12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
ここに100ドル冊があります。本物ではありませんが、偽札でもありません。これは、福音を伝えるためのパンフレットで、“Money Tract” と呼ばれています。その裏にはこう書かれています。「お金で、ベッドは買えても眠りは買えない。本は買えても頭脳は買えない。食べ物は買えても食欲は買えない。飾り物は買えても美しさは買えない。家は買えても家庭は買えない。薬は買えても健康は買えない。贅沢は買えても文化は買えない。楽しみは買えても幸せは買えない。十字架のペンダントを買えても救い主は買えない。教会の座席は買えても天国の場所は買えない。」その通りで、これらは確かな事実なのですが、お金さえあれば何でも手に入ると思っている人は少なくありません。そういう人はお金では買えない大切なものを見失っています。ある大金持ちが、死の直前に「カネはいくらでも出す。命を助けてくれ」と叫んだそうですが、もちろん、それは無理なことです。命はお金では買えないものだからです。きょうは、イエスのたとえ話から、自分を生かしているものが何なのかを考えてみたいと思います。
一、金持ちの悩み
このたとえ話は「ある金持ちの畑が豊作であった」(16節)という言葉から始まっています。この人はすでに十分に金持ちなのに、その上に自分が持っている畑が、今年も豊作だったのです。財産のあるところにはさらに財産が増し加わるという、この世の現実がよく描かれています。
それで、この金持ちは「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない」(17節)と心配しはじめました。贅沢な悩みです。多くのものを持つと、それだけ悩みや心配ごとが増えるのです。今日のたとえ話のすぐあとでイエスは「何を食べようか…、何を着ようかと、…心配したりするのはやめなさい」(ルカ12:22)と言われました。それは、食べ物にも着る物にも事欠く人々に対して、神が必要なものをくださると教えているのですが、現代の裕福な人々もまた「何を食べようか」と思い煩っています。「フレンチにしようか、イタリアンにしようか、チャイニーズにしようか」というわけです。クローゼットにたくさんの服を持っている人も「何を着ようか」と、服を選ぶのに悩んでいます。「何を食べようか…、何を着ようか」という心配は、貧しい人だけのものではないのです。多くの財産を持つ人の中には、株が暴落しないだろうか、事業に失敗して、一夜にしてホームレスにならないだろうか、自分の邸宅のセキュリティを破って強盗が侵入しないだろうかと、戦々恐々としている人も多いことでしょう。
聖書は財産を否定していません。正しい手段で得た財産は神の祝福のしるしだと教えています。しかし、自分の財産に頼って神を忘れる、財産を保つために思い患いを増やす、それが原因で家族や友人とのいさかいが生じるのなら、自分が管理できる分だけに減らして、できるだけシンプルな生活を目指すのがいいのです。人生は時間で成り立っています。人の人生にはそれぞれ限られた日数しかないのです。その貴重な日数を、必要以上の金銭を得るために使ってしまうのは、「もったいない」ことなのです。
二、金持ちの解決策
この金持ちは「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない」と心配しましたが、即座に、その解決策を発見しました。そして、言いました。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」何も今まであったものを壊さなくても、その隣にもう一つ建てればよかったと思うのですが、彼は一つの大きな倉に自分の財産をすべてをしまいこもうとしたのです。豊作が続いて、その大きな倉が穀物で、毎年いっぱいになっていく光景を、彼は思い浮かべたことでしょう。そして、こう言いました。「たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」(19節)
ところが、神はこの金持ちに言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(20節)彼に神の裁きが臨んだのですが、いったい、この金持ちのどこが悪かったのでしょうか。
一つのことは、神を無視したことにありました。彼の人生を、ほんとうの意味で豊かにし、幸いで満たしてくださるのは神です。それなのに、彼は、自分を生かしているものが、彼の財産だと思いこんでいたのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた」(19節)との言葉がそれを表しています。彼は、自分の命が、その財産によって支えられていると思い込み、倉の中の穀物が増えれば増えるほど寿命が長くなるとさえ考えていたのです。しかし、人を生かすものは財産ではありません。イエスは「人のいのちは財産にあるのではない」(15節)と、はっきり言っておられます。私たちに命の息を吹き込み、私たちを生かしておられるのは神です。神がそれを取り去られるなら、私たちの命はたちまち終わってしまうのです。この金持ちは命の与え主である神を忘れていました。
二つ目は、人生の意味と目的を見失っていたことです。彼は言いました。「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」ここでいう「安心」は、本物の「平安」ではありません。たんなる気休めです。「食べて、飲んで、楽しめ」というのは快楽を指していて、本当の「喜び」を意味していません。私たちがこの世に生まれ、ここに生かされているのは、そんな束の間の快楽に浸るためではありません。たとえ日々の生活が厳しいものであっても、そこに神から来る「平安」を見つけて生きるためです。この世の楽しみからほど遠かったとしても、たましいのうちに「喜び」を感じ取るためです。
イエスは、世の終わりについて、こう言われました。「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(ルカ17:26-27)ノアの時代、人々は洪水が来ることを気にもかけず、「食べたり、飲んだり」していました。そのような人々に、その世代の終わりが臨んだのです。「食べたり、飲んだり」、つまり、地上の事柄だけに没頭する人生を送っている人に、「人生の終わり」が突然のようにしてやってくるとき、その人はどんなに後悔しなければならないことでしょうか。
三つ目に、この金持ちは、極めて利己的な生き方をしていました。それは彼の言葉の中に見ることができます。彼は言いました。「どうしよう。〈わたしの〉作物をたくわえておく場所がない。…こうしよう。あの〈わたしの〉倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、〈わたしの〉穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、〈わたしの〉たましいにこう言おう。」日本語では訳されていませんが、作物、倉、穀物の全てについて「わたしの…」、「わたしの…」と言っているのです。どれも神からの贈り物であるのに、自分一人の力で得たかのように思いあがり、それを独り占めしようとしています。最後には「〈わたしの〉たましい」と言っています。「たましい」には「命」という意味もありますので、彼は、命が神からの賜物であることを否定して、まるで、自分が自分を生かしているかのように考えていたことが分かります。
三、金持ちのたとえから学ぶもの
皆さんは、このたとえ話からどんなことを学びましたか。これは、私たちに、どのような人生を送るよう教えているのでしょうか。
第一に、「賢い人生」を送ることです。この金持ちのたとえには「愚かな金持ち」(“Rich Fool”)というタイトルがついています。神がこの金持ちに「愚か者」と言われたからです。この金持ちは、人間的には、才能も才覚もありました。だから、彼は大勢の小作人を持つ地主になり、畑の管理も良かったので大きな収穫を得たのです。しかも、大きな収穫を得たからといって浪費せず、将来のためにそれを蓄えようとしました。ですから、本人も、他の人も彼を「賢い人」とみなしていたと思います。しかし、神は彼に「愚か者」と言いました。人として知らなければならない最も大切なことを知らなかったからです。この人もユダヤの人でしたから、知識としては神を知り、宗教儀式を守り、神の言葉を聞いていたでしょう。しかし、彼は、自分の人生から神を締め出していました。聖書は「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(詩篇14:1、53:1)と言います。また、「主を恐れることは知識の初め」(箴言1:7)と教えています。神が私の造り主であり、私を生かし、養い、支えてくださっているお方であることを知る、これが知識の初めです。物事や人間関係をうまくやり繰りしていく知恵や技術があるからといって、その人がほんとうに賢いとは言えません。神を知らないために、いや、知ろうとせず、認めようとしないために、そうした知恵や技術がかえってその人の仇となることもあるのです。
第二に、感謝のある人生を送ることです。この金持ちは、大きな収穫を得て喜びました。農業の場合、大きな収穫を得ることができるのは人間の力だけにはよりません。その年の天候、気象が大きく作用します。せっかくの実りが収穫前にいなごに食い荒らされてしまうこともあります。神の守りと祝福なしには、どんな収穫も得られません。ところが、この金持ちは、まるで自分がこの収穫をもたらしたかのように収穫を自慢し、得意になっています。まずは収穫の初物をささげて神に感謝しなければならないのに、彼の言葉には「感謝」の「か」の字さえありません。感謝のない人生ほど、虚しい人生はありません。その人生は、この金持ちのように高慢な生き方を続けて、最後に神に打たれるか、毎日を不満の中に過ごすかのどちらかで終わってしまうのです。
第三に、このたとえ話は、神から与えられた祝福を他の人と分け合う人生を教えています。このたとえは、貪欲を戒めるために語られたものですが、「貪欲」の反対は「分かち合い」です。貪欲とは、すべてを「わたしのもの」と言って、独り占めすることです。この金持ちには、倉に収まりきらなかった収穫を、人々と、とくに貧しい人々と分け合うという選択もあったのですが、彼はそれを選びませんでした。彼は、倉に入り切らない収穫について、それをどうしたらよいか神に祈って尋ねていませんし、他の人とも相談していません。自分ひとりで、「どうしょう」と問い、「こうしょう」と答えています。神や他の人との対話も会話もない、まったく彼の中だけでの独り言で終わっています。彼のように、自分の思いを誰とも分かち合うことなく、自分の考えから一歩も出ない生き方は、人生を誤らせてしまうのです。
私たちの人生をほんとうに豊かにするものは、どれもお金では買えないものばかりです。最初に紹介した “Money Tract” には続いてこう書かれていました。「お金で買えないものを、イエス・キリストは私たちに無代価で与えてくださる。」イエスは、ヨハネ10:10で、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と言っておられます。賢こい人生、感謝にあふれた人生、他の人々と分かち合いながら生きる豊かな人生は、イエスから来るのです。主がくださるこの豊かな人生を、イエスを信じることによって、受け取ろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、イエスは私たちの貪欲を戒めるため、たとえを語ってくださいましたが、そればかりでなく、貪欲を含む罪から、私たちを救うため、その尊い命を注ぎ出してくださいました。その命を私たちに与え、私たちを生かしてくださいました。私たちは、きょう、もう一度、イエス・キリストに信頼します。私たちを、イエスが与えてくださる豊かな人生に生きる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
1/30/2022