上に、キリストを私たちの心に迎え、私たちの日々の生活の中に生きていただくことを意味します。ぶどうの枝がその幹から切り離されたなら、決して実を結ぶことができないばかりか、たちまち枯れてしまうように、私たちもまた信仰によってキリストといのちのつながりを保っていなければなりません。
そして、キリストとつながっているために、必要なことは、いくつかあるでしょうが、そのひとつが、みことばをこころ留め、それをたくわえることです。主イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にどとまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と言われたあとで、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら…」(ヨハネ15:7)と言っておられます。私たちが、キリストにとどまっているためには、私たちのうちにキリストのことばをとどめていなければならないのです。私たちがキリストに根ざすということは、キリストのことばが、良い地に蒔かれた種のように私たちの心に根ざしていくということなのです。ですから、聖書は「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」と教えた後で、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」なさい(コロサイ3:16)と勧めているのです。
現代は、とにかく忙しい時代です。「忙しい」ということがまるで美徳であるかのように考えられています。「あなた、暇そうですね。」などと言ったら、相手は侮辱されたと感じるでしょう。しかし、「忙しい」こと、あるいは、「忙しい、忙しい」と思うことは、クリスチャンにとって、必ずしも良いことではありません。忙しさのために、神のことばを思い巡らし、それを心にたくわえる静かな時を省いてしまい、そのためにクリスチャンにとって大切なものを失ってしまうことがあります。イエスが、その忙しさの中でも、常に祈りの時間を割き、ひとりで父なる神のことばを聞き、神に語りかけたように、私たちも、神のことばに聞き、それをこころに思い巡らし、たくわえることを忘れてはなりません。イエスがしばしば、弟子たちを人里離れた寂しいところに導かれたのは、弟子たちに、神のことばを聞き、それをこころにとどめる訓練をさずけようとされたからでしょう。私たちにも同じ訓練が必要です。
このシーズンは一年の中でもとりわけ忙しいシーズンですが、忙しさにふりまわされることなく、マリヤがみことばを思い巡らしたように、私たちも静かにみことばをこころにたくわえましょう。マリヤが神の子を宿す特権にあずかったのは、なによりも、彼女がみことばをこころに宿すことのできる信仰者だったからだと思います。私たちのうちにも、キリストのことば、神のことばが豊かに宿らせ、私たちのうちに住んでいてくださるキリストをあかしする者になりたく思います。
(祈り)
父なる神さま、今年も、こうしてクリスマスの礼拝を守ることができ感謝いたします。今朝、マリヤの姿から学びましたように、私たちも、与えられた神のことばを心にとどめることができるよう、お助けください。そのために、私たちに、あなたと交わる静かな祈りの時を与えてください。そのことによってみことばが私たちのこころに根付き、私たちはキリストに根をおろすことができますように。そして、あなたのために、さらに豊かな実を結ぶことができますように。主キリストのお名前で祈ります。
12/21/2003