18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。
18:16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
18:17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
8月12日からVBS(夏期聖書学校)がはじまります。今年のVBSの主題は「イエスさまとこどもたち」ですが、この主題は、今年だけでなく、どの年のVBSにも共通した、基本のテーマだと思います。「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。」このイエスのお言葉は、私たちに何を教えようとしているのでしょうか。
一、こどもへの愛
それは、第一に、イエスのこどもへの愛を教えています。
イエスが人々を教えておられたとき、大人たちは、イエスに、こどもたちに手をおいて祝福してもらいたいと願っていました。ところがイエスのまわりには、大勢の大人たちが取り囲んでいます。後ろのほうでこどもといっしょにイエスのお話しを聞いていた人たちは、こどもの手を引いて前に出ようとしても、そう簡単に前に出ることはできません。それで、この人たちは、こどもだけを集め、「さあ、イエスさまのところに行って祝福してもらってきなさい」と送り出しました。こどもたちは、大人たちの間をすり抜けて、一斉にイエスのところに駆け出したことでしょう。
これを見た弟子たちは、こどもたちを叱りつけました。「なんで、こどもがこんな前に出てくるんだ。こどもは後ろのほうで、邪魔にならないよう静かに遊んでいればいいんだ」と言ったかもしれません。しかし、イエスは、それをさえぎって、こどもたちを自分のそばに呼び寄せ、ひとりひとりに手を置いて祝福されました。イエスはこどもをひとりの人格として大切にしてくださったのです。
南北戦争後のリバイバルに用いられた伝道者 D. L. ムーデーは、こどもをとても大切にしました。リンカーンは最初の就任式に、25年住んだイリノイのスプリングフィールドからワシントン D.C. に行く途中、シカゴに立ち寄り、ムーデーとサンデースクールのこどもたちに会っています。そのとき、リンカーンはサンデースクールのこどもたちに、「あなたがたの先生から学んだことを実行しなさい。そうすればあなたのうちの何人かが私と同じようにアメリカ大統領になるでしょう」と言っています。このムーデーが、あるとき、「きょう、私のところに二人半来たよ」と近くにいた人に言いました。それを聞いた人が「おとな二人とこども一人ですね」と言うと、ムーデーは「いや、おとな一人とこども二人さ。おとなはもう人生を半分以上使ってしまっているから半分だが、こどもはまだこれから人生があるから、一人なんだよ」と答えました。「こどもは半人前」と言われ、軽くみられることがありますが、ムーデーは、それに対して、こどもをひとりの人格として大切にしなければならないと言おうとしたのです。こどもはたとえ小さく、弱くても、神の目には、ひとりひとりが大切で尊い存在なのです。
イエスがこどもを招き、祝福されたことは、マルコ10:13-16にも書かれています。マルコでは、イエスは弟子たちがこどもたちを叱っているのを見て「憤り」、こどもを叱りつけている弟子たちを叱りつけたとあります。イエスに「憤り」はふさわしくないと思う人がいるかもしれませんが、この「憤り」は、イエスのこどもに対する深い愛を表わしています。人が本気で誰かを愛し、何かを大切にしているなら、そうしたものが傷つけられて平気でいられるはずはありません。皆さんも、自分のこどもがいじめに遭って傷つけられたとしたら、強い者が弱い者を傷つけることに対して、きっと憤りを感じることでしょう。
私の尊敬する人に福井達雨という方がいます。重い知恵遅れの人たちへの差別と闘ってこられた牧師です。先生は、日本の社会が、障害を持つ人たちのためにやさしい社会になるだけではなく、障害を持つ人たちと共に生きていく社会になるよう励んでこられました。先生が始められた滋賀県の止揚学園には「ためにではなく共に」という標語が掲げられています。先生は障害のあるこどもたちのために市役所や教育委員会、航空会社などと掛け合ったり、抗議をしたりしてきました。ときには、語気を荒げることもありましたし、障害のあるこどもたちの親を叱りつけることもありました。それで、福井先生は「暴力牧師」とか「喧嘩の達雨」と呼ばれました。しかし、多くの人は、そうした先生の姿の中に、こどもたちへの本気の愛を見、先生を信頼していったのです。
イエスは、こどもをさえぎる大人に対して憤り、こどもを叱る弟子たちを逆に叱られました。このことの中に、私たちは、イエスのこどもに対する本物の愛を見ることができます。主イエスからこの愛をいただいて、今年のVBSや来月からのこひつじ園のために奉仕したいと思います。
二、こどもから学ぶ
イエスのこどもへの愛は、また、社会的に小さい者、弱い者への愛を表わしています。聖書では、神は「みなしごの父、やもめの保護者」(詩篇68:5)と呼ばれています。「やもめ」や「みなしご」は社会的に最も弱い者、小さい者を表わしており、有名や無名、健康な人や病気の人、財産のある人や貧しい人、こどもや高齢者などに関わりなく、神はすべての人、とくに小さい者を愛してくださるのです。
聖書は「多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである」(マルコ2:15)と言っていますが、最初にイエスに従った人々の多くは、名もなく貧しい人々、当時の社会では周辺に追いやられていた弱い立場の人々でした。しかし、イエスはそうした人々を感謝して、父なる神に祈られました。「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。」(ルカ10:21)イエスは、ご自分の弟子たちを「おさなご」と呼んで、愛し、受け入れ、感謝しておられるのです。
知識を身につけ、経験を積み重ねて、他の人々を指導する立場になったとしても、私たちは皆、父なる神から見れば「おさなご」に過ぎません。優れた指導者ほど、自分の限界を知っており、弱さ、足らなさを認めています。イエスは、こどもを受け入れ、祝福することによって、おとなに対しても、神の前では自分が小さく弱い者であることを認め、こどもが親やおとなに頼るように、父なる神に信頼するようにと教えられたのです。そして、イエスは「神の国はこのような者の国である」と仰って、こどものように神に信頼する者に、神の国を約束されました。
神の国、それは、「神の支配」と言い換えることもできます。神の国は天と地にまたがっています。主の祈りで「みこころの天になるごとく…」と祈るように、天では神のご支配が完全に行き届いており、そこは、神の正義と愛とが支配するところで、そこにはどんな悪も、不正も、死も、悲しみも、涙もありません。イエスは、私たちの罪のため十字架で死なれましたが、三日目に復活され、それから四十日して天に帰り、父なる神の右に座しておられます。イエスは弟子たちに「わたしのおる所にあなたがたもおらせる」(ヨハネ14:3)と約束されました。イエス・キリストを信じる者は、イエスのおられる神の国に迎えられるのです。
神の国はまた、天上だけにではなく地上にもあります。今、信じる者たちの心の中や信じる者たちの集まりの中にもあるのです。私たちが「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのは、やがての時ではなく今も、天に行ってからでなくここで、神の愛と恵みのご支配を味わうことができますようにとの求めです。イエスは、今、ここで体験することができ、やがて、天で永遠に住むことができる神の国に私たちを招いておられます。その招きに答えるのに、山ほどの知識をつめ込まなくてはならない、厳しい修業をしなければならない、良い行いを積み重ねなければならない、感性を研ぎ澄まして悟りを得なければならないというのではありません。こどもが親やおとなに頼るように、素直に、神に信頼し、イエス・キリストを信じるだけで良いのです。
「イエスを信じたいけど、ちゃんとしたクリスチャンになれるかどうか自信がありません。」「クリスチャンになっても、他の人みたいに活動したり、奉仕をしたりできないから…。」「私はまだ聖書を全部読んでいないし、分からないことのほうが多いから…。」信仰を言い表わし、バプテスマを受けるのをためらっている人たちから、そんな声を良く聞きます。こどもは最初から何でもできるでしょうか。何でも知っているでしょうか。いいえ、できないからこそ、親に頼り、知らないからこそおとなに聞くのです。イエスは、イエスのお話しを理解することも、イエスのために働くこともできない、ちいさいこどもたちを抱き寄せて、「神の国はこのような者の国である」と言われました。私たちも、あるがままで、イエスのところに行けば良いのです。
ある教会に、石に腰掛けておられるイエスのブロンズ像がありました。その像のイエスはどんな顔をしているのだろうと思って、近寄って見ましたが、イエスの顔は見えませんでした。それで私もしゃがんでみました。そうしたら、優しいイエスの顔が見えました。その像はちいさいこどもの背の高さで見ると、手を広げてこどもを招いておられる姿、優しい顔が見えるように作られていたのです。私はこれを見て、私たちも、こどものように素直になれば、イエスの優しさに触れることができるのだと思いました。こどもを招かれたイエスは、私たちを神の国に、人が望む最高の幸いへと招いておられます。神とともに歩む人生、地上で神の国を体験する喜びに招いておられます。これは最高の招きです。この招きに応える私たちひとりびとりでありたく思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたはこどものような素直な心でイエス・キリストを信じる者をあなたのこどもとしてくださいます。こどものように即座にイエス・キリストを受け入れる者を神の国に受け入れてくださいます。あなたは私たちが、あなたのこどもとしてあなたに信頼することを喜んでくださいます。私たちはイエスの招きを受け入れます。あなたに信頼する者を導き、私たちのあなたへの信頼をより確かなものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
8/4/2013