つぐないの恵み

ルカ19:1-10

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19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 昨年の年間聖句は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」でした。それで、私はイエスさまのくびきを表わすストールをつけるようにしました。今週、そのストールの色が変わったのに気がつきましたか。白から紫になりました。公現節(エピファニー)が終わり、受難節(レント)に入ったからです。ヨハネ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあるように、エピファニーには、イエス・キリストが人となって世に来られ、私たちに神の栄光をあらわしてくださったことを覚えます。それで、私のストールも神の栄光をあらわす「白」だったわけです。レントは灰の水曜日(アッシュ・ウェンズデー)からイースターまでの期間で、この期間は、悔い改め意味する「紫」を使います。これを典礼色(リタージカル・カラー)と言い、リタージカル・カラーには他に「赤」と「緑」があります。リタージカル・カラーはもちろんストールだけでなく、十字架にかける布、プルピット・スカーフ、バーナーなど教会の装飾のすべてに使われます。伝統的な教会では、レントの期間お花をかざらず、パームやデートなどの緑の葉を使いますので、アッシュ・ウェンズデーを境に、教会が紫と緑で飾られ、教会に入ると、今がレントの期間であることが一目でわかるようになります。礼拝の中心は、神のことばを聞くことにあり、耳から入ってくる部分が多いのですが、目から入ってくるものも大切ですので、それにも注意を払う必要があります。みなさんの家でも、部屋を飾るときには、神や主イエス・キリスト、聖霊、また信仰を思い起こすもので飾ることができたら良いと思います。十字架や聖画、聖書のことばの入ったもので飾り、そうしたものを目にしていると、私たちの思いも神に向けられていきますが、他の宗教のものや異様な絵などを飾り、そうしたものをいつも見ていると精神に異常をきたすこともあります。そんなわけで、私のストールもみなさんを礼拝への思いへと導くものになればと願っています。

 さて、私たちは、このレントの期間、「12ステップ」に従って悔い改めについて学んでいます。ステップの4~7は悔い改めを教えています。悔い改めとは罪を認めること、罪を悲しむこと、罪を告白することであると学びました。悔い改めは過去を後悔することではなく、将来に向かうことであり、神が私たちを造り変えようとしておられる新しい存在へと変化していくことであることも学びました。

 ステップの8と9では、悔い改めから償いへと進みます。ステップ8と9はこう言っています。「私は、自分が害を与えたすべての人々の名をあげ、その人たちすべてに心からそのつぐないをする気持ちになりました。」「私は、機会のあるごとに、その人たちへのつぐないを、その当人や他の人を傷つけない限り、直接にすることにしました。」12ステップでは悔い改めと償いはとても自然な形で結びついています。聖書も悔い改めから償いに進むことを当然のこととして描いています。今朝の箇所はそのひとつです。

 一、悔い改めたザアカイ

 ここには、多くの人に親しまれているザアカイの物語が書かれています。ザアカイのお話はこどもたちも大好きで、何度くりかえし話しても、興味を持って聞いてくれます。私がみなさんにザアカイの話をするのは、2001年12月16日に、脚色を入れてザアカイの一人芝居をして以来ですからずいぶんたちます。みなさんの中にははじめてこの話を聞く人も多いかもしれません。

 ザアカイは取税人で、エリコの町一番の嫌われ者でした。当時、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていましたが、誇り高いユダヤの人々は、ローマ人の言いなりになってローマに税金を取られることを苦々しく思っていました。取税人と呼ばれる人々は、ユダヤ人でありながらローマに雇われ、その手先になって、同じユダヤ人からローマのために税金をまきあげていたのです。ですから、取税人は「ユダヤ人のたましいをローマに売り渡した卑怯な奴ら」とみなされていました。それに、取税人の多くは、ローマの権威をかさに来て、人々を脅したり、決まった税金以上のものを人々から取り立てていました。ローマに納めた残りを自分のふところに入れるなどの不正をしていたのです。ザアカイは、そんな取税人たちのかしらでしたから、エリコの町の嫌われ者だったのは当然でした。

 イエスがエリコの町に行かれたとき、人々はこぞってイエスを歓迎しました。きっと多くの人が「イエスさま、私の家に来てください。」と、イエスを招待したことでしょう。こんなに有名で、しかも、大きなわざをなさる人物を客として迎えるのは名誉なことだったからです。イエスはこの町の誰の家に行って泊まるのでしょうか。人々は「きっと、この町の長老の家に違いない。」「いや、あの名士の所だ。」と予想を立てたでしょう。ところが、どの予想もすべて外れました。イエスは「まさか」という人の家に行ってそこの客となったのです。その人が、取税人ザアカイだったのです。

 イエスはエリコの町の正しい人のところにでも、立派な人のところにでもなく、町一番の悪人、ザアカイの客となったのです。それまで「熱烈歓迎」の横断幕をかかげてイエスを町に迎えたエリコの人々は、たちまち興ざめしてしまって、今度はイエスに向かってブーイングを投げかけました。人々の間に「あの方(イエス)は罪人のところに行って客となられた。」(ルカ19:7)というつぶやきが沸き起こりました。もし、イエスが民衆のヒーローでありたいと思われたのなら、こんなことをすべきではありませんでした。イエスは、人々の期待を裏切ったのです。もし、アメリカの大統領候補が、いかがわしい人物とかかわりがあれば、たちまち票を失うことでしょう。取税人ザアカイの客になることによって、イエスの評判は台無しになってしまったのです。イエスはなぜ、そんなことをなさったのでしょうか。それは、イエスご自身が言っておられるように、それこそが、イエスの使命だったからです。イエスは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたのです。イエスが罪人のところに行かれるのは当然のことだったのす。イエスは「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と言っておられます。

 少し横道にそれますが、私は、ここでイエスがザアカイを「失われた人」と呼んでおられることにとても感動しています。「失われた人」とは、ルカ15章で、イエスがすでに話しておられたように、本当は値打ちのあるものなのに、神から遠く離れているために、その価値が失われてしまっている人のことです。ルカ15章には、三つの失われたものがありました。羊と銀貨と息子です。羊は羊飼いにとって財産であり、銀貨はそれを持っていた女性にとっての宝物であり、息子は父親にとって大切なものでした。しかし、羊は羊の群れから迷い出、銀貨は宝石箱から失われ、息子は家族から遠く離れてしまうことによって、本来の価値を失ってしまったのです。すべての人は神のかたちに造られ、どの人も、かけがえのない存在なのに、多くの人は、ほんとうの意味での自分の価値に気付かず、それを見失っています。それで、人々は、自分を傷つけたり、平気で他の人を傷つけるようになったのです。「失われた人」ということばは、そんな人間への深い神のあわれみのことばです。人々は「おまえなど人間の値打ちもない奴だ。」という軽蔑の意味を込めて、ザアカイを「罪人」と呼びました。しかし、イエスはザアカイを「失われた人」と呼ばれました。人の目には、ザアカイは害ばかりあって益のない人間に見えたかもしれませんが、イエスの目には、ザアカイは失われてはいても、本来は価値を持った人であり、だからこそ、その価値が回復されなければならない人だったのです。

 イエスは「失われた」ザアカイのところに来られ、ザアカイは悔い改めてイエスを迎え入れました。ザアカイは神に見出され、神を見出し、本来の自分を回復したのです。ザアカイは「アブラハムの子」(ルカ19:9)になりました。アブラハムが「信仰の人」であり、「正しい人」であり、「神の友」と呼ばれて神の恵みを受け、神の約束にあずかり、神の祝福を受けたように、ザアカイもアブラハムと同じ神の約束と祝福にあずかる者になったのです。

 主イエスは今も「失われた人を捜して」おられます。私は失われてなどいない、何も失っていないと思ってはいても、自分のほんとうの価値を知らず、ほんとうに価値ある生き方をしていなければ、その人は失われた人なのです。ザアカイのように人の目に問題が見える人だけが「失われた人」というのではありません。自他ともに大丈夫と思える人々の中に「失われた人」がいます。自分が失われていることを気づいていないのは不幸なことです。しかし、自分が失われていることに気づき、素直になって悔い改めるなら、誰でも、ザアカイのように神の約束と祝福にあずかることができるのです。

 二、償いを申し出たザアカイ

 さて、悔い改めたザアカイは、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言って、償いを申し出ました。悔い改めから償いが出てくるのは自然なことです。ほんとうに悔い改めた人の心には、神に対して悔い改めるだけではなく、自分の罪によって他の人を傷つけたことを償いたいという心が湧き起こってくるものです。

 神は私の罪を赦してくださったのだから、人への償いなど考える必要はないというのは、聖書の教えではありません。聖書ははっきりと償いを教えています。たとえば、出エジプト記22章には「もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。」(4節)「家畜に畑やぶどう畑の物を食べさせるとき、その家畜を放ち、それが他人の畑の物を食い荒らした場合、その人は自分の畑の最良の物と、ぶどう畑の最良の物とをもって、償いをしなければならない。」(5節)などという細かい規定があります。悔い改めは神と私との関係を正しくするものです。しかし、神は、神との関係だけでなく、人との関係も正しくするように教えておられます。償いは人との関係を正しくするものです。

 人から借りていたお金を返していなかったこと、会社のものを無断で持ち出して使っていたことなどを、クリスチャンになってから示され、お詫びをし弁償したというあかしを何人かの人から聞きました。そのお詫びが快く受け入れられ、「弁償なんていらないよ。」と言ってもらい、神からばかりでなく、人からも赦されて、平安と喜びに満たされたという話や、「黙っていれば分からないのに、よく正直に話してくれましたね。」と言われ、叱られるどころか、かえって尊敬され、信頼されるようになったという話を聞きました。私も、そんなあかしを聞いて、小学生のころ学校の図書を失くしてしまったままにしていたことを思い出し、別の本を買って小学校に持っていったことがあります。皆さんにもきっと同じようなあかしがあることでしょう。お詫びをし、償いをするというのは、勇気のいることです。また、いつどのように償いをするかについては、判断が難しいこともあります。しかし、神の導きをいただき、知恵をいただき、勇気をいただいてそのことをするとき、大きな祝福があります。

 しかし、償いをしようとするとき、忘れてはならないことがあります。それは第一に、償いは悔い改めの代りにならないということです。罪の赦しをもたらすのは、神への悔い改めであって、償いではありません。「私は、「償いにこんなことをしますから私の罪を赦してください。」と言って神と取引することが悔い改めではありません。悔い改めは神との取引ではなく、神への降伏です。それは、「罪人の私をあわれんでください。」と祈って、自分を神に明け渡すことです。ザアカイの申し出た償いは真実な悔い改めから出たものでした。彼は財産の半分を施し、だまし取ったものを四倍にして返すと誓っていますが、償いだけなら、施しはいらないはずです。また、律法の規定によれば弁償するときは二倍にして返せばいいのであって、四倍にする必要はなかったのです。ザアカイは、律法が求める以上の償いを申し出ています。それは、彼がこころから悔い改めたことを表しています。ザアカイがいくら金持ちあったとしても、財産の半分を施し、だまし取ったものを四倍にして返せば、無一文になってしまうかもしれません。これはこころからの悔い改めがなければ言えないことばです。もちろん、神はザアカイがその償いを実行するのを助けてくださったことでしょうが、イエスが喜ばれたのは償いの行為だけでなく、償いを生み出したザアカイの悔い改めでした。主は真実な悔い改めから出た償いを喜んでくださるのです。悔い改めのない償いは単なるパフォーマンスで終わってしまいます。

 第二に忘れてならないのは、イエス・キリストこそが、私たちの罪を完全に償ってくださるお方だということです。私たちが犯した罪は、かならずしも人の物を盗んだとか、お金をごまかしたなどという形のはっきりしたものばかりではありません。人の栄誉を盗む、自分の心をごまかすといった目に見えない罪のほうが多いかもしれません。そうしたものは償おうとしても具体的には何もできないことが多いのです。何事においても不完全で限界のある私たちは、悔い改めや償いにおいても不完全です。思い出せるかぎりの罪を思い出して告白しても、なお気づいていない罪があります。完全に悔い改めたつもりでも、私たちの完全は、百パーセントの完全ではなく、どこかに足らないところがあります。人間の力で償いきれないことが何と多いことでしょう。しかし、イエス・キリストはそんな私たちのために、完全な償いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストはご自分を、私たちの罪の償いのために差し出してくださったのです。その頭に茨を突き刺され、その両手、両足を十字架に釘づけにされ、そしてわき腹を槍で突き刺されました。イエスは神であり、栄光の主でした。病気をいやし、らい病をきよめ、悪霊を追い出し、嵐を沈め、死人さえも生き返らせることのできる、神としてのお力を持っておられました。しかし、十字架の上で、イエスは神としてのお力を何一つ使ってはおられません。イエス・キリストは、そのたましいとからだだけでなく、ご自分が神であられること、その神性(divinity)さえも捧げられたのです。このようなキリストの償いを覚えていないと、償いは自己満足で終わってしまいます。すこしばかりチャリティに寄付したから、コミュニティのボランティアをしたから神からの赦しを得ることができたなどと考えるとしたら、それはとんでもない思い違いです。イエス・キリストの償いを知っている者は、決して償いを自己満足のためにはしません。むしろ、償っても償いきれない負債を背負っていることをいつも意識します。自分の償いがこれで良いと安心してしまうのでなく、自分を神にささげるよう勤め励むのです。

 使徒パウロはそのような人でした。パウロは、かつてクリスチャンを迫害したことを、生涯忘れませんでした。もちろん、その罪が赦されていることを確信していましたが、その償いを生涯かかって果たそうとしました。クリスチャンを鞭打つことによってキリストのからだを鞭打ったパウロは、今度は、キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの足らないところを補おうとしました(コロサイ1:24)。実際、パウロはそのからだに、キリストのゆえに、数多くの鞭を受け、彼のこころには諸教会のための重荷と労苦とがいつもありました。教会を迫害してキリストの福音を押し止めたパウロは、福音を伝えることによって、その負債を支払わなければならないと考え(ローマ1:14)、死に物狂いになって伝道しました。みなさんの中には、「自分はたくさんの罪を犯して、何をどこから償ってよいかわからない。」と言う人もあれば、「私は子どものころからのクリスチャンで、償わなければならないようなことをした覚えはない。」という人もいるでしょう。しかし、誰であっても、それに気がつこうがつくまいが、私たちは、神の栄光を傷つけ、多くの人々を傷つけており、償わなければならないものを持っているのです。悔い改めによって自分の罪が分かれば分かるほどイエス・キリストの償いに頼るようになります。また、イエス・キリストに従うことができればできるほど、その償いに生きるようになることでしょう。そのとき、私たちの償いは重苦しい義務でも、自己満足でも、神との取引でもなく、キリストの償いの恵みを反映する祝福に満ちたものになるのです。

 (祈り)

 あわれみ深い父なる神さま、あなたは悔い改める者に罪の赦しを与えてくださったばかりでなく、償い切れない私たちの罪を、イエス・キリストによって償ってくださいました。私たちにキリストの償いの恵みを深く教えてください。そして、その恵みのゆえに、私たちが勇気をもって、また謙遜に、償いのわざを行うことができるように導いてください。自己満足からの償いはかえって人を傷つけ、あなたの十字架の償いを小さなものにしてしまいます。私たちの償いのわざが、あなたの恵みをあらわし、人々の益となるように、私たちに知恵を与え、導きを与えてください。とくにこのレントの期間が、償いのわざに目覚め、それに励むときとなりますように。主イエス・キリストによって祈ります。

2/10/2008