ほんとうの忠実さ

ルカ19:15-24

オーディオファイルを再生できません
19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
19:16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
19:18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
19:19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
19:20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
19:21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
19:23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』

 一、再臨に備える忠実さ

 聖書は「世の終わり」について教えています。地震や火山の噴火、洪水や干ばつなどの大規模な自然災害、また疫病や戦争などが「世の終わり」のしるしであると言われていますが、今、私たちはそれを目の当たりにしています。「世の終わり」には独裁的な政治権力と国際的な経済力を持った者たちが結託して世界を支配し、人々の生活が管理され、自由が失われ、信仰を持つ者が圧迫され、迫害を受けることも預言されています。そうしたことは、今まさに起こっており、「世の終わり」が始まっていると言ってよいでしょう。

 しかし、忘れてはならないのは、聖書が教えているのは「世の終わり」という希望のないことではなく、「神の国のはじまり」という希望に満ちたことだということです。世が終わるのは、神の国が始まるためです。古いものが滅び、滅びることのない新しいものが生まれるのです。ですから、まことの神を信じ、イエス・キリストを信じる者たちは、「世の終わり」という言葉に惑わされたり、怯えたりしません。むしろ、「神の国のはじまり」を待ち望むのです。

 ストックホルム国際平和研究所によると2021年1月現在、アメリカは5,800の核兵器を持ち、うち1,800がアメリカ国内とドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーに配備されています。ロシアは6,375の核兵器を持っており、かつてはウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンに配備していましたが、今は1,625の核弾頭を自国にだけ配備しています。他にイギリス、フランス、中国が相当数の核兵器を持ち、配備済みです。これらの国々は核兵器拡散防止条約に入っていますが、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルは核兵器を持っていても条約に加わっていません。こうした国々が核のボタンを押し、互いに報復すれば、確実に世界は終わります。それでも、世の終わりは、世界を終わらせたいと願う人物の意志や力、または人が決めた方法によってもたらされるのではありません。世の終わりと神の国のはじまりは、その王であるイエス・キリストが再び世に来られることによってもたられます。キリストが再び世に来られること、それは「キリストの再臨」と呼ばれています。

 イエスは、まだ地上におられたときから、ご自分が十字架と復活ののち、昇天し、再びこの世に来られることを預言しておられました。きょうの「ミナのたとえ」でも、そのことが預言されています。11節にこうあります。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」群衆の多くは、イエスがエルサレムに入城したら、自らが王であると宣言して、イスラエルをローマ帝国から独立させてくれると期待していました。

 しかし、イエスは、その時は今ではないと言われました。12 節に「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」とあるように、イエスは一度世を去ることが示されています。しかも、イエスが世を去るのは、人々に憎まれ、斥けられ、十字架にかけられることによってだったのです。14節に「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」とあるのは、そのことを指しています。イエスは、これらの言葉によって、十字架と復活、昇天と再臨を預言しておられたのです。イエスはすでに天で「王位を受けて」おられます。そして時がきたら、もう一度、この世界に帰ってこられます。

 イエスの昇天からすでに二千年以上がたちました。あとどれくらい待てば、イエスが再臨されるのか、それは誰にも分かりません。イエスご自身も「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(マタイ24:36、マルコ13:32)とおっしゃいました。これは、イエスが再臨の時期については父なる神に委ねておられることを意味します。御子イエスでさえそうなら、私たちはなおのことです。私たちが知るべきことは再臨の年月日ではありません。再臨に備えてどう生きるかということです。「ミナのたとえ」は、私たちにそのことを教えるために語られました。

 二、賜物を用いる忠実さ

 このたとえでは、主人が10人のしもべたちに、それぞれ1ミナづつ与えたことが書かれています。イエスの側近くには「十二弟子」がいましたが、イエスは12人ではなく、10人のしもべを登場させています。それによって、特別に選ばれた人々だけではなく、すべての信仰者に「ミナ」、つまり主から与えられた努めとそれを果たす賜物とが与えられていることを教えようとされたのです。

 「ミナ」はお金の単位で100デナリに相当します。1デナリは1日分の賃金ですから、1ミナは100日分の賃金に相当します。そんなに大きな額ではありませんが、小さい額でもありません。1ミナだけでは新規の商売をはじめるのは難しいでしょうが、この10人のしもべはすでにそれぞれの商売をしていて、資本を持っており、1ミナは追加の資金だったと思われます。10人が10人とも主人から1ミナづつ平等に受け取りました。このように、私たち信じる者には、ひとり残らず、平等に賜物が与えられているのです。聖書は、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(ペテロ第一4:10)と言って、賜物の無い人など誰もいないことを教えています。

 「平等に」と言っても、皆が同じ賜物を持っているのではありません。それぞれに違います。誰もがその人でなければできないものを与えられています。ある人には物事をきちんと整理し、準備する賜物があります。病気の人を見舞って世話をする賜物を持った人もあれば、教会を休んだ人に電話したり、カードを送ったりする賜物を持った人もあります。人を暖かく迎えることができる人、特に何かをすることがなくても、そこにいるだけで安心感を与えてくれる人もいます。こうしたことは、どれも素晴らしい賜物です。賜物は人によってそれぞれ違います。違うからこそ互いに仕え合って、足らないところを埋め合わせることができるのです。

 主人は、帰ってきた時、10人のしもべを呼び出して、それぞれがどんな商売をしたかを報告させました。最初の人は1ミナを元手に10ミナを儲けました。主人はこの人を褒めて言いました。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」二番目のしもべは1ミナを元手に5ミナを得ました。主人は彼に5つの町を治めさせました。主人は、儲けを得たことを褒めたのではありません。彼らが主人から与えられた努めに忠実であったことを褒めたのです。

 ところが三番目のしもべは、こう答えました。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」このしもべは主人から預かった1ミナを使いませんでした。その言い訳けに主人を「計算の細かい、きびしい、恐ろしい人」と言い、「預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取る不公平な人」とさえ言ったのです。主人はその言葉を聞いて、このしもべから1ミナを取り上げてしまいました。

 このしもべは主人を全く誤解していました。主人はお金のことばかり気にしているから、要するにお金を無くさないようにすれば良いのだと考えたのです。しかし、主人がしもべたちに期待したのは「儲け」ではありません。与えられたものに対する「忠実さ」でした。たとえ商売に失敗して1ミナを失くしたとしても、主人はしもべが努力したことを認めたでしょう。主人は自分が王となったなら、しもべたちに町々を治めさせるつもりでした。今日でいえば、知事や市長にすることです。彼らは、もはや、しもべではなく、人々の上に立つ者になるのです。主人は、その立場に立つための能力を、1ミナを活用することによって得させようしたのです。主人が願ったのはしもべたちが、その忠実な努力によって、人間として成長することでした。ところが、不忠実なしもべはそうした主人の心を理解しませんでした。自分の狭く小さな考えによって主人を推し量り、主人について間違ったイメージを持っていたのです。

 私たちも、主から与えられた努めについて、失敗を恐れて何もしないでいたら、主はそれを悲しまれます。それは、決して忠実な生き方ではありません。主から与えられたものを眠らせたままにしているのは、大きな不忠実なのです。そして、そうした消極的な生き方をするのは、主がたとえ失敗しても赦し、癒やし、力づけて、何度でも立ち上がらせてくだる寛大なお方であることを見失っているからなのです。

 主は、どんな小さなことでも、私たちが主のためにしたことを覚えていて、それに報いてくださいます。「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」(ヘブル6:10)との御言葉を覚えていましょう。主は真実なお方です。そのことを知り、信じるとき、私たちもまた、主に対して忠実でありたいと願い、そのように生きることができるようになるのです。

 三、福音を証しする忠実さ

 きょう、私たちは、一人ひとりに努めと、それを果たすための賜物が与えられていることを学びました。その賜物の中には「福音」が、その努めの中には「福音を証しする」ことが含まれています。私たちは、イエス・キリストが私たちを救ってくださるというグッド・ニュース、「福音」を聞いて救われました。ですから、救われた人は誰もが「福音」を持っています。そして、「福音」を持つ者には、それぞれが自分の言葉で福音を語り、自分の生活を通して福音を証しする努めが与えられています。

 福音を語るといっても、誰もが宣教師になり、伝道者になるわけではありません。神が私たちに求めておられるのは、自分のいる場所で、身近な誰かに福音を証しすることです。その人の救いのために祈ることです。それは、さきほど話したように、声をかけたり、電話をしたり、教会に誘うといった小さなことかもしれません。しかし、そうした小さなことに忠実であることを神は求めておられるのです。

 私たちは福音を証しする自由をあたりまえのようにして享受していますが、それは最初からあったものではなく、初代のキリスト者たちが命がけで勝ち取ったものです。もし私たちが福音を正しく理解せず、福音に忠実でなければそれは、その自由は奪い去られてしまいます。実際、世界中で福音を証しする自由が奪われています。信仰者が自らそれを放棄しています。世の終わりが近づくにつれて、その自由は狭められ、やがて、福音を語れなくなる時代がやって来ます。その時が来ないうちに、私たちは、福音を証しすることにおいて忠実でありたいと思います。それが再臨を待ち望む私たちに求められていることなのです。

 (祈り)

 父なる神さま、「世の終わり」の近いことを感じさせるこのごろですが、それだからこそ、私たちが今しなければならないことが何なのかを教えてください。そして、どんな時でも、真実なあなたに対して忠実に生きることができるよう助け、力づけてください。主イエス・キリストの再臨を待ち望み、主の御名で祈ります。

3/27/2022