王を迎える

ルカ19:37-40

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19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
19:39 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
19:40 イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

 きょうは「パーム・サンデー」です。「パームサンデー」というのは、主イエスがエルサレムに入城される時、人々が「しゅろの葉」を手にとって、イエスを出迎えたことに由来しています(ヨハネ12:12-13)。パーム・サンデーと言えば「しゅろの葉」ですが、他に「ロバの子」や「石」も登場します。「ロバの子」、「しゅろの葉」、そして「石」のそれぞれは、パーム・サンデーについてどんなことを私たちに語っているのでしょうか。これらのものは、イエスをどのようなお方として示し、私たちがイエスをどのようにお迎えしなければならないと教えているのでしょうか。

 一、平和の王

 最初にロバの子が語るものに耳を傾けましょう。

 イスラエルでは、人々はお祭りのたびにエルサレムを訪れ、神殿で礼拝をささげました。イエスも、たびたびエルサレムを訪れていますが、この時のエルサレム訪問は特別なものでした。イエスは日曜日にエルサレムに入り、同じ週の金曜日に十字架にかけられましたので、これは、イエスの地上のご生涯の最後のエルサレム訪問でした。この時、イエスはロバの子に乗って、エルサレムに向かいました。イエスはイスラエルの全土を旅行し、エルサレムにもたびたび訪れていますが、ロバに乗ったというのは、聖書のどこにも書かれていません。これがはじめてのことでしたから、聖書はこれを特別な出来事として書いています。このことには、どんな意味があるのでしょうか。

 実は、これはゼカリヤ9:9にある預言の成就なのです。そこにはこう書かれています。

シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。

 ゼカリヤ書では、人々を救い、世界を平和に導く王が来られると預言しています。この「王」とは救い主のことで、まさにイエスがそのお方です。この王は、ロバの子に乗って来るとあるとおり、イエスもロバの子に乗ってエルサレムに入城したのです。ロバは民衆の乗り物で、王はロバなどには乗りません。背の高い馬にのり、その上から人々を見下ろすのです。しかし、王であるイエスは、民衆の乗り物であるロバに乗りました。ロバに乗れば民衆と肩を並べて歩くことができます。ロバの子に乗れば、立って歩く人よりも背が低くなり、子どもでもその顔を間近に見ることができます。イエスがロバの子に乗る姿は、イエスの柔和さを示しています。ゼカリヤの預言は「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。」とありますが、この預言はイエスによって成就しています。

 ゼカリヤ9:10にはこう書かれています。

わたしは戦車をエフライムから、
軍馬をエルサレムから絶やす。
戦いの弓も断たれる。
この方は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、
大川から地の果てに至る。
救い主である王は平和の王です。聖書の他の箇所では救い主は「平和の君」(イザヤ8:6)と呼ばれています。イエスは、平和の王として世に来てくださいました。イエスがロバの子に乗ったのは、イエスの平和の王としての姿を表しています。戦争の時、王や兵士たちは軍馬に乗って戦います。ヨハネの黙示録では、白い馬に乗って戦うイエスの姿が描かれています(黙示19:11)。イエスは戦いの王でもあるのです。何と戦うのでしょうか。イエスは「戦争」と戦うのです。人類の歴史で戦いのなかった時代はなく、争いのなかった地域はありませんでした。イエスが十字架にかかり、よみがえられ、福音が世界に宣べ伝えられている現代もなお、戦争があります。それで、イエスは、もう一度世に来られ、あらゆる悪と、不真実とに戦いをいどみ、それに打ち勝たれます。その時、世界からあらゆる戦争が姿を消し、完全な平和がやってくるので、もう戦争のための馬はいらなくなるのです。イエスが馬にではなく、ロバの子に乗ったのは、イエスがそのような平和をもたらす王であることを表しています。

 イエスはもう一度来て、この世に平和をもたらしてくださる前に、私たちに、神との平和、たましいの平和を与えるため、十字架にかかってくださいました。パームサンデーのこの日に、エルサレムに入り、十字架への道を進まれたのです。そのことはゼカリヤ9:11に預言されています。

あなたについても、
あなたとの契約の血によって、
わたしはあなたの捕われ人を、
水のない穴から解き放つ。
ゼカリヤ9:11の「契約の血」という言葉は、ここの文脈にはそぐわないような言葉ですが、これは、イエスが十字架の上で流された血を示しています。イエスは、ロバの子に乗り人々と共に歩まれたお方です。民衆の背の高さまで降りてこられ、人々と肩を並べて歩いてくださいましたが、そればかりでなく、ご自分を人々よりも低くしすすんで人々のしもべとなってくださいました。十字架の上では、しもべよりも低く、神に呪われた犯罪人とさえなられたのです。このように低くなられたイエスだからこそ、私たちがこの世で体験するあらゆる苦しみや悩みを知って私たちをそこから救い出すことがお出来になるのです。ゼカリヤ書は「わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ。」と預言していますが、これは、私たちを霊的な暗黒から、たましいの渇きから、罪の束縛からの救い出してくださるイエスの救いを示しています。私たちは、このお方によって、たましいの暗黒から、罪の束縛から解放され、ほんとうの平和を体験しましたね。国を外敵から守り、経済的に繁栄させた王は多くいたでしょう。しかし、人々に霊的な救いを与えることのできる王は、イエスのほかありません。イエスの時代のユダヤの国はローマ帝国の属国として苦しんでおり、ユダヤの王となってローマ帝国から独立させてくれるという期待をイエスに対して抱いていました。しかし、イエスは、人々が期待する以上の王でした。人々を罪と死の帝国から救い出してくださる王なのです。ロバの子に乗ったイエスの姿は、イエスが、聖書の約束した通りの救い主であることを宣言しています。

 二、王を迎えた人々

 次にイエスを迎えた人々について学びましょう。

 イエスがロバの子に乗ると、人々は、イエスが進まれる道に自分たちの上着を敷き、また、手に手にしゅろの葉を持って「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」(ルカ19:38)と、大声で神を賛美しはじめました。人々は、イエスが王であることを悟り、王であるイエスを迎え入れたのです。ここから、私たちは、イエスを主として、王として迎え入れるのにふさわしい、私たちの態度について、ふたつのことを学ぶことができます。

 その第一は、イエスに対する従順です。イエスが乗ったロバの子は、ベテパゲの村にひもでつながれていたものでした。弟子たちがそれをほどいて連れて行こうとすると、イエスが言ったとおり、ロバの子の持ち主が「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と弟子たちに言いました。弟子たちは、この時、イエスに教えられたように、「主がお入用なのです。」と言うと、その持ち主は、ロバの子をほどいて弟子たちに渡したというのです。何に使うのか、どうするのかという質問は何一つありませんでした。「主がお入用なのです。」という言葉ひとつで、イエスが求めるものを差し出しています。ここに、イエスを王として迎える信仰が表われています。イエスを自分の王とするなら、ロバの子一匹どころか、羊も、山羊も、牛も、その他いっさいのものを差し出すことができるはずです。まして、このお方が、柔和な平和の王であれば、他の財産を差し出しても惜しくはないでしょう。イエスがいっさいの主であるお方であるなら、主が言われるままに従うのは当然ではないでしょうか。

 最近、ラジオで「私たちは、イエスに向かって、口で『主よ、主よ。』と言うが、しもべの態度をとっているだろうか。自分をしもべにしないかぎり、イエスを主とすることはできないのだ。」というメッセージを聞きました。ほんとうにそうだなぁと思いました。私たちはちいさなことをひとつするのでも、自分の持っているわずかなものをささげるのにも、あれこれ迷ったり、「私はまだ年が若いから。」「私はもう年だから。」「そんなことはやったことがないから。」などなどの言い訳けをイエスの前にならべてしまうことが多いのではないでしょうか。「主が望んでおられるか、どうか。」ではなく、「自分がしたいか、したくないか。」が先に来てしまうのです。「主が助けてくださるか、どうか。」ではなく、「自分の力でできるか、どうか。」という判断でものごとを考えてしまうのです。そうした場合、そこでは、イエスではなく、自分が主になってしまっているのです。自分の意見、判断を言う前に、祈ってみこころを尋ねてみましょう。「主がお入用なのです。」ということばに素直に従うこと、それが、イエスを主とすることです。私たちの主ほど柔和なお方はおられません。この柔和な主イエスに、私たちも柔らかいこころでお答えしましょう。それこそが、柔和な平和の王をお迎えするのにふさわしい態度です。

 主イエスをお迎えするもうひとつの大切なことは「賛美」です。ルカの福音書は、弟子たちが「喜んで大声に神を賛美し始めた」と書いています。フットボールでも、ベースボールでも、ひいきのチームが試合に勝つと、ファンは「喜んで!大声で!」その勝利をたたえますね。オリンピックなどの国際試合ですと、どこの国の人でも国旗を振りながら自分の国の選手を応援し、自分の国の選手がメダルを取ると、飛び上がって喜びます。そんな時に下を向いてぼそぼそと口ごもる人は誰もいません。私たちの主であり王である救い主イエス・キリストをたたえるのも同じです。いや、それ以上でなければならないでしょう。弟子たちはイエスの進まれる先々に、自分たちの上着を敷き、イエスはその上を進みました。しゅろの葉をかざして、イエスの後になり、先になって、賛美を歌いました。ローマ皇帝が行進する時には、おそらく、絨毯が敷かれ、ローマ皇帝の力を表わすバーナーなどが高く掲げられるのでしょうが、柔和な主イエスは人々が上着を敷くのをお許しになり、また、しゅろの葉のバーナーを喜んでくださいました。ローマ皇帝の凱旋の時には、専門の音楽隊がラッパを吹きならし、竪琴をかき鳴らすのでしょうが、イエスは弟子たちが詩篇のことば(詩篇118:25-28)から、おそらくは即興的にした賛美を受け入れてくださいました。私たちも礼拝のたびに、こころを主イエス・キリストに向け、主イエス・キリストを「喜んで!大声で!」賛美しましょう。

 三、王を迎えなかった人々

 弟子たちは、従順と賛美をもってイエスを迎えました。ところが、これを苦々しい思いで、冷たい視線で眺めている人たちがいました。「パリサイ人のある者たちが…」(39節)とあるように、ユダヤの指導者たちでした。彼らは、イエスを王として迎えることをしなかったばかりか、イエスのエルサレム入城を喜んで賛美している人々を黙らせようとしました。ひとりの人が群衆の中から「先生。お弟子たちをしかってください。」と声を張り上げました。これは、「おまえが教師なら、弟子をコントロールすべきだ。」という非難のことばでした。しかも、イエスの前に進み出てではなく、群衆の中にまぎれて声を出しています。正しい意見なら面と向かって言うべきなのに、これはずいぶん卑怯なやり方です。また、パリサイ人がイエスを「教師」と呼んだのは、弟子たちがイエスを「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。」と言って賛美したのに対して、「彼は、主でも、王でもない。一介の教師にすぎない。」と言いたかったからかもしれません。

 これに対してイエスは、「この人たちが黙れば、石が叫ぶ。」と答えました。「石が叫ぶ!」とはいったいどういうことなのでしょうか。これには二つの意味があります。

 まず第一に、造られたすべてのものは「イエスはキリスト、主である。」と賛美するということです。「石」には「つまらないもの」という意味があります。その最もつまらないものにいたるまで、すべてのものがイエスをほめたたえるのです。パリサイ人たちは、決して社会的地位の高くなかったイエスの弟子たちを見下げ、まるで「石ころ」のように扱っていました。しかし、皮肉なことに、その知恵や知識を誇っていたパリサイ人が、イエスが王であり、主であるという事実を認めることができず、「石ころ」扱いされた人々がイエスを王として迎え、賛美しているのです。ルカ3:8に「『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」とありますが、神は、ユダヤの指導者たちが見下げていた人々の中から、アブラハムの子孫を、まことの神の民を生みだし、その人々を主イエスを賛美する者にしてくださったのです。イエスは「主の御名によって来られる王」として、ほめたたえらえるべきお方です。もし、人々の口を封じるなら、今度は、石が叫び出します。イスラエルは石や岩の多いところです。エルサレムの町の家も、道路もみな石でできています。その石がすべて叫び出したら、どんなに大きな声になるでしょう。それこそ、割れるような叫び、地面が響くような声になることでしょう。イエスは、「石が叫ぶ」前に、私たちがイエスを主とし、王としてほめたたえることを望んでおられるのです。

 第二に、これは、イエスを王として、主として迎え入れなかった人々へのさばきを意味しています。イエスはこの後、エルサレムの滅亡を涙を流しながら預言して、「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、…おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日がやって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:43ー44)と言われました。このことばは、それから四十年して、紀元70年に、ローマがエルサレムを滅ぼした時に成就しています。神殿には、いたるところに金がちりばめられていたため、ローマ軍は石という石をみな崩し、それに火をかけ、溶け出した金を集めました。神殿の石も、宮殿の石も、そして、一般の民家の石も、ローマ軍の攻撃に対してみな悲鳴を上げたことでしょう。「この人たちが黙れば、石が叫ぶ。」というのは、平和の王であるイエスを迎え入れなかったことによってエルサレムに剣が投げ込まれ、救い主であるイエスを信じなかった人々がエルサレムとともに滅びていくという悲しい末路の預言でもあったのです。

 では、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちは、イエスが主として、王として私たちを訪れておられることを知るべきです。あなたは、今までイエス・キリストをどのようなお方と考えてきましたか。もし、たんに宗教の開祖、道徳の指導者と考えていたとしたら、それだけでは、パリサイ人がイエスを「教師」と呼んだのとあまりかわりません。イエスは教師以上のお方です。私たちの王であり、主であるお方です。そのようなお方としてイエス・キリストを求めてください。イエス・キリストを神の御子として、救い主として、あなたの人生に受け入れてください。

 すでにイエス・キリストを救い主として人生に受け入れた者にも、イエス・キリストは、日々に訪れてくださいます。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)とのみことばは、ノンクリスチャンのためばかりでなく、クリスチャンのためにも語られているみことばです。あなたはイエス・キリストを主として告白しましたが、人生の具体的なあのこと、このことの中に、イエスを主として迎え入れているでしょうか。キリストは日ごとに、みことばをもって、私たちを訪れてくださっています。「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」と言われることの無いように、キリストの訪問を、素直な心で、喜んで受け入れましょう。そして、主イエスが私たちの内に、私たちの間でしてくださる救いのわざを、おおいに賛美しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたのお名前と、あなたが遣わしてくださった主イエス・キリストのお名前を心から賛美いたします。王であり、主であるイエスを心に迎え入れる私たちとしてください。ひとりびとりを、たましいのうちに、主イエスがその十字架によって勝ち取ってくださったほんとうの平和を豊かに体験するものとしてください。この受難週に、主イエスの十字架をさらに深く思い、その恵みを受け入れることのできるように導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/9/2006