18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
18:3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
18:4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう。』」
18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」
一、忍耐と人生
現代は、なんでもすぐに手に入り、忍耐ということが忘れられている時代です。以前は、子どもたちが、誕生日やクリスマスまで待たなければならなかったものも、今では「欲しい」と言えばすぐに買ってもらえるようになりました。その結果、今の若者たちはすぐに「切れて」しまったり、物事を投げ出したりするようになりました。しかし、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36)と、聖書が言っているように、本当に良いものは、簡単には手に入りません。それらを手に入れるためには、なによりも「忍耐」が必要なのです。偉大なことを成し遂げた多くの人は、天才的なひらめきによってではなく、失敗しても、あきらめず努力した、その忍耐によって成功を収めたのです。
ウルワースは最初、四つ店を開きましたが、三つは失敗して閉店しなければなりませんでした。しかし、彼は、あきらめないで、後に、全米にチェーン店を持つまでになりました。ペリー提督は七回、北極を目指しましたが、すべて失敗しました。しかし、あきらめないで八回目に北極点に到達しました。エディソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試しました。オスカー賞で有名なオスカー・ハマスタインが「オクラホマ」で成功するまで、6回のショウはすべて失敗でした。しかし、「オクラホマ」は2,248回ものショウを重ねることになったのです。ベーブ・ルースは714本のホームランを打ちましたが、その倍以上の空振りをしています。
「キリストにはかえられません」の賛美歌で有名なジョージ・バーナード・ショウは子どものころ、まったくスペルができませんでした。ベンジャミン・フランクリンは算数が苦手で、アインシュタインは「勉強についていけない子」と思われて学校から追い出されたことがありました。ユリシーズ・グラントは、軍務についている時に酒を飲み、酔っ払ったため、軍を辞めさせられました。それでビジネスをしましたが、失敗し、農業も試してみましたが、それも失敗しました。彼は、働き盛りの四十代に、薪ひろいをし、それを道端で売っていたのです。しかし、それでも彼はあきらめませんでした。そして、彼は、その「忍耐」によって、ついにアメリカ大統領にまでなったのです。
どんなことでも、あきらめずに、忍耐をもってやり続けることによって成功を手にした実例は、他にも数えきれないほどあります。困難や妨げがあっても、あきらめずに忍耐深く求め続けるとき、その求めは実現するのです。
二、忍耐と祈り
このように、すべてのことに忍耐が必要であるなら、祈りに忍耐が必要なのは言うまでもないことです。主イエスがなさった「不正な裁判官とやもめ」のたとえ話は、わたしたちに忍耐深く祈ることを教えています。
聖書では「やもめ」と「みなしご」は社会的に一番弱い存在として描かれています。やもめであるというだけでも大変なことなのに、このやもめはその上、彼女を訴える人がいて、裁判に巻き込まれていました。夫が彼女に遺していった財産をめぐって、夫の親族が権利を主張し、やもめを訴えていたのかもしれません。もしそうなら、このやもめは生活のただひとつの支えまでも取り上げられようとしていたのです。そんなやもめにとってただひとり、頼みとするのは裁判官でした。ところが、彼女の町の裁判官は、「神を恐れず、人を人とも思わぬ」とんでもない裁判官でした。わいろをもらって、わいろの多いほうに有利な裁判をするようなことをしていたのでしょう。やもめにはわいろを贈る力もありませんから、こんな裁判官にあたったやもめは、二重、三重の苦しみを背負わされたことになります。
しかし、それでも、このやもめはあきらめませんでした。朝、裁判官が裁判所に出かけてくるなり、裁判官に向かって「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください」と叫びました。昼、裁判官が休憩を取ろうとすると、再びやってきて、「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください」と願いました。夕方、裁判官が、家に帰ろうとすると、またやってきて「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください」と嘆願するのでした。
こんなことが毎日続いたので、さすがの裁判官も、ほとほと困り果てました。そして心の中でこう言いました。「わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう。」この裁判官が自分で「わたしは神をも恐れず、人を人とも思わない」と言っているところはとても滑稽です。自他ともに、不正な裁判官であることを認めていたのです。そんな裁判官なのに、「やもめのためになる裁判をしてやろう」と考えるようになったのはなぜでしょう。やもめをかわいそうに思ったからでも、彼の良心が目覚めたからでもありません。やもめがあまりにうるさいから、彼女のためになる裁判をしてやったら、もう自分を煩わせることはないだろうという、きわめて利己的な理由からでした。しかし、理由はどうあれ、このやもめは、粘り強く裁判官に願い続けることによって、彼女を訴える者から救われたのです。
三、忍耐と信仰
主イエスは、たとえ話に続いてこう言われました。「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。」不正な裁判官でさえ、あきらめないで、しつこく願えば、その祈りを聞き届けました。そうなら、正義の審判者である神が祈りを聞いてくださらないはずがないのです。みずから「みなしごの父、やもめの保護者である」(詩篇68:5)と言われる、あわれみ深い神が、わたしたちを顧みてくださらないはずがないのです。主イエスは、神の真実と愛を、このたとえ話をとうして教えようとされたのです。
主イエスは、マタイ7:9-10でこう言っておられます。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」ふだん人々に乱暴を働いている暴力団員のような人でも、家に帰れば自分の子どもをかわいがると聞いています。罪を持ち、利己的な人間であっても、自分の子どもに対しては自分のことを後回しにしてでも、よくしてやろうとするとしたら、まして神がわたしたちよくしてくださらないはずがありません。
主イエスがたとえ話でとんでもなく悪い裁判官を登場させたのは、この裁判官と神とを対比させるためでした。この裁判官のような悪人でも、しつこく願えば動くとしたら、まして、真実であわれみに満ちた神が、わたしたちの祈りに答えて、心を動かし、手を動かしてくださらないわけがないのです。だから、わたしたちは、たとえ現実が願ったとおりに変わっていかなくても、不信仰になったり、あきらめたりしないで祈り続けるのです。真実な神にささげられた祈りは、決して、むなしくは終わらないのです。
神は、たとえ話の裁判官とはまったく正反対のの真実であわれみ深いお方です。しかし、やもめの姿はそのまま、わたしたちの姿です。わたしたちは、たとえ話のやもめと同じように、救いを必要とする者です。自分で自分を救う力のない者たちです。やもめに忍耐深い嘆願が必要だったように、わたしたちにも、忍耐深い祈りが必要なのです。わたしたちに忍耐を与える信仰が必要なのです。
主イエスはこの箇所の最後で「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われました。主イエスがわたしたちに期待しておられる信仰とはどんな信仰でしょうか。それは、わたしたちもまた、やもめのように自分の無力を知って、神に頼り、神に救いを願い求める信仰です。旧約の神の民は神のあわれみによって救われていることを忘れ、自分たちの力に頼るようになりました。新約時代の神の民が、同じ過ちを犯さないようにと、主は戒めておられるのです。主がわたしたちに求めておられるのは、どんなときもへりくだって神に信頼し、忍耐深く祈ること、祈り続けることです。信仰や祈りは、いつも「現在進行形」でなければなりません。信じ続けること、祈り続けることです。そうでないと神とのまじわりが途絶え、祈りの答えを受け取ることができなくなってしまいます。
「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください。」(ルカ11:1)これは今年の主題聖句でした。わたしたちはこの一年を、この御言葉に導かれて過ごしてきました。わたしたちは祈ることを教えられてきたでしょうか。わたしたちは祈りの達人になったわけではありません。わたしたちの祈りは依然として貧しいままかもしれません。しかし、きれいな言葉で祈ることよりも、もっと大切なことは、やもめのように、真剣に、本気で、懸命に祈ることです。すぐに聞かれないからといって、あきらめたり、投げやりにならないことです。神のあわれみにすがって祈るしか他に方法がない、そんな切実な思い、信仰があれば、そこから忍耐深い祈りが生まれてきます。今年を第一歩として、新しい年もまた、自分自身の信仰の成長のために、家族の救いのために、教会の必要のために、あきらめずに祈り続けたいと思います。そして、忍耐深く祈ることによって得られる神の大きな恵みを見せていただきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちは祈りにおいても忍耐の足らない者たちです。それは、わたしたちが、あなたがどんなに真実であわれみ深いお方かを忘れることが多く、自分が無力な者であることを認めることが少ないからです。わたしたちにあなたのご真実を教え、わたしたちの無力を悟らせてください。そして、そこから生まれる真剣で、切実な祈りへと導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
12/27/2015