16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
イエスは多くのことを「たとえ」を使って教えました。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書には全部で39の「イエスのたとえ」が書かれています。マタイにはそのうちの20、マルコには9つあるのですが、ルカには27もの「イエスのたとえ話」が書かれています。しかも、27のうち17は、マタイにもマルコにも載っていない、ルカだけのものです。きょうの「不正な管理人」(The Unjust Steward)というタイトルのたとえ話もルカの福音書だけにあるたとえです。
一、不正な管理人のたとえ
これは、どんなお話でしょうか。登場人物は、金持ちの主人と、その家の管理人、そして、金持ちの主人から油や麦などを借りていた人々です。大金持ちの家には、たいてい管理人がいて、その家の財産を守り、増やす責任を与えられていました。ところが、この管理人は、主人の財産を増やすどころか、乱費し、浪費していたのです。企業や官庁などで、経理担当者が会社のお金や官庁の予算を着服する事件が後を絶ちませんが、そういったことに似ています。けれども、この管理人の場合は、悪意があって乱費していたわけではなかったようです。もしそうなら、主人にばれないように、うまくやったことでしょう。彼は、おそらく管理人に向かない性格で、何ごとにもおおざっぱで、節約すべきところで大盤振る舞いをしたり、人々の言うままにお金を払っていたのかもしれません。ともかく、その事が主人の知るところとなりました。
彼は主人から、「おまえは何をしたのだ。きちんとした会計報告を出しなさい」と言い渡され、困り果てました。「きっと自分はクビになるに違いない。これからどうしようか。」こんな失敗をやらかしたのですから、もう彼を雇ってくれるような他の人はいないでしょう。残っているのは、肉体労働か物乞いかのどちらかしかありません。しかし、彼は、そのどちらもしたくありませんでした。3節の最後の言葉、「土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしい」、これはじつに名文句です。
それで、この管理人は、土掘りも物乞いもしなくてよい方法を必死になって考えました。そして名案を思いつきました。彼は、主人から借りのある人たちをひとりひとり呼び出しました。油を借りている人に、「あなたは主人から油を何バレル借りているのかね」と聞きます。その人が「百バレルです」と言うと、借用証書を探しだして、「ここに百バレルとあるが、五十バレルに書き換えなさい」と言って、借用証書を書き換えさせました。また、小麦を百袋借りていた人には「八十袋にしなさい」と言って、人々の負債を軽くしてやったのです。
この管理人は、主人の財産を浪費したため辞めさせられようとしています。自分が浪費した分を少しでも埋め合わせようとするのが、普通なのに、彼は、さらに、不正なことをして、主人の財産を減らしています。なぜ、彼は、こんなとんでもないことをしたのでしょうか。主人を恨んで、仕返しをしてやろうと思ったのでしょうか。それとも、主人から借りのある人たちをかわいそうに思って、その人たちを助けてやろうとしたのでしょうか。どちらでもありません。彼は、自分がまだ管理人であるうちに、その立場を利用して、主人から借りのある人たちに恩を売ろうとしたのです。恩を売った50人の家に、一週間づつ世話になっても一年は、食べるに困らないと考えたのでしょう。この管理人は、汗をかいて働くことも、恥ずかしい思いをして物乞いすることもなく、辞めさせられた後の生活の保証を得たのです。
さて、この管理人の主人ですが、この管理人が、不正を行った上に、借用証書まで勝手に書き換えたことを聞いて、どうしたでしょうか。普通なら、カンカンになって怒り、彼を捕まえて牢屋にぶち込んだことでしょう。ところが、8節に「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」とあって、主人はこの管理人の利口さに感心してしまったというのです。主人が、彼をそのまま管理人として使い続けたとは思えませんが、おそらく、彼をクビにしないで、何か別の役割を彼に与えただろうと思います。
二、このたとえが教えるもの
このたとえ話は、管理人も管理人なら、主人も主人というわけで、とてもおもしろいのですが、結末が意外すぎて、この話を聞いて、いったいイエスは何を教えようとしておられるのか、分からなくなる人も多いと思います。「良いサマリヤ人のたとえ」には、誰もが心を探られますし、「放蕩息子のたとえ」を読んで心を動かされない人はいないでしょう。しかし、この「不正な管理人のたとえ」を読んでも、そのような感動は伝わってきませんし、「こんな正しくないことが喜ばれていいんだろうか」という疑問が残ります。いったいイエスは何をおっしゃりたいのでしょうか。私たちはこのたとえから何を学ぶべきなのでしょうか。
イエスはこのたとえで、世の中の現実を描いていますが、それを容認しているわけではありません。8節でイエスは「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない」と言っておられます。「この世の子ら」というのは、神を信じない人々のことで、「光の子ら」というのは、神を信じ、イエス・キリストを信じる人々のことです。不正な管理人がしたことは「この世の子ら」の間では通用しても、「光の子たち」の間では、決してまかり通ってはならないものなのです。イエスは、このようなでたらめな管理人をたとえに使うことによって、神を信じる者たちに、そのようであってはいけない、「光の子」は「この世の子」とは違う原理で生きるのだということを教えようとされたのです。
「光の子」の生き方、その原理は「忠実」です。「タラントのたとえ」(マタイ25:14-30)では、主人が、あるしもべには5タラント、別のしもべには2タラントというお金を預けたことが書かれています。このしもべたちは、それぞれ、主人の留守中にもう5タラントやもう2タラントを儲けました。そのとき主人はしもべたちに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21、23)イエスは、私たちに、どんなことにおいても「忠実」であるようにと教えておられます。
では、「忠実である」とは、どうすることなのでしょうか。イエスはこう言われました。「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(9)ここで「不正の富」と言われているのは、悪いことをして儲けたお金のことではありません。10-12節には「不正の富」と「まことの富」、「小さい事」と「大きい事」、「他人のもの」と「自分のもの」という比較があります。これはみな、地上のことがらと天の報いのことを指しています。私たちは皆、神から、時間、財産、才能、健康、人間関係などを忠実に管理するようと任せられているのです。地上では私たちはそうしたものの管理人にすぎません。まことの所有者は神です。しかし、私たちが、それらのものに忠実であるなら、天では、自分が忠実であったすべてのものを自分のものとして受け継ぐのです。いや、その何倍も、また地上のものに勝るものを受けるということを、イエスはここで教えておられるのです。
9節でイエスは、「永遠の住まい」と言っておられます。これは天のことです。この地上は「永遠の住まい」ではありません。誰にも、やがて、この世を去り、この地から離れる日がやってきます。不正な管理人が「会計報告を出せ」と迫られたように、私たちも、人生の終わりに、自分の人生の総決算報告をしなければなりません。そのとき、私たちは大丈夫でしょうか。おそらく、誰も大丈夫ではないでしょう。私たちは、神から与えられた人生の日々を多く浪費し、乱費してきたのです。この管理人が、「土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしい」と言って、自分の力では、自分の将来について何もできなかったように、私たちは、誰ひとり、自分の力では永遠の幸いを保証することなどできないのです。
では、どうすれば良いのでしょうか。自分以外の誰かに頼るしかないのです。たとえ話の管理人が人々に恩を売って、仕事をやめさせられたあと自分を迎えてくれる「友」を作ろうとしました。イエスは、私たちにも、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言われました。これは、「地上に生きる間に、自分を天に迎えてくれる友を見出しておきなさい」ということなのです。けれども、その「友」とは誰なのでしょうか。
聖書は、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と教えています。天にはあらゆる幸いがありますが、ただ一つ無いもの、いや、あってはならないものがあります。それは罪です。私たちは罪があるままでは天に入ることができません。私たちを天に迎えてくれる「友」は私たちの罪を赦し、私たちを罪からきよめてくださるお方でなければなりません。
もう、お分かりですね。そのお方はイエス・キリストです。イエスは言われました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2-3)イエスが私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる、私たちの「友」です。私たちは自分のどんな努力によっても、天に場所を買うことはできません。そこは、人間の力の及ばないところです。イエスを信じ、イエスに頼り、自分の永遠の日々をイエスお任せする以外に永遠に備える道はないのです。この世で、誠実に、忠実に生きる第一のことは、イエス・キリストを信じることなのです。
神を信じない多くの人は、永遠のことや、天の幸いを考えることをしないで、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(コリント第一15:32)というような、何の目当てもない生活を送っています。けれどもやはり明日のことを考え、将来に備えます。そうであるなら、神を信じるものは、ソそれ以上に永遠に備える必要があります。永遠を望み、天を仰ぐことによって、私たちは、意味のある確かな人生を送ることができるからです。そして、そのような生活は決して無駄にはなりません。それは地上においても、大きな幸いを与えてくれます。もし、地上で報われることがなかったとしても、天では、必ず報われるからです。私たち皆がイエスによって天に迎えられ、主から報いをいただけるように、主を信じ、主に忠実な者でありたいと願っています。
(祈り)
私たちの造り主なる神さま、あなたは私たちの心に永遠を思う思いを与えてくださいましたが、私たちはしばしばそのことを忘れ、日々をただ忙しく過ごすだけで終わってしまうことがなんと多いことでしょうか。きょう、こうして、仕事から解放され、天を仰ぎ見る時が与えられました。日々に永遠を思い、また、地上の事柄に忠実であることができますよう、私たちを助け導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
2/20/2022