18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
一、希望の大切さ
みなさんの中で一度も失望を味わったことのない人がいますか。そんなことを聞くだけナンセンスですね。子どものころ、「誕生日になったら買ってあげるよ」と約束されていたプレゼントがもらえなかった。楽しみにしていた家族旅行がキャンセルされた。そんなことを覚えている人も多いでしょう。希望していた学校に入れなかった、就職はしたものの自分にはまったく不向きな仕事だったという人も多いと思います。また、人間関係で失望したり、努力の成果を見ることができずに落胆してしまうということもよくあることです。
なんの失望も挫折も経験しないで、自分の願ったとおりにものごとが進んでいく順調な人生が、かならずしも幸せであるとは限りませんが、あまりにも失望が深いと、人はそこから先を歩むことができなくなってしまいますから、やはり失望は避けたいことのひとつです。バンヤンが書いた The Pilgrim's Progress(天路歴程)は、主人公が「滅亡の町」からさまざまな困難をへて天の都に向かっていくストーリーです。そこには「俗念の市」「困難の丘」「死の影の谷」「虚栄の市」「疑惑の城」などが登場しますが、「落胆の泥沼」というのもちゃんとあります。いったん落胆の泥沼にはまるとそこからなかなかはい出すことができなくなります。私たちも小さな失望が重なって大きな絶望とならないうちに、絶望が落胆となりそこに沈みこんでしまわないうちに落胆の泥沼から這い上がり、絶望の崖を登らなくてはなりません。天路歴程の主人公が天の都に到達するときのパートナーが「希望」だったように、私たちも天の都に行くには、私たちを失望や落胆から救ってくれる「希望」が必要なのです。
ダンテの『神曲』によると地獄の門には「汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ。」と刻まれています。ダンテが言うように地獄には希望が一切ありません。なんの希望もないところが地獄なのです。そこがどんなに物質的に豊かで、楽しみがいっぱいのところであっても、希望がなければ、そこは地獄になってしまいます。逆に、そこがどんなんなに苦しく大変な場所であっても、希望があれば、そこは天国になりうるのです。
聖書の創世記にあるように、ヤコブの11番目の男の子、ヨセフは兄たちにねたまれエジプトに奴隷として売られました。しかし、ヨセフは失望しませんでした。エジプトの皇帝ファラオに仕える役人の家の管理人としてその才能を発揮しました。ところがヨセフは主人の妻の誘惑を斥けたために、主人の妻から濡れ衣を着せられ、無実の罪で牢に入れられてしまいました。エジプトで人生を切り開こうとしていた矢先のことでした。失望、落胆し、自暴自棄になっても不思議ではありませんでした。しかし、ヨセフは希望を捨てませんでした。ヨセフの置かれた状況のどこにも希望は見出せませんでしたが、ヨセフは彼とともにおられる神を信じました。ヨセフは神にあって希望を見出したのです。
ヨセフが希望を捨てないで待っていると、ファラオに仕える献酌官がヨセフと同じ牢に入ってきました。王の怒りを買って牢にに入れられたのですが、ヨセフはやがて王の怒りがとけ、彼が元の地位に戻ることを予言しました。そして、そうなったときはヨセフが牢から出られるようとりはからってほしいと頼みました。ところがこの献酌官は、自分が救われたうれしさのあまりヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。献酌官から何の音沙汰もないうちに二年が過ぎてしまいました。しかし、ヨセフはそれでもあきらめませんでした。神のなさることには時があることを知り、神にその時を委ねたのです。そしてその時がやってきました。みなさんが良くご存知のように、ヨセフはエジプトのファラオに次ぐ地位をえたのです。
聖書は教えています。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9)ヨセフは、希望を保つことによって、今までの苦しみが報われる時を迎えたのです。
二、希望を保つ人
しかし、私たちの多くは「私はヨセフのようには才能に恵まれていない。彼のように偉大でも、立派でもない。希望を持てと言われても私はすぐにくじけてしまう。」と思ってしまうかもしれません。そこで、イエスは、そんな弱い人々を励ますためにそのお話の中に「やもめ」を登場させ、「失望してはならないこと」を教えてくださいました。ルカ18:3に「その町に、ひとりのやもめがいた…」とありますが、旧約でも、新約でも「やもめ」は弱い人々を代表していました。旧約の律法には「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。」(申命記24:17)とあります。かつてのイスラエルでは収穫をする時には、畑の隅々まできれいに刈り取ってはならず、刈り残したものはやもめたちのものとしなければなりませんでした。ルツ記に、モアブから来たまだ若いやもめルツが落ち穂拾いをして同じくやもめとなった義理の母ナオミを養ったことが書かれています。ルツ記を読むと当時のやもめがどんなに弱い立場にあったか、また、イスラエルの国がやもめたちのように弱い立場にある人々をどのように保護していたがわかります。新約時代にも教会には「やもめの名簿」(テモテ第一5:9)というものがあって、教会は親族のない年老いたやもめたちを助けていました。ヤコブは「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:27)と教えています。
このようにやもめであることだけでも大変なことだったのですが、このやもめは、裁判に訴えなければならないほどの大変な目に遇っていました。それがどんなことだったかは何も書かれていませんが、おそらくは財産争いのようなものだったかもしれません。彼女のご主人が遺していった財産を、ご主人の兄弟や親戚がよってたかってむしりとろうとしていたのかもしれません。あるいはその町の有力者が、彼女に無理難題をふっかけて彼女の土地を奪おうとしていたのかもしれません。このやもめは弱い立場にあるだけでなく、その立場につけこまれて、権利が侵されていたのです。
ところが、彼女の町の裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない」人物だったのです。イエスはこの裁判官を「不正な裁判官」と呼んでいますから、有力者からわいろをもらい、その人たちの有利になるような裁判をしていたのかもしれません。やもめが訴え出ているようなことを裁いてやっても一銭の得にもならないというので、この裁判官はやもめの訴えをほったらかしにしていました。イスラエルの律法は公平で、弱い立場にある人々に温かいものでした。しかし、どんなに律法が公平でも、それを運用する人が正しくなければ、律法は曲げられてしまいます。このやもめは、やもめであることのハンディを持ち、その権利が脅かされていたばかりか、とんでもない裁判官に出くわしたのです。彼女が失望し、絶望し、落胆しても、誰も責めることはできません。しかし、彼女は、失望しませんでした。彼女には、頼るべきコネもツテもありませんでした。理路整然と自分の状況を説明し町の人々を味方につけることもできませんでした。彼女にできることは、裁判官のところに足を運んでは嘆願することだけでした。おそらく毎日、朝に、昼に、夜に裁判官のところにやってきては、「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と訴えていたことでしょう。彼女の心の中には「あんな裁判官に頼んでも何にもならないのでは…」という思いがあったでしょう。けれどもそう思ってあきらめる代わりに、ひたすらに嘆願し続けました。やもめには嘆願するしか他に方法はありませんでした。それが彼女に残されたたったひとつの希望でした。
人は切羽詰らないと真剣にならないことがあります。あれこれチョイスがあると、一所懸命になれないことがあります。やもめは自分の弱さを認め、自分の問題を知っていました。それで彼女は自分のできることに希望をつないだのです。私たちが、希望を保つことができるのは、自分に能力があるから、生活に余裕があるから、まわりの人々の助けがあるからだとはかぎりません。このやもめのようにそうしたものが何もなくても、いや、何もないからこそ、ひたすらに神に願い、神に祈ることができるのだと思います。神にしか頼れない、祈るしか方法がないというところに追いやられてこそ、私たちはほんものの信頼、ほんものの希望へと導かれるのです。
三、希望のみなもと
さて、この裁判官は長い間やもめの訴えをほうっておいたのですが、やもめがあまりにうるさく嘆願し続けるので、ついに、彼女のために裁判をしてやろうと、重い腰をあげることになりました。それは、彼に裁判官としての良心がよみがえってきたからでも、やもめを気の毒に思ったわけでもありませんでした。裁判官自身が「私は神を恐れず、人を人と思わないが」(4節)と言っているのですから、彼が改心したのでないことは確かです。裁判官がやもめのために裁判をしてやろうと思ったのは、このやもめが、朝に、昼に、夜に、「ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない」(5節)からでした。
イエスはこう話されてから、不正な裁判官でさえ、熱心に願えば、たとえ、「うるさいから」という理由であったとしても態度を変えるとしたら、私たちに対してあわれみ深く、公平で、正しく、すべてのことを働かせて善に変える力のある神が、私たちの願いを聞いてくださらないわけがあろうかと、教えておられます。イエスは同じことをマタイの福音書ではこう教えておられます。
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:9-11)ここに「あなたがたは、悪い者ではあっても」とあるのは、罪のために自己中心になってしまっている人間の内面の姿についてのことばです。どんなに善良で犠牲的な人にも、その中に、さまざまな形での自己中心性があるものです。そんな私たちではあっても、自分の子どものためには犠牲を払い、良いものを与えようとします。人間は堕落したとはいえ、神の恵みによって何らかの善を保っているのです。もしそうなら、完全な善である神が、神の子どもたちの求めに答えてくださらないわけがないのです。イエスはマタイの福音書で不完全な人間の親と完全なたましいの親である神とを比較して、いかに神の大きな愛を教えておられるのですが、ルカの福音書のこのストーリーでも、不正な裁判官と、真実な神とを比較することによって、神の私たちに対する愛がどんなに大きなものであるかを教えておられるのです。神は、私たちの祈りを「うるさくてしかたがないから」というので不承不承聞き入れるのではありません。私たちの神は、「さあ、わたしに願いなさい。どんなにうるさく願ってもいいのだよ。」と、私たちが本心から祈り求めるのを待っていてくださるお方です。この神の愛があるかぎり、私たちに失望はないのです。
たとえ私たちがこのやもめのように弱いものであっても、のっぴきならない危機にさらされていても、決して失望することはない、絶望することはない、落胆することはない、私たちの祈りを聞き、その祈りに答えてくださる神がおられるのです。イエスは「いつでも祈るべきであり、失望してはならないこと」をこの物語で私たちに教えてくださいました。このイエスのことばをそのまま信じましょう。神が私たちの希望のみなもとです。祈りは、どんなときにも残された希望の綱です。「失望せずに祈る。」今朝、ひとりびとりが、この教えを持ち帰って、祈り続けることができますよう、心から願います。
(祈り)
父なる神さま、この世は私たちを失望させることで満ちています。多くの人が救われてあなたの民とされますようにと願えば願うほど、キリストを信じる人々の少ないことにがっかりします。私たちが信仰の成長を目指してより高いものを求めれば求めるほど、そうでないものがあまりにも満ちていることに失望を味あわなければなりません。天の都への道のりにはなんと多くの落胆の泥沼があることでしょうか。私たちはこの世から知らず知らずのうちに失望することの訓練を受け、失望することがまるで第二の習性のようになってしまいました。希望と慰めの神よ、私たちをそこから救い出し、あなたにあって希望を持つことを教えてください。私たちに失望せず祈ることを教え、そのための訓練を与えてください。希望を持つことが、キリストにある私たちの第二の習性となりますように。私たちの栄光の望み、イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/14/2009