15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
今月は、イエスのたとえ話を学んでいますが、「種蒔きのたとえ」の次に有名なたとえ話が、ルカ15章のたとえ話です。ここには、失われたものが三つ出てきます。「羊」と「銀貨」と「息子」です。「羊」、「銀貨」、「息子」のそれぞれは神のもとから失われた人々のことです。先週、イエスのたとえ話の主題は神の国であると学びましたが、ルカ15章のたとえ話では、神の国は、神のもとから失われていたけれども、見出されて神のもとに立ち返った人々によって成り立っていることが教えられています。
実際、イエスのもとに集まり、イエスの言葉を聞いて、神の国を受け入れた人たちは「取税人」や「罪人」と呼ばれていた人たちでした。取税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の手先になって、同じユダヤ人から税を取り立てていました。しかも不正な取り立てをしていましたので、人々から蔑まれていました。また、「罪人」と呼ばれたのは、犯罪を犯した人や、不道徳な生活をしていた人ばかりではありません。律法に従って安息日を守ることができない羊飼いなどの職業の人たち、病気の人やからだの不自由な人たちもまた、「罪人」と呼ばていたのです。
そして、イエスがそうした人々を受け入れていると非難したのが、「パリサイ人、律法学者」たちでした。このたとえ話は、こうした非難に答えるものでもありました。イエスは、このたとえ話で、ご自分への非難に、三つの面で答えています。
一、価値ある存在
第一に、イエスは、「わたしと一緒にいる人たちには価値がある」と言いました。イエスは、パリサイ人や律法学者たちが、「罪人」と決めつけていた人々を、このたとえでは「失われた人」と呼びました。本来は、神のもの、価値あるもの、愛されていた人々なのです。イエスは、不当に蔑まれていた人々の価値を認め、それをおおやけに宣言しました。ルカ6章に「貧しい者」、「飢えている者」、「泣いている者」のほうが、富んで入る人、食べ飽きている人、笑っている人よりも、幸いであるとある通りです(ルカ6:20-25)。ルカの福音書には、当時軽んじられていた女性や子ども、貧しい人や病気の人が多く登場します。それは、人がそうした人々の価値を認めなくても、神は、ひとりひとりの価値を認めておられる。そのことを教えるためでした。
聖書では、羊飼いは神、羊は神の民を表しています。詩篇23には「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と歌われています。詩篇100篇には「知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」とあります。羊は早く走る足を持たず、相手に立ち向かっていく爪も牙もありません。簡単に他の動物の餌食になってしまう弱い動物です。おまけに、視力も弱く、視野も狭いそうで、羊を狙う動物が近づいてきてもそれに気付かないことが多いのだそうです。
人間もまた、他の動物のような強い力を持っていません。素手で熊と闘って勝った人がいないわけではありませんが、それは例外です。人間が他の動物に勝っているのは、知恵の部分で、人間は知恵を使って他の動物を従え、自然を開発してきました。しかし、人間の強みである知恵・知識も、それが間違って使われると、自分自身を苦しめ、他の人を傷つけ、自然を破壊するものになってしまいます。羊が羊飼いを必要とするように、人には、人生に意味と目的を与え、知恵・知識を正しく導いてくださる神が必要なのです。そして神は、進んで、私たちの羊飼いとなってくださいます。神は、それほどに、私たちを尊いものとしておられるのです。
「銀貨」のたとえ話もまた、人間の価値を教えています。ここで「銀貨」と訳されている言葉、「ドラクマ」は、ギリシャの通貨で、ローマの通貨である「デナリ」とほぼ同じ価値があり、それは一日分の賃金に相当しました。しかし、「ドラクマ」を溶かして銀にしてしまったら、それは、ごくわずかな価値しか持たず、とても一日分の賃金にはなりません。貨幣が価値を持つのは、それを発行した政府の刻印が押されているからです。100ドル冊も紙としては100ドルの価値はありません。しかし、そこにアメリカ政府の刻印が印刷されると、その価値を持つようになるのです。
私たち人間も同じです。人間は、聖書が教えるように、そのたましいに、神からの刻印、「神のかたち」を押されているので、価値あるものとなりました。ある人が「人間の値段」を計算したそうです。私たちの体の70パーセント以上は水です。水は一応ただということにしました。次は脂肪ですが、これは石鹸を一個作れるぐらい、あとは釘数本分の鉄分、マッチ数本分のリンがあります。人間のからだを元素に還元したらせいぜい10ドルぐらいにしかならないという結果になりました。しかし、私たちは、人間がそんなに安っぽいものではないことを知っています。ドラクマにはギリシャ神話の神々の姿が刻まれていますが、人のたましいには、創造者であるまことの神の似姿、「神のかたち」が刻まれています。金属のかけらに神々の姿が刻まれれば、それが材料以上の価値を持つのであれば、「神のかたち」に造られた人間には、もっと大きな価値、全世界のどんなものにもまさる価値があるのです。
二、愛されている存在
第二に、イエスは、「この人たちは、神に愛されている」と答えました。
羊のたとえ話で、羊飼いが、羊が一匹いないことに気づいたのは、おそらく、羊を囲いに入れるときだったと思います。このたとえ話の劇で、羊飼いが羊を囲いに入れる時、「一匹、二匹、三匹、…九十八匹、九十九匹。あれ、一匹足りないぞ」と言う場面があるのですが、それは正しくないと思います。羊飼いは、たとえ羊が五十匹いても、百匹いても、一匹一匹に名前をつけ、羊を囲いに入れるときには、一匹、一匹その名前を呼びました。私たちの羊飼いであるイエス・キリストも、同じです。世界に八十億の人々がいても、人々を数字で数えたりはしません。ひとり、ひとりの名を呼んでくださるのです。番号で呼ばれるのは囚人だけです。イエスは私たちを囚人のようには扱いません。「八十億分の一」としてではなく、かけがえのない人格として扱ってくださるのです。
羊を囲いに入れるのはたいてい夕暮れです。羊飼いは、いなくなった羊を捜しに行くのですが、夕暮れになってから野山に出ていくのは、羊飼いにとっても危険なことでした。しかし、羊飼いは「他に九十九匹いるのだから、一匹くらい失ってもしょうがないか」とは考えませんでした。危険を冒してでも、いなくなった一匹を熱心に捜し求めました。この羊飼いの姿は、失われた者を捜し求めてやまないイエス・キリストの姿を描いています。イエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)と明言しています。ひとりひとりは、イエス・キリストが、捜し求めておられるほどに、愛されている人たちなのです。
ある教会を訪ねたとき、廊下の掲示板に小さな鏡が貼ってありました。そして、その鏡の枠に、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」(ローマ14:15)と書いてありました。その鏡を覗き込んだ人々は、その鏡に自分の顔を見て、私は「キリストが私のために祈りをささげてくださったほどに、愛されている、価値を認められている」ことを心に刻んだことでしょう。
アメリカの子どもたちは、日本の子どもたちよりも、自分が「かけがえのない、愛されている」存在であることをよく知っているように思います。それは、健全な「セルフ・エスティーム」を持つよう、教えられているからです。日本では親が自分の子どものことを良く言うと「親ばか」だと言われ、自分の配偶者をほめると「のろけている」と言われます。自分の価値も、他の人の価値も認められないので、劣等感に陥ったり、他の人をけなして自分が上になろうとする誤った方法で優越感を持とうとします。それは、人を愛してくださる神を知らず、自分も他の人も神に愛されている存在であることが分かっていないからです。そして、それが不幸な世の中を生み出すのです。私たちは一人残らず神に愛されている。私たちは、世界中のすべての人に、とくに、愛の神を知らない、日本の人々にそのことを知って欲しいと、心から願っています。
三、受け入れられた存在
第三に、イエスは、「この人たちは、神に受け入れられた人々である」と答えました。羊は神のまきばに戻り、銀貨は宝石箱に戻り、息子は父の家に帰ってきたのです。羊を見つけた羊飼いは大喜びで、友だちや近所の人たちを呼び集め、その喜びを分け合けあいました(ルカ6節)。銀貨を見つけた女の人も、友だちや近所の女性たちを呼び集めて、「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言いました(9節)。息子を取り戻した父親は祝宴を開いています(24節)。これは皆、天での喜びを表しています。イエスは「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:7)と言っています。
パリサイ人や律法学者は、イエスとともにいる人たちを「罪人」と呼びましたが、イエスは、彼らを「失われた人」と呼び、その「失われた人」に注がれている神の愛を語りました。イエスと一緒にいる人たちが罪人だとしても、彼らは「悔い改めた罪人」であって、神は、なによりも罪人の悔い改めを喜び、悔い改めた者を受け入れてくださると言いました。神が人の悔い改めを喜び、悔い改めた人を受け入れてくださることは、聖書に、すでに書かれていたことでした。エゼキエル書にこうあります。「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。──神である主の御告げ。──わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。…』」(エゼキエル33:11)聖書の専門家を自称していたパリサイ人や律法学者が、この言葉を知らなかったわけはなかったでしょう。この聖書がイエスによって実現しているのを、目の前で見ながら、それを受け入れなかったのです。
人を「罪人」だというなら、すべての人は罪人です。パリサイ人や律法学者は、自分たちは「義人」だと主張しましたが、聖書によれば「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)のですから、彼らもまた「罪人」だったのです。私たちは皆罪人です。しかし、悔い改めた罪人と、悔い改めない罪人がいます。神の国は、悔い改めた罪人によって成り立ち、人々が悔い改めて神のもとに帰って来るとき、そこに大きな喜びがわきおこるのです。私たちが味わう神の国の喜びは、罪人であった私たちが、神に受け入れられ、神が私たちの悔い改めを喜んでくださることにあります。
私たち皆が、この喜びに導かれていきましょう。イエスは失われていた私たちを取り戻すため、捜し出して救うため、あの十字架を背負ってくださいました。キリストは「…自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:24-25)この御言葉がひとりびとりに成就しますよう、心から祈ります。
(祈り)
私たちを愛し、捜し求めてくださる神さま。栄光に満ちた神の国が、悔い改めた罪人によって成り立っている。不思議なことですが、それは、神さま、あなたが、私たちの悔い改めを喜び、主イエスのゆえに、悔い改める者に赦しを与えてくださるからです。きょうもそのことを信じて、失われた者の救いを喜び、また、さらに多くの人の救いを祈り求めることができますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。
9/13/2020