信仰と感謝

ルカ17:11-19

オーディオファイルを再生できません
17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。
17:12 そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、
17:13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
17:14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
17:17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
17:18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。
17:19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

 一、らい病と差別

 今朝の聖書の箇所には「らい病」のことが書かれていますので、最初にこの病気のことについてお話ししたいと思います。聖書の「らい病」は「ハンセン病」だと思われてきました。ハンセン病は結核菌に良く似た「ライ菌」という細菌によって起こる病気です。ライ菌が皮膚の神経細胞に住み着くと、神経が冒され、その部分の感覚がなくなってしまいます。そのため、その部分が傷ついても分からず、そこが化膿してひどい状態になるのです。しかし、ライ菌の感染力は低く、特効薬が開発されており、後遺症が残らないうちに完治できるようになりました。

 日本では、ハンセン病患者は聖書のらい患者と同じように扱われました。明治政府は、国際学会で患者の隔離は必要ないとされていたにもかかわらず、ハンセン病患者を青森、東京、大阪、香川、熊本の五ヶ所の隔離施設に強制収容しました。患者は囚人と同じ縞模様の服を着せられ、全く自由のない生活を強いられました。施設には監禁室が設けられ、患者が職員に反抗的な態度をとった場合、所長の一存で患者をそこに閉じ込めることができました。ハンセン病は遺伝の病気ではないのに、患者の結婚は断種を条件にしか許されませんでした。

 国際的にはハンセン病患者の社会復帰が進んでいたのに、日本では戦後も隔離政策が続けられ、社会的な差別は全く改善されないままでした。熊本の療養所に患者のこどもが暮らす「龍田寮」という保育施設があり、中学生と高校生は地元の学校に通っていましたが、小学生は寮の中の分校で勉強していました。しかし、教育が行き届かないため、小学生も地元の黒髪小学校に通うことになりました。龍田寮の子どもたちはハンセン病ではないのに、黒髪小学校の保護者たちがその通学に強く反対しました。反対派の人たちはビラを張り、自分の子どもを学校に行かせないで、通学賛成派のPTA役員を脅迫し、石を投げつけたりしました。

 さまざまな出来事のあと、1996年、ハンセン病患者の人権を損なっていた「らい予防法」は廃止され、2001年5月に国は隔離政策の過ちを認め、患者に謝罪し、賠償を約束しました。しかし、2003年にハンセン病が完治している元患者がホテルに宿泊しようとしたところ、ホテル側が宿泊を拒否したという事件が起こりました。このホテルは旅館業法違反で起訴されるのですが、これに対して、ホテル側の弁護士は「自分たちは被害者だ」と言い、ハンセン病団体には一般市民からの非難の電話や手紙が殺到しました。ハンセン病に対する正しい知識が広まっておらず、いまだに偏見が残っているのは残念なことです。

 聖書で「らい病」と言われていたものには、ハンセン病では無いものも多く含まれており、さまざまな重い皮膚病を総称したものです。それで、ハンセン病と聖書のらい病とが混同されないように、以前「らい病」と訳されていた部分は新共同訳や口語訳改訂版では「重い皮膚病」、新改訳第三版では聖書の原語のまま「ツァーラト」や「レプラ」と訳されています。古い訳を持っている方はそのことを心にとめて聖書を読むと良いと思います。

 二、イエスとらい病

 このように、つい最近まで、ハンセン病の患者への差別があったのですから、古代ではもっとでした。患者たちは社会から斥けられ、人里離れたところに追いやられ、人前に出るときには布で顔をおおい、「汚れた者です。汚れた者です」と唱えながら道を歩かなければなりませんでした。施しを受けるときには、人々に近づかなくて済むように長い柄がついた柄杓のようなものを差し出して、そこに食べ物などを入れてもらっていました。

 なにより、この人たちは、神に近づくことができない者とされていました。人からばかりでなく、神からも斥けられていると考えられたのです。しかし、この人たちに何の希望もなかったわけではありません。病気が治ったら、自分のからだを祭司に見せ、きよめの儀式を受ければ、社会に戻り、神殿に詣でることが許されたのです。

 イエスは、さまざまな病気をいやしておられましたが、そこには重い皮膚病も含まれていました。主は、人々が近づこうともしなかった患者に、自分から近づき、手を置いてその病気を治しておられます。イエスは重い皮膚病の患者に対する差別を二千年前にすでに斥けておられました。

 しかも、この箇所では、そうした病気の人に対する差別だけでなく、人種や地域の差別もまた斥けられています。11節に「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた」とあります。「サマリヤとガリラヤ」、このふたつの地域はユダヤの人々から嫌われ、軽蔑されていた地域でした。ユダヤ人とサマリヤ人は交際を持ちませんでしたし、ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。イエスはガリラヤのナザレで育ち、ガリラヤで宣教をはじめましたので、ユダヤの人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言って、イエスさえも見下していました。

 イエスはそんなサマリヤとガリラヤのボーダーを歩まれました。以前エルサレムからガリラヤに帰るとき、普通のルートを離れて、わざわざサマリヤを通って行かれたこともあります。サマリヤにいるひとりの女性が救いを見出すためでした。ここで、イエスがガリラヤとサマリヤのボーダーを歩まれたのも、そこにいる10人の患者がいやされるためでした。10人の中のひとりはサマリヤ人でしたが、イエスの目には、ユダヤの人も、ガリラヤの人も、サマリヤの人も、等しく救いを必要とする人々でした。どの人にも神の救いは届けられなければなりません。

 イエスと弟子たちが道を歩くのを見た10人の患者たちは、声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と叫びました。イエスはそれに答えて、この人たちをいやしてあげるのですが、実際は、この人たちの叫びを聞く前から、その声なき叫びを知っておられ、イエスのほうからこの人たちに近づくために、イエスはサマリヤとガリラヤのボーダーを通られたのです。この人たちがサマリヤ人であろうが、ガリラヤの人であろうが、また、社会から隔離された人々であろうが、イエスはそうした隔てを乗り越えて、この人たちに近づいてくださいました。

 創造者である神と被造物である人間、きよく正しい神と罪を持った人間の間にはどんなに大きな隔たりがあるでしょうか。それは誰も越えることのできない大きな隔たりです。人間の側からは決して越えることはできません。しかし神は、ご自分の御子を人として地上に生まれさせ、このお方を罪人の救い主とされることによって、この隔たりを取り除いてくださいました。神のほうから、この隔たりを越える手が差し伸べられたのです。これは神の愛から出たこと、私たちにとっての大きな恵みです。ですから、イエスにあっては、この世には誰ひとり神から遠い人はないのです。イエスは私たちのたましいの叫びを聞いて、私たちに近づき、私たちを救ってくださるのです。

 三、信仰と感謝

 10人の患者たちは、イエスが自分たちのほうに来られるのを見て、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と叫びました。13節に「声を張り上げて」とありますから、それはもう必死になって叫び続けたことでしょう。このことは、イエスが私たちに近づいてくださるとき、私たちもまた、イエスに近づかなくてはならないことを教えています。イエスは私たちを救おうと、私たちに近づいてくださいます。そうなら、私たちは知らないうちに救われていくのでしょうか。そうではありません。私たちもまた、イエスに近づき、イエスに救ってくださいと願い、祈り、求めて、イエスの救いが私たちに届くのです。私たちを救おうと近づいてくださるイエスに、私たちの側からも応答すること、それが信仰です。

 なにもかにも恵まれていると、人は神への信頼を忘れます。「神さま」、「イエスさま」と、助けを願わなくても十分に幸せで、神も救い主も必要でないと思ってしまうからです。また、あまりにも惨めな状態が長く続くと、絶望しきってしまって、神がそこから救ってくださることも信じられなくなり、イエスに助けを願う心さえ失ってしまうこともあります。しかし、自分にはいやされなければならないものがあると気付いて、それをイエスに求めるとき、イエスはそれに答えてくださいます。絶望の淵からであっても、そこから「救い出してください」と願うとき、イエスの救いが私たちに届きます。聖書を見ると、神の救いを受けた人々はみな、熱心に神に願い求めた人々でした。

 イエスは、神の御子であるのに、父なる神のもとからこの地上に降りて来られました。それが十字架の死につながることをご存知でありながら、そうされたのです。イエスが私たちのところに来られ、私たちに近づいてくださったのは、神の子がほんのすこし人間世界を訪問したという軽いものではありません。それは命がけのことであり、真剣なことでした。イエスがそんなにしてまでも私たちに近づいてくださったのですから、私たちもまた、真剣にイエスに近づこうとするのです。イエスに願いと祈りと求めをもって近づく、それが信仰の第一歩です。

 次にこの10人の人たちは、イエスが「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われたとき、その言葉を信じて、そのとおりにしました。10人が祭司のところに向かっていくうちに、病気に冒されたからだが、みるみる、治っていきました。信仰のステップの第二は、神の言葉を信じてそれを実行することです。

 15節に「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り」とありますが、「いやされたことを知り」というところは直訳すれば「いやされたのを見て」となります。信仰は、まだ見ていないことを、それが実現すると信じることですが、そう信じる者は必ず結果を「見る」ことができるようになります。多くの信仰者たちはそのことを体験してきました。皆さんも、聖書の言葉を信じて、それが実現したのを数多く見てきたことと思います。神は私たちに見ないで信じることを求められますが、信じる者には、神の言葉の力を見せてくださるのです。

 信仰のステップの第三は、神とのまじわりの中にとどまることです。10人のうちひとりは、自分がいやされたことを見て、「大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝」(15、16節)しました。けれども他の9人は、そのまま自分たちの町や村に帰っていきました。しかも、神をあがめ、イエスに感謝するためにやってきたのは、サマリヤ人でした。それでイエスは「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」(17、18節)と言われました。これは、「わたしが治してやったのに、わたしに感謝しないのはけしからん」という意味の言葉ではありません。イエスはご自分が感謝されたいために、そう仰ったのではありません。これは、みずから「神の民」だと自慢していたユダヤの人たちの不信仰を嘆かれた言葉です。イエスは、まずユダヤの人々を救うためにおいでになりました。なのに、そのユダヤの人はイエスを救い主として受け入れなかったばかりか、イエスを斥けたのです。

 それに、ユダヤの人々は、奇跡やいやしなどといった目に見えるものにとらわれていました。奇跡をもてはやすのですが、奇跡を行うことができる全能の神に信頼することをせず、いやしを喜んでも、いやし主であるイエスを忘れてしまうのです。信仰とは、人格と人格のまじわりです。神からその力を引き出すだけ、イエスからいやしを受け取るだけのものではありません。自分を救ってくださったお方、いやしてくださったお方と共に生きることです。その第一歩が「感謝」です。神の救い、イエスのいやしを受けたなら、それを神に、イエスに感謝する。そうすることによって、神とのまじわりが生まれ、イエスと共に生きる生活がはじまるのです。私たちも、誰かから何かをいただいたり、していただいたら、「ありがとうございました」をお礼を言います。そうすることによって、その人との関係が生まれ、育っていきます。それは、神と人との間でも同じです。神に助けを求めるとき、神はそれを与えてくださいます。そして私たちがそれに感謝するとき、神との豊かなまじわりが、救い主と共に生きる喜びが私たちに与えられるのです。神とのまじわりにとどまり、その喜びの中に生きる、それが信仰の第三のステップです。

 私は、問題を抱えていらっしゃる方々に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)という言葉をよく贈ります。すると、「それって『苦しいときの神だのみ』ではないですか」と言われることがあります。私は「神が『苦しいときの神だのみ』を勧めていらっしゃるのだから、遠慮することなく、そうすれば良いのです」と答えます。そして、「でも、『わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう』という後半部分を忘れないでください。神さまが問題を解決してくださったときは、感謝を忘れないようにしましょう」と話します。苦しみの日は、素直に神に助けを求めればいいのです。神は助け、救ってくださいます。そして、神に助け、救われたなら、それを神に感謝しましょう。感謝を忘れなければ、この祈りは決して「苦しいときの神だのみ」で終わりません。感謝によって、私たちは個々の助けだけでなく、どんなことにおいても助けてくださる「助け主」を、病気のいやしだけでなく、あらゆるものをいやしてくださる「いやし主」ご自身を知るようになるからです。信仰の第一ステップは神に必要を訴えること、第二ステップは神がその必要を満たしてくださると信じることでした。私たちは信仰によって私たちの必要が満たされるのを見ることができます。そして、神がしてくださったことに感謝をもって答えていくという信仰の第三ステップに進みましょう。そのとき私たちは、神と共に生きる喜びに生きるものになれます。願って受け、受けて感謝をお返ししていく、そんな信仰の喜びを体験していきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、感謝祭を迎えるこの月に、あなたに感謝することを思い起こさせてくださり、ありがとうございました。あなたにいやされ、必要を満たされ、恵みと祝福を受けている私たちが、あなたへの感謝を忘れることがないよう、導いてください。信じて祈り、祈り求めて答えられ、答えられて感謝する、あなたにある幸いな信仰の歩みへと私たちを導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/17/2013